第三十八話:サラダがあるから付け合せの野菜は蛇足
9月14日(THU)
警備員室の小窓から、五十代くらいの警備員が硬い笑顔を向ける。白髪まじりの頭はロマンスグレートと言ってやるには、少々本人に気品が足りない。少し笑うと、八重歯のかけた歯列が見えて、それがみすぼらしかった。午前中に出勤するとよく見かけるもので、城山は顔を覚えてしまった。向こうが覚えているのかは知らない。
とにかく愛想よく振る舞い、受付のノートに名前と所属を書いて、ご苦労様ですと声をかけて、エレベータに移動する。正面玄関から入るのと、駐車場からあがるのでは、通る道は違うが、終いにはこの警備員室の小窓の前で道が交差する。エセ大理石の床をうつむき加減に見つめていると、後ろから声をかけられる。
「お、おはようございます」
首だけ振り返り、挨拶を返す。
「ああ、おはようございます。今日は今から出勤ですか?」
「ええ。昨日は……」
三好は口ごもる。
「昨日は、あの査定が終わってから、少し書類を整理して、すぐに帰ったんです。多分貴方より先に帰ったと思います」
「なるほど」
多忙な彼女だが、時折そうして早く帰ることがあるのだろうか。休みなどはキチンとあるのだろうか。統括、指示をする立場の人間は、彼女以外見かけたことがなく、職務上丸々の休みというのは厳しいのではないだろうか。城山は色々と心配になる。
「その」
エレベータが到着する。二人分の足音が、カゴ室に吸い込まれる。昨日は一人分だったな、と城山はなんとなく思う。
「由弦にも話していないようですね」
「え? 何が」
「その……」
後ろ手に組んだ両腕がわき腹の辺りでもぞもぞしている。
「ああ。心配せずとも吹聴して回ったりなんて気はさらさら無いですよ」
「ええ…… ありがとう、ございます」
城山としては、そこまで恥じ入るようなことでもない気がする。体の反応としては仕方の無いことである。歳若い少女であろうが、老齢の男性だろうが。
七階に到着すると、城山が先に下りる。
「あの、パーカーですが」
そう声をかけると、後ろで持っていたカバンを前に持ってくる。ファスナーを開くと、中から綺麗に畳まれた城山のパーカーが顔をのぞかせる。どぶねずみ色の随分くたびれた感じのそれだったが、柔軟剤やらなにやら使ったのか、新品同様とまではいかなくても、それなりの見栄えに戻っていた。城山は正直な感想を口にする。
「お貸しする前より綺麗になっているというのも、それはそれで変な気分ですね」
「ちゃんと洗っていたのですか? 変な匂いもしましたし」
「変な匂いは……」
城山は危うく言ってはいけないことを言いそうになった。
「タバコとか諸々まじったものでしょう」
意味ありげな間に気づいた風でもなく、三好は大げさなため息を一つ。
「まあ、男の人なんてそんなものかも知れませんね」
そして話題転換。
「そうそう。ところで、以前お話していた刀の件ですが、今日にも届く手筈になっています。後で…… そうですね。お昼ごろ、お手数ですがわたしの部屋までいらして頂けますか?」
「はあ。もう届くんですか。わかりました」
それでお開き。城山は広間のカードリーダに向かい、三好はそのまま自室へと向かった。
業物とまでは言わないが、決してナマクラではない。それくらいの印象しか抱かなかった。もともと刀の造りや種類に造詣が深いわけでもなく、まして興味があるわけでもなく、出来れば持ちたくなかったくらいのものであるから、必然的に雑感以外でてこない。
「無理言ったんですが、早く用意できて良かったです」
「ありがとうございます」
刀を鞘におさめながら、自分が礼を言っているのに違和感を覚えた。
「これからの一層のご活躍期待しています」
城山の微妙な感情に気づいた様子もなく、三好は満足げに二度三度、首を縦に振った。
「用向きはこれで終わりですか?」
城山は膝を立てる。
「あ、待ってください」
弾かれたように三好が立ち上がる。机のほうへ歩んで、紙袋を持ってもとの座布団に座りなおす。その動作が異様に速く、城山は思わず軽く身構えた。紙袋はちゃぶ台の上に置かれている。オレンジのそれはどこかのケーキ屋のものらしく、草書体が気取った雰囲気を醸し出している。
ごそごそとその紙袋の中を漁ると、三好の両手がそこから二つの弁当箱を引き抜いた。デフォルメされた猫のキャラクターシールが貼られたものは少し小さめ。グレーのアルミ製のものはそれより幾らか大き目。新品然としていて、というより新品そのものらしく、キャラクターシールの代わりに、蓋のあたりに性能を誇示する販促シールがついている。コンパクト、錆びにくい。そんな文言のそれを、三好は慌てたように捲り取った。そして取り繕うような笑顔で言う。
「お昼まだですよね?」
「ああ、まあ」
手製の弁当をご馳走してくれる、という流れなのはわかるのだが、どうして、という部分が判然としない。だがすぐに答えは三好の口から語られる。
「昨日は、ご迷惑をお掛けしましたから」
「ああ。なるほど」
それで新品の弁当箱まで用意して。
「ひょっとしてこの職場では、恩には飯で返す、とかいう習慣があるんですか?」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
目の前に差し出された弁当箱に改めて視線を注ぐ。どうぞ、と言われたので、ふたを開ける。
白米に、のりたまのふりかけ。おかずの方は、焼き魚の切り身、鮭だろうか、紅く張りのある身が食欲をそそる。定番の卵焼き、豚の角煮、ツナサラダ。端でみずみずしいレタスとプチトマトが一団を形成している。
「鮭は味付けの好みがわからなかったので塩分控えめの薄味にしてます。卵焼きは少し甘めになっていますが、わたしが甘党だという理由だけではなく、一般的な味付けに近いのではないかと推測した次第です。角煮は一番苦労したのですが、時間があまりなかったので、ちゃんと味が染みているか不安です。サラダはきゅうりとツナをマヨネーズで和えただけの極々簡単なものです」
聞いてもいないのに、長広舌を振るう三好に、城山は唖然とした。十河のように口数が少なめだという印象があるわけではないが、このような早口の長い台詞を彼女から聞いたのは初めてだった。
「は、はあ。ご苦労様です」
城山がぽかんとしたまま、彼女を凝視していると、段々恥ずかしくなってきたのか、やんわりと頬や耳が赤くなっていく。
「とにかく、どうぞ。返礼ですから、遠慮なく召し上がってください」
所在無く空気を掴んでいた箸を見て、三好が促す。城山は困惑顔のまま礼といただきますを口にして、箸をつける。
「どうですか?」
「ええ。美味しいです。地上の食べ物とは思えません」
「それは大袈裟すぎます」
くだらない遣り取りをしながらも、城山は食を進めていく。超のつく早食いを任じるだけあって、その動きはすばやく、五分ほどでカタをつけてしまう。
「おいしかったです。ご馳走様」
合掌。たちまち体がタールを欲する。
「いえ」
三好はその様に口元を緩めていたが、すっと笑みが小さくなる。そして何か言いたいことがある、という顔をした。あの、と口にするが、中々先が出てこない。本当はじっくり待ってやるべきなのだろう、とは思いながらも、早く辞してタバコを吸いたい。
「何ですか?」
「えっと、返礼と言っておきながら、またお願いがあるのですが」
城山は目だけで促す。
「あの、昨日のこと、他言無用にしていただきたく」
ああ、と城山。そんなことか、と。
「さっきも言いましたが、別に誰かに話す気なんてないですよ」
「本当ですか?」
三好の口調には疑った感じは無い。ある程度は城山のことは信用しているようだ。それでも念入りに口止めをお願いしたくなるのは、彼女もお年頃ということだろう、と城山は結論付ける。
そういえば。その年頃の異性に手作りの弁当を振舞われたというのに、自分の心に浮き立った部分がないのに気づく。もちろんありがたくはある。他意もなくはないが、それでも自分のためにわざわざ面倒を被って拵えたのだ。感謝の気持ちが湧くのは人として当然かもしれない。だが、例えば相手が男であったとしても、同様の感謝を抱いただろう。つまり人対人の、言い方は悪いが最低限のものでしかない。もともと付加価値というものに対してあまり頓着しない人種ではあるが、それにしても色気のない話だと、内心苦笑する。いつからこんなに冷めてしまったのだろうか。