第三十九話:CAN’T UNDERSTAND
唯一の懸念材料は払拭されたといって良さそうだ。
三好ハルは北側の小窓から差し込む斜陽に目を細めながら思った。彼の性格から言って、あそこまで言質が取れれば他言しないというのは本当だろう。そも、彼の言葉通り、あまりメリットのないことを率先してやるタイプには見えない。
「冷たくはないのかも知れないけど」
実際、あの合理主義的な考え方が、仮面なのか本当なのか、判断しかねた。だが、一つ言える事は、どちらにしても自分には都合が良かった。これが乃木のような愉快犯だったとしたら。榎のような自分に少なからず反感を持っている人間だったら。考えるにぞっとする。今となっては、同伴したのが城山でよかったとさえ思えてくる。もちろんベストは十河なのだが、ベターくらいには思っても良さそうである。
どこまでが返礼で、どこまでが釘刺しだったのか、自分でもわからない。助けられたのは事実だし、その後のケアも、ひどい話題ではあったが、励まそうという意思は感じ取れた。よくよく考えてみれば、自分の失態よりも酷い失態を話してみせることで、相対的に元気付けようという作戦だったのかも知れない。だが同時に、あの阿呆にそこまでの深い考えがあるだろうかという疑問もある。
次に考えるのが方法論。あれで良かったのだろうか。困惑するばかりで、あまりありがたがられなかった。例えば今後も弁当を作ってやろうか、と提案してみても、おそらくは断られただろう。悪いですし、外に食いに行くのも好きなんですよ。そんな台詞を申し訳なそうに口にする彼の顔が目に浮かぶようだ。自分が随分恥ずかしいことをした気がしてくる。これでは自分が城山に好意を抱いているかのようではないか、と。実際女が手料理を振舞うとなれば、少なくとも相手の男を憎からず思っている場合が圧倒的に多いのではないか。
頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。調子が狂っているのは、昨日の不測の事態から継続して。どうしてあんな手段に出てしまったのか。男を懐柔するには手料理が一番だ、という狭くてわけのわからない思考の沼に漬かってしまってそこから抜け出せないまま今日を迎えてしまった。恥の上塗りをしてしまったのではないか。冷静な表情で、ご馳走様と言った城山を思い起こす。馬鹿のようだ。どうして自分ばかりが顔を赤くしたり青くしたりしているのか。返礼と言うことで良いじゃないか。現に彼にもそう説明したじゃないか。そしてついでに念を押しただけ。たったそれだけなのだから、いつまでも考えるようなことでもない。早く忘れよう。それがいい。
「三好さん」
「うはああい!」
突然ふすまの向こうから声をかけられて、三好は心臓が跳ね上がった。向こうから、逆にこちらの声に吃驚したような様子が伝わってくる。大丈夫ですかと気遣わしげな声は、十河のものだった。この場合についても、ベストだった。
なんでもないことと、入室の許可を立て続けに告げると、開いた襖からおずおずと彼女の顔が覗いた。用向きを尋ねた。
「昨日城山の査定を行いましたよね?」
「え、ええ」
ぎくりとした。行ったは行ったが、思わぬ闖入者のせいでそれどころではなくなってしまって、本来の標的であるところのビッグキャットにも逃げられてしまった。
「どうでしたか? もう終わりましたか?」
この場合は、テストの採点のようなものである。何も査定してすぐにつぶさに点数をつけるわけではなく、その後色々な考察を加えながら吟味していくものであるから、本当の意味での完了には少し時間差がある。
「ええ。まあ」
そして実際終わってはいた。昨日早めに帰ったのも、何も料理のためだけでもなかったわけだ。
「どうでしたか?」
「あのねえ。こないだは場合が場合だっただけに、特別に見せたけれど」
「わかってます。けど」
気になってしまって、と小さな声で付け足す。
「そうねえ。基本がなってないわね。まず」
三好が仕方なしに、差しさわりの無い範囲を話し出すと、十河は勝手に三好の対面に座って、すっかり聞きの体勢に入ってしまった。
「隔離世が展開されて、真っ先にするべきことは?」
「え? えっと、自分たち以外の標的が居ないか、つまり一般人が巻き込まれていないかの確認、ですよね」
たとえ目前に敵が居ても、いったん距離を取って、周囲の観察にあたるべき。鉄則である。
「あの男、首をピクリとも振らずに、ビッグキャットを見ていたわ」
非戦闘員の三好が居たというのはあまり言い訳にはならない。何せ……
「相手はあまり害のないビッグキャットよ? わたし一人置いて距離を取ったって、ただちに何かされることはない。そういう意図で選んだ相手だし、事前にそういう説明をしたの」
「なるほど」
「だというのに、少しオナラをされただけで、殺さん勢いで追い詰めにかかるし」
「はあ」
「まあ、敵の撃退方法については、色々あるし、一概に殺処分にしてしまうのが悪いとも言わないけどね。でも何なのかしらね、あの野蛮人は」
「はあ」
「わたしにいつも下品な話を振るくせに、ちょっと妖魔に悪戯されただけで、あんなに怒るなんて、身勝手じゃないかしら」
「はあ。多分城山も本気で殺してしまおうと思っていたわけではないと信じたいですが」
「どうかしら。人間性に問題ありよ」
さっきから支離滅裂である。あの手の妖魔の退治方法は当該職員に一任されていると言ったばかりである。フラワーマンの例のように、活動を停止させるだけでは、根本的解決には至らないことも多く、殺害が手っ取り早いのも事実ではあるのだ。
「あの。何をそんなにイライラしているんですか?」
「イライラなんてしてないわよ」
どんな表情をしていいかわからない、と言った風で十河が対面の顔を見る。
「それじゃ、人間性については下げたんですか?」
「……」
「三好さん?」
「細かいことは言えないわ」
実は上げてしまっている。こんなことなら下げてしまえば良かったと今日になって思うが、生憎と修正液を切らしてしまっている。
「そうですか…… あの」
「何?」
ぶっきらぼうな返事に、十河は更に別方面から探りを入れてみようかと思っていたが、言葉を変える。早めに退散したほうが賢明なようだ。
「あまり私情を挟まれるのは良くないと思いますが」
「挟んでないわ」
「はあ。まあそこまで悪い人間でもないかも知れませんし、多少ルーズで馬鹿なのは大目に見てあげませんか?」
「……随分肩を持つのね?」
「え! いえ、そういうわけでは」
口ごもってバツが悪そうにしている十河の顔をしばらく見つめる。あのような男に懸想するなど、理解が出来ない。もっとも、彼女本人から内心を聞いたわけではないが、恐らくは当たらずとも遠からず、だろう。女の弁当をケロッと胃におさめてしまうような愚か者を、よくも。
「まあ、いいわ。査定は公平に行いました。基本的なことは引き続き貴方が教えてあげなさい」
それで話は終わり、という風に口を引き結んでしまう。十河はまだ色々と思うところもあったが、結局上司のなぞの剣幕に押されて、そのまま部屋を去っていった。