第三話:DISTANT
獣を倒したのがキッカケか、徐々に世界が元の在り様へ戻りつつある気配を感じ、城山は慌てる。今の彼が元の世界ではどう映るか。
「ちょっと待ってて」
城山は近くにあったバス停のベンチを指差してから駆け出し…… かけて、もう一言。
「何かあったらまた大声出して」
言われた奈々華はまだ状況もつかめず、近くで果てている獣とその周りの血溜まりをぼんやり見つめていた目を上げて曖昧に頷いた。兄の方はそれを見て本当に駆け出した。
近くに公衆トイレがあったのは幸いだった。肌に付着した血糊は洗い流せたし、黒いシャツを着ていたため、上半身も血がついている風には見えなかった。下は半パンのジーンズを履いているが、少しずつエンジから黒へと変わりつつある血しぶきは、コレはコレで模様だと言って誤魔化せるレベルになっていた。さらに幸運だったのは、朝の通勤ラッシュを終え、トイレに人が居なかったことも付記できる。
獣を倒して五分ほどすると、周囲からガヤが聞こえてきて、本当に間一髪だったということがわかった。城山にとっては獣と対峙したことより、その事実の方がよほど肝が冷えた。
「また警察沙汰なんてことになったら、あの子に迷惑を掛けるところだった」
戻りがてら、そんなことを呟く。唯一の不安材料、駅前の交番も無事通り過ぎて安堵の溜息の後に口をついて出た言葉だった。目的の少女が腰掛けるベンチが見える。丁度バスが停まったらしく、運転手に対して手を振って乗らないとジェスチャーしていた。城山が近づいていくと、パッと明るい顔をして、次いで腕の怪我を見やり、沈痛な顔をした。トイレットペーパーを包帯に見えるように幾重にも巻いていた。
「腕……」
「ああ、大丈夫だよ。心配ない」
「でも」
「大丈夫だから」
冷たくはないが、妙な距離を感じさせる声音。城山は顔を逸らし、獣が息絶えていた辺りを見やった。流水紋を彫られたタイルがあるだけで、他には何もなかった。強いて言うなら黒くなったガムの殻がこびりついているくらい。
「なくなっちゃった」
「……いつ?」
「丁度皆が戻ってきたくらい」
皆、とは人間のことだろう。
「なんかいつの間にか…… あれなんか空気が変わったな、って周りを見回してるうちに、次見たらなくなってた」
城山はそっか、と呟いた。鼻の頭を掻きながら思案顔。
「あのね」
「うん」
「……助けてくれてありがとう」
「ああ、うん」
「すっごく怖かったけど、その…… 来てくれて嬉しかった」
「……」
答えず、獣が横たわっていたあたりまで歩く。やはり何の痕跡もなく、城山の眉間に皺がよる。小さな血痕の一つもない。
「あの、お兄ちゃん」
振り向く。
「膝小僧」
「え?」
「膝小僧、ジャリがついてる」
奈々華は少し恥ずかしそうに