第三十六話:下には下が居る
「何か、辞世の句とかあったら聞いてやるぞ?」
妖魔は答えない。大きな喉仏が動くこともなく、呼吸がされていないことが窺い知れた。
三好を宥めるている間に事切れてしまったらしかった。城山は少々残念そうな顔をして、手に持っていた鉄パイプを放り出した。大きな金属音が響き、三好は初めて彼が得物を手にしていたことに気づいた。駆けつける途中、偶然見つけたものだった。
「何を…… して?」
「ああ、いえ、ちょっと試してみただけですよ」
食えない笑顔で振り返る。三好は彼の返答に要領を得なかったが、城山はそれ以上語る気はないようだ。
三好がへたり込む壁まで歩み寄ると、半袖のパーカーを脱いだ。そして屈みこむ。
「何を…… して?」
期せずして同じ台詞をはく。
「いえ、その」
そのパーカーの袖を三好の腰の辺りに巻きつける。三好は驚いた。だが抗議の言葉は出てこなかった。口も体も未だショック状態から抜け切れていないようで、うまく命令が下せなかった。一瞬動けない自分に対して何かしようとしているのかと不安が脳裏を掠めたが、どうもそういう気配はなかった。
城山は黙々とその作業を続ける。思いの他、彼の頭が顔の近くにある。香料入りのワックスをつけているのか、汗の匂いに混じって良い香りがした。
城山はすっくと立ち上がる。座ったままされるに任せていた三好は、自分の腰に目をやる。一昔前に流行った腰にシャツを巻きつけるファッションのようだ。だが、それとの差異はある。ああいったのはシャツの大部分がお尻を隠すような格好だったが、これは間逆で、前を隠している。ふんどしのようだと三好は感想を抱く。ふんどしだろうが前掛けだろうがこの際どうでもよく、城山の意図が全く掴めなかった。
そこで三好は自身の下半身に違和感を抱く。妙に湿っている。一度意識すると、今まで気づかなかったのが不思議な程に、その感覚はビビッドだった。頭が真っ白になっていく。もしかして。いやまさか。でもこの感覚は。否定と肯定が脳内でせめぎ合う。だがその実、否定の方は、ただの現実逃避に近いことも、頭の隅では理解していた。自身の感覚、加えて城山の行動、合わせて考えれば、答えはひとつしかない。
消えてなくなりたい。三好は口の中だけで呟いた。
腰には未だ力が入らず、結局自力で立ち上がることは叶わなかった。失禁して腰を抜かして、小便まみれのまま男に背負われる。そんな日が来ることになるとは夢にも思わなかった。夢に見ることがあったとしたら、それは間違いなく悪夢で、そんな悪夢と大差ない、有り得てはならないような惨状が、今自分の身に起こっている。そう思うと穴がなくても手ずから掘って入りたい。そんな夢想をしてもなお治まらない羞恥が全身を襲っている。間違いなく人生最悪の日である。
城山の背中を見る。広く力強い。足取りも、妖魔と戦闘をした後とは思えないほど軽く、危なげがない。いたたまれなかった。彼の堂々とした雰囲気と、自分の醜態。彼らを統括する立場の自分が、これではどちらが上だかわからないというものである。
「音邑さんの予知も案外、案外ですね」
城山はさっきから沈黙が落ちそうになると、思い出したように言葉を紡いだ。気を使っているのか、気まぐれなのか、測りかねるのが、妙に居心地が悪かった。腫れ物に触るような気遣われ方よりはマシだが。
「ええ。彼の予知も万能とはいきません。大体、低目に見積もって…… 70パーセントというあたりですか。的中率は」
存外落ち着いているな、と自嘲したくなる。いつもと同じような調子で喋れているのだから、城山の話し掛けてくるタイミングは絶妙なのだろうと理解する。沈黙は気まずい。気を逸らそうと話しまくるのも逆に気まずい。その中間を保ち続けているのは、やはり彼のコミュニケーション能力の成せる業なのだろうと他人事のように思う。
「まあ結構当たるけど、外れることもままある、って感じの数字ですね」
城山は何とかリーチくらいかと呟いたが、三好にはわからなかった。
「……」
