第四十話:職業適性
9月25日(MON)
外の空気が吸いたくなって、人と会う可能性のない最近のお気に入りスポットを思い浮かべた。板張りの床を歩いて、非常階段へ出る。EXITマークの緑色の光をぼんやり視界の上方に捉えながら、重たい鉄扉を開けると、大きな音を立ててまた閉める。赤錆に侵された鉄製の柵に囲まれた、階段の踊り場で小さく息をはいた。
128万。城山が初めて手にした、いや正確には手に入れる予定の給与である。明細をもらって、先に額を知ったものの、未だ勤務中であるから、すぐさま引き出したりということは出来ない。
多いと捉えるべきか、少ないと捉えるべきかは、人によるだろう。
この一月近く、がむしゃらに働いた。休日など数えるのに片手で足りる。アルバイト感覚で勤まるものではなかった。何度やめてやろうかと思ったか知れない。来る日も来る日も、つまらない職場に詰めさせられ、退屈な時間をすごす。実はこれが一番辛いことだというのがわかった。いつスクランブルが入るかわからない状態で、いわば宙ぶらりんな精神状態で、娯楽に興じるにも何処か身が入りきらず、結局寝るか、じっとしていることが多かった。そしていざ出動すると、いやがうえにも命の取り合い。十河とのチームワークは、楽な部分もあるが、面倒な部分もある。今までにも荒事の経験がなかったわけではないが、少なくとも誰かと共闘するというのはあまりないことだったので、ストレスや不自由も少なくない。
鉄の柵に背を預けながらタバコに火をつける。
がんばった、と思う。査定を特例で受けさせてもらってからは、少し給料が上がったという説明だった。結局本来の相手を倒すことは出来なかったが、それでも評価はされたということである。実力には素直な数字が帰ってくる仕事。それをやりがいと定めるしかないのかもしれない。十河のように心に正義を灯すわけでもなく、真田のように目的意識を持っているわけでもない。ただ金が欲しい。それだけなのだから、これ以外に喜ぶべきこともない。実際に反映されたその額については、やはり客観的に考えると少ないという思いもある。だが今の状況を思えば、初任給で十分に一月暮らせるだけの報酬を払ってくれる場所などないわけだから、これでよかったのだとも半面思う。あまり多くを望んではいけない。あまり高くを望んではいけない。自分なぞ人より効率的に生物を壊せるという点を除けば、ただの怠慢な大学生でしかない。
少し秋の匂いを含んだ風が前髪をいじって吹き抜けていった。セミの演奏会も旬を過ぎ、先日などはアキアカネを見かけた。
まあ普通にやっていけてるんじゃないか。対人関係のことである。十河も組み始めた当初よりは幾らか柔らかい対応を見せてくれるようになった。真田の言を信じるなら、心を開きかけているそうだが、真偽のほどは知らない。その真田ではあるが、あまり接点がなく、相変わらず馬車馬のようだ。申し訳ないという思いは依然少し残るが、経緯を詳しく聞くと自分から埋め合わせを買って出たということなので、あまり気に病むこともないのかなと最近は割り切っている。三好については上司と部下という形でそれなりにやれていると考える。もちろん例の件は他言はしていない。総じて五十点。あまり踏み込まず、踏み込ませず。それなりに、それなりに。
「かあ、ぺっ」
タンをひとつ吐き出す。だらりと口元から糸を引いて切れないので、加えて唾を吐く。鉄階段のギザギザに流れるでも広がっていく、白く泡立った唾液を見つめる。
生き物を殺す感触、斬る感触。肉を抉り、切り分け、骨を壊す、断ち切る感触。澱のように心の底に溜まっているような気がする。これがうずたかく溜まっていくと、一体自分はどうなるのか。清浄な、正常な部分がなくなって、全体が濁ってしまうのか。頭がおかしくなってしまうのか。
疑問がある。奴らは滅すべき存在なのか。奴らは、ただ自分の食欲を満たすために行動しているものが大半だ。少なくとも獣タイプと呼ばれるようなのは、そうだ。ライオンの子供は動物園で耳目を集めるが、もしその大人が街中で捕食に走れば、すぐさま銃殺されるのだろう。善も悪もすべて人間の目を通してしか語られない。奴らはただ純粋に本能や欲望に恭順なだけである。だったら、奴らのその食欲の犠牲になるのか、という話になる。それは無理だ。自分には破滅願望はなくて、守るべき存在がある。弱肉強食の摂理に忠実な奴らの土俵では、自分が強ければ奴らを殺す権利がある、ともわかっている。だが、やはり自分の知らない人間、そういった人間が食われるのを積極的に阻止しようという気持ちが湧かない。そういう人間に牙を剥くからといって悪だと決め付けるのには抵抗がある。自分は奴らを率先して屠るが、現場にあって、それは自分や一応パートナーである十河の身を守るためで、ただの一度もまだ見ぬ他人の危険の芽を未然に摘むという意思を持ったことはない。どころか弱肉強食のセオリーに則るなら、力がないのだから食われても仕方ないとさえ思ってしまう。わかっている。矛盾を孕んでいることくらいはわかっている。そういう理論でいけば、奈々華にだって力がないのだから食われて然るべきということになってしまう。だがそれは、許さない。結局、ひどく偏愛なのだ。顔も知らない人間がどうなろうが知ったことでないが、ひとたび気に入った人間を守り助ける為には、至極平然と命すら張る。おかしい。どこかずれている。捻じ曲がっている。知っている。
多分、向いていないのだろう。根本的に、この仕事に向いていないのだろう。命を賭けろとまでは言わないだろうが、少なくとも気には掛けないといけないだろう。その関係のない、面識の無い、情の湧かない、他者にも、そうしなければならないのだろう。無理だ。多分これから仮に一生この仕事を続けていくことになったとして、きっと最後まで出来ないだろう。例えばもし、奈々華と、まったく知らない人間が同時に危険に晒されれば、恐らくは両者を助けられる可能性の模索すらしないだろう。真っ先に妹の安全を確保しに動く。城山仁という男はそういう人間である。
短くなったタバコを落として踏み消す。
まあ、今のところはどうにかなっている。つまり民間の犠牲者は一人も出していない。だけど、これからそういうことになる可能性は、今の精神性だったら小さくないかもしれない。そうなったらそうなった時だ、と開き直ったような考えを持っている。そこでクビになったら、そのときはそのときだろう、と。
ぽんと弾みをつけて、もたれていた鉄柵から背中を離す。今月最後の勤務に戻ることにする。