第三十二話:効き目はいかほど
小松の部屋を訪ねると、彼女は何かしら読み物をしている途中だったようだ。紺色の背表紙の分厚い本を、のんびりと書棚に戻しながら城山を迎えた。
どうかされましたか、と用件を尋ねるので、簡潔に答えた。十河の話では、フラワーマンの花粉にやられたと言えば、すぐに薬をくれるということだった。
「まあ、災難だったわねえ」
小松は椅子に腰掛けて城山の全身を下から上に見上げた。
「どこが一番かゆいかしら?」
「えっと」
小松が机の引き出しからカルテのような紙を取り出した。こう見えて医師や薬剤師の資格を持っている才媛なのだとは十河の言。別段わざわざカルテに書くようなこともないだろうが、形というのも大事なのかもしれない。だがしかし椅子を回転させて半身になって、ペンをくるくる回す様は、どちらかというと温和な家庭教師のように見えた。
「どこかしら?」
「ええっと」
「わたしは皮膚科は専門ではないのだけど、一応患部を聞いておかないと。皮膚の粘膜の弱いところだとか、強いところだとか、人体には色々あるのよ」
渋る城山に、苛立つでもなくいつもののんびり口調で優しく諭す。
「股間です」
これはセクハラではないだろうか。三好に散々しておいて、今更なのだが、自分は相手を見てやっていたのだと気付いた。ある程度の信用を得ている相手、やっても本気で怒られないだろうという判断の下にやっていた。あまり接点も無く、いまいち人間性のわからない小松相手にこういうことを言うのはかなり気が退ける。なるほど。相手を選んでセクハラをするとは卑劣極まりない行為であり、ここらへんが川瀬の言うところのゲスラなのかと、妙に納得がいった。
だが当の小松は顔色を変えることもなく、なるほどね、とだけ言って半身のままカルテにペンを走らせていた。よくよく考えてみれば彼女は医者なのだから、こういったことにも慣れっこである筈だ。何となく、普段のほほんとしていて、失礼ながら医者の風格というものをあまり感じさせないせいか、考えが至らなかった。
「本当は患部を直接診たほうが良いのかもしれないけど」
セクハラだ。城山は思ったが、勿論医療行為である。
「まあ、貴方も嫌でしょう? 症例もわかっていることだし、お薬だけ出します。デリケートな部分ですからワセリンを多めに混ぜて薄めたものを出しましょう」
そう言ってカルテを締め括ると、ペンを転がすように置いた。
「はあ。お願いします」
調合するところも見られるのかと、少し探究心がうずいたが、どうやら完成したものがあるらしい。
受け取ると礼を言って部屋を出た。
自室に戻って薬を塗布すると、妙に落ち着かなかった。薬が広がりすぎても良くないだろうと、掻き毟るのは控えたいのだが、じっとしているとどうしても痒みを意識してしまっていけない。一応暇つぶしに漫画を何冊か持ち込んではいるのだが、クソつまらない麻雀漫画で、わけのわからない登場人物がわけのわからない手順で、バカのように和了を繰り返すだけのものだ。正直要らないから持ってきたもので、読んでいてもすぐに飽きて、股間を掻きまくる未来は容易に想像できた。
特に玉と棒の間、その接地面がとても痒かった。こんなところにまで花粉を飛ばすとは恐れ入る。
真田の部屋を訪ねて世間話をするというのも手ではあったが、彼の顔色を思い出してやめる。しかも朝会った時によくわからない頼まれ事をされたのも、躊躇わせる一因だった。
仕方ないので広間に下りて、共用のパソコンでデータベースを閲覧することにした。こちらも目を通していて抱腹絶倒だとか、そういうことではないが、少なくとも漫画よりはマシだろうと考える。
パソコンを立ち上げると、埃でも溜まっているのか、ウーンと心配になるほど大きな音を立てて画面が明るくなった。頬杖つきながらベースを開いたのとほぼ同時に、広間の襖が開く音がした。