雑踏の喧騒。世界は元に戻り、帰還した二人は、十分な不審者たち。怪我した様子もないふんどし女を、男が背負って歩いている。奇異の目を向けられるのは一度や二度ではなかった。
また沈黙が落ちかける頃、城山の方から。
「しかし、あの妖人タイプというのは、おかしな奴が多いですね」
「そうですね。人に危害を加えないものも、珍しくないですから」
「でも、そういう奴等はどうやって食ってるんですかね? 人は食べないんでしょう?」
「ええ。ただわたし達も彼らの生態系を把握しているわけではないんですよ。というより、むしろどの妖魔についても詳しいことはわかっていない」
無理からぬことである。隔離世はあちらの恣意的なものであり、またその間しか彼らに接触する機会というのはないのだから。
そうですか、と城山が返事するとまた会話が途切れた。三好は気が萎えるのを感じた。抑揚のない声に、自分への呆れが含まれているような被害妄想に囚われた。さりげなく気を回しているというのに、こちらから積極的に会話をしようという意図が感じられず、城山の気を害したのではないかと。弱気になっている。わかってはいても、今の状態を鑑みれば、致し方ない。立場的優位など形骸に等しく、対等ですらない。威厳も何も失墜して余りある失態を見られ、今だってもし放り出されたら路頭に迷うほかない。情けない。泣きたくなる。
「僕は」
「え?」
また淡々とした口調。嬉しさがある。まだ見捨てられたわけではない。まだ話しかけてくれる。まだ気遣ってくれている。困惑がある。こういうとき、こういう調子で話し続けるのが、果たして長所なのか短所なのかわからなかった。冷たいような気もするし、これもまた気遣いの一環のような気もする。
「僕は、先月、ウンコを漏らしました」
「は?」
「屁だと思ったんです」
城山が首を少し回して横顔が見えた。ほんの少し口元が緩んでいた。
「でも違った。実が出たんです」
三好は最初わからなかった。どうして彼がこんな話をし始めたのか。どうして出してみるまでわからなかったのか。そして丸々二回ほど意味を反芻しているうちに、彼の気遣いにはっとした。色々本筋から逸れた話を振ってみても、結局彼女の気が晴れないと判断したのだろう。それにしてももっとマシな励まし方はないのだろうか、と思いかけて、視線を下げて、また抑鬱的な気持ちになる。言えた義理ではない。
「パンツを処理しているとき、妙にすがすがしい気持ちになりました」
「……」
「これで、良かったんだとさえ思いました」
日本語で紡がれているのに、これほどまで理解に苦しむ言葉は初めてだった。
「僕は運命論者ではないですけど、いつかこうなるんじゃないかって、そう思っていたんです。年経る毎にケツの締りが悪くなっているのには気づいていたから…… 遅かれ早かれ、起こることだったと思うんです」
「……ひどい話ですね」
「でも、だからこそ、今体験していて良かったと思ったんです。これから先、そういった余裕のある精神状態で、場所で、漏らせたとは限らない。もしこの先就職して、サラリーマンになったとします。大事な会議の途中、取引先で、初めてウンコを漏らしたとしたら、どうします?」
「いや、わたしに聞かれても。ていうか、そういう場面ではオナラだと思ってもしないでしょう?」
「そんなことはないですよ。出せる物は惜しみなく出すべきです。だけど屁だと思ったものが実である、この経験が無い状態で、そういった事態に直面したら、多分相当動揺すると思うんですね」
「……」
「僕が何を言いたいかと言うと、つまりは、無駄な経験なんて一つも無いってことなんです。たとえそれがどんなに恥ずかしいことでも、辛いことでも、それは必ず糧となり、よりよい精神の安定をもたらすんです」
「何か無理矢理いい話にまとめようとしてませんか?」
「……」
「まあ、心遣いだけは受け取っておきます」
目的のパーキングが見えてくる。いつの間にやら、最低な話題に気をとられていて、周囲の様子を気にするのを忘れていた。自分の下着にも、人々の好奇の目も。
お食事の傍らに読まれた方、いらっしゃれば申し訳ありません。まあ今更かも知れませんが。以後は出来る限り自重します。