第三十七話:CAN’T REACH HIM?
メールで済ませようかとも思ったが、こちらの都合で待たせているのだから、少し失礼な気がして、城山は電話をすることにした。かけてすぐ。いやまて、そう何度も電話をする方が迷惑じゃないかと背反した気持ちを抱いた。査定に向かう前にもかけていた。切ろうか切るまいか踏ん切りがつかないうち、呼び出し音三回を挟んで、電話がつながった。もしもしと応対する奈々華の声には険が無く、城山は安堵した。気づけば携帯を握る手が、じっとり汗ばんでいる。
「もしもし。今ビルに戻って、少し野暮用を済ませたら、すぐ向かうから。うん。一時間ちょっとで行けると思う。うん。ごめんね。うん。ありがとう。はい。はい。それじゃあまた、後で」
話を終えると、城山はふうと息をはいて電話を切った。
「どちらにかけていたんですか? 随分緊張していたようですけど」
「そうですか?」
声にハリがない。飄々とした感じで言おうとして、失敗した。
「ええ。どこぞの大統領と話すのかというくらい」
「大統領にタメ語のわけがないでしょう」
城山はあくまで空とぼけるつもりだった。背中の声の主を、よっこいしょと背中に乗せる。太ももの柔らかい肉が指先に食い込む感触。今はビルまで戻ってきて、車を駐車場に入れ、まだ歩行に不安が残るという三好を再び運搬し始めるところ。
「……妹さんですか?」
「……」
そういえば。三好には家族構成まで調べ尽くされているんだった、と城山は渋い顔をする。
「隠すようなことでもない気がしますが?」
大方、シスコンだと思われるのが嫌で隠していたと推測しているのだろう。そんなことを恥じるのは違うのではないかと諭そうとしているのだろう。そうじゃない。言ってやりたかったが、結局城山は沈黙を選んだ。背の三好がいぶかしんで、何かに気づいたような雰囲気。まさか事情まで察したわけでもないだろうが、何か自分が踏み込むべきじゃない領域に足を突っ込みかけたことを悟ったのだろう。
エレベータの前に立つ。カゴ室が降りてくるまでの間、嫌な種類の沈黙が流れる。やがて到着を告げるチャイムが鳴って、難しい顔をしたまま乗り込む。
二階、三階、四階、五階、六階、そして七階。
「シャツ…… 洗って返します」
「洗わないで返してください」
「洗って返します」
語尾とチャイムが重なった。
「城山奈々華は兄を待っていた」
ぽつんと呟いてみた。それが今現在だけの話ではないような気がして、何か象徴的な意味合いを持っているような気がして、もう一度口にしてみようかと思いかけて、やめた。虚しく、惨めな気がした。
兄からの電話を思い出す。どこか不安げな、なにか精神的な圧を受けたような、そんな声音だった。多分、あの泰然とした兄をあそこまで追い詰められるのは、世界で自分ひとりだけだろう。
「嬉しくない」
むしろ最悪。そのことは、決して独占欲を満たすようなものではなかった。そこまで自分は歪んでいない、きっと。だから、そんな健全な精神の持ち主である奈々華は、好きな人には笑っていて欲しいし、間違っても自分の顔色ばかりを窺うようであって欲しくなかった。
ガタンと大きな音がして、奈々華は文庫本から顔を上げる。読んでいるというより字面を追っているだけだったが、この場所に居る以上やめるのも不自然だった。そして他にやることもなかった。
音を立てたのは、自分以外では最後の一人。彼女が椅子を引いて立ち上がったのだった。帰るようだ。机に置いていたカバンを肩に掛けて、奈々華に一瞥だけ残して、去っていく背中をぼんやり見つめる。これで図書室に残っているのは奈々華と、後は図書委員の女子生徒だけである。ちらりと部屋の掛け時計に目を向ける。五時過ぎ。ここのリミットは六時だったと記憶している。
平日。当然奈々華は学校へ通う。つまりは兄の送り迎えを必要とする。今日も今日とて、少しの嬉しさと、少しの申し訳なさを、ない交ぜにしたまま、放課後、自分の教室で兄のメールを待っていた。守られ、手間を掛ける身分であるから、本当は先に校門の方まで出て行っておいて到着を待つのが筋かと思うが、いやそんな事情がなくても彼女は兄が来てくれるというだけでそうしたい気持ちだが、それは出来ない。兄に言い含められている。自分が着くまで決して外へは出ないでくれ、と。そう、心配顔で言われ、事情も理解し、そのようにしている。やはり嬉しさと罪悪感をコインの裏表のように玩びながら、そうしている。それが彼女の日常となりつつあった。
だけど、今日に限っては、その限りではなかった。放課後を待たず、メールではなく電話が掛かってきた。丁度休み時間だった。仕事の方でどうしても外せない事態になっているから、申し訳ないが迎えは少し待って欲しい。多分六時くらいになると思う。そういう内容だった。
奈々華は一つの可能性をすぐに危惧した。全校生徒を強制的に下校させる時間、七時までに兄が間に合わず、自分が一人で帰ることになり、そこで妖魔に襲われる。そのことではなかった。それもまた少しは考えないでもないが、それよりも嫌なことがあった。必要以上の、いや必要外のと言ったほうが良いか、とにかくそういう責を感じてしまうのではないか。自分が兄の遅延に腹を立てる、という有り得ない考えに囚われ、萎縮してしまう可能性。それこそが嫌で、現実的だったのだ。すべては自分で蒔いた種が原因とは言え、これは彼女にとってとても辛いことだった。ややもするとそれこそが、辛いことこそが、自身の業に対する罰のような、そんな気持ちを抱いてしまうことすら、一概に荒唐無稽と鼻で笑うことも出来ないほどに……
電話が掛かってくる。カウンターに座る図書委員がちらりと非難めいた目で奈々華を見る。マナーモードにしていたとはいえ、机の上に置いていたので、ブーブーとブーイングのように音を立てたのだ。慌てて取り上げて操作する。兄からだった。
「もしもし」
「もしもし。今ビルに戻って、少し野暮用を済ませたら、すぐ向かうから」
声がカラカラしている。言葉の端々に申し訳ない、という感情が読み取れる。向こうの電話口で、兄がどんな顔をしているのか目に見えるようだった。
「……うん、待ってる。六時半くらい?」
やっぱりだ。どうして、どうしてこうなってしまうんだろう。奈々華は前歯でぐっと唇を噛んだ。
「うん。一時間ちょっとで行けると思う」
「わかった」
「うん。ごめんね」
「謝らないで」
お願いだから。
「うん。ありがとう」
「気をつけてね」
「はい」
「まだ時間じゃないから、慌てないで、安全運転でね」
「はい。それじゃあまた、後で」
奈々華は電話を切ると、カバンに文庫本を突っ込んで立ち上がった。図書委員のほうは見なかった。だが、ここに居るのもそろそろ限界だろうと判断した。
ただ図書室のドアに手をかけた時、これから一時間ほど、ここを出て、何処でどう過ごそうか、思いつかなかった。