「なんだ。もう小松さんのところへは行ったのか?」
目を大きくして少し驚いたような十河が向こうから声を掛けてくる。
「ええ。もう薬も頂いて、さっき部屋で塗りたくっときました」
「そうか。ところで何をしているんだ?」
「ああ。例のデータベースを見てるんですよ」
十河の顔がくしゃりとなった。わかりやすい。城山の方も頬が緩むようだった。
ふ、と思う。こうして自然に笑えるのに、朝方見た笑顔はどうもぎこちなかった。多分愛想笑いといったものが苦手なのだろう。
「そうか。ほとんど毎日見ているようだし、感心だな」
「ええ。まあのんびり拝見してますよ」
本当に捗々(はかばか)しくないので、贅沢な不満も抱いたりしたが、何だかんだ、やはり見てくれているというのは十河にとってこの上なく嬉しいことだった。
「しかし、毎日見ているってよくわかりますね?」
「え? ああ。一応カウンターもついているからな」
寄って来て隣に腰掛けると、画面の左端を指差した。個人のホームページのように、来場者の数をカウントする数字があった。だがそれは城山も知っている。彼女の言葉通り毎日チョコチョコ覗いているのだから当然だ。なんでこんなものまで、と不思議にはなったが。
「でも、これだけで僕が毎日見ているなんてわからないじゃないですか?」
「そこの数字、二だろう?」
「え、ええ」
とても寂しいことに、二人しか来ていないということだった。
「一つはわたし、そしてもう一つは」
城山の方をチラリと見る。目が合うとすぐにさりげなく視線を逸らせてしまった。授業参観に来た親の顔を盗み見る子供のようだった。嬉し恥ずかし、十河由弦、十七歳。口に出そうものなら張っ倒されそうだと、城山は心の中だけでからかった。
「ここを日常的に見ているのは大抵わたし一人。たまに三好さんがチェックするから二人になる時もあるんだが…… そしてここ最近は常に二人」
閑散としているなあ、と思うだけで、毎日毎日チェックしていたわけではない城山は、そういうことかと合点がいく。
何と言っていいかわからず、頬杖を外して指をパキパキ鳴らした。痒みを紛らわす手遊びも兼ねていた。
「どうして皆見ないんだろうな」
こんな自虐じみた言葉が自分の口から出てくることに、多少なり十河は驚いていた。それを誤魔化すように言葉を繋ぐ。
「……ううん。せめて弱点の個体差がない種だけでもわかれば違うんだけどな」
城山の方はそんな彼女の内心の変化に気付くはずもなく、眉を撫でながら返す。
「こればっかりは。話の通じる妖魔とかは居ないんですか?」
「え?」
十河は可笑しそうにした。
「妖人の方とか。獣の中でも一部は、とか」
「ないない。というか、そういう発想を持ったこともなかった。今まで妖魔とコミュニケーションに成功した例はないからな」
後半は忍び笑いも混じっていたが、嫌な質のものではなかった。
「……そう、なんですか」
何か納得しかねるような、諦めきれないような様子だったが、残念ながら厳然たる事実である。
「なあ、城山?」
「なんですか?」
「もし良かったら、なんだが」
「ええ」
「これからも、編集とか手伝ってくれないか?」
不思議そうな顔をしたのを見て、十河は慌てて言葉を付け加える。
「ほら。三好さんの評価も上がるかもしれんぞ?」
「はは。まあ三好さんの評価は彼女のみぞ知るって感じですが…… いいですよ」
城山は大きく頷く。
「大体これも普通は誰か一人に押し付けるような仕事でもないんじゃないですか? 僕でよければ手伝いますよ」
ごく当然といった感じ。十河は小さく俯く。怪訝そうに城山が覗き込もうとすると、今度は顔ごと逸らせてしまった。
「あ、あ、あ…… り」
しばらくすると、蚊の鳴くような声で何事か言い出す。
「あ?」
「あ…… 兄貴と呼んでいいか?」
「やめてください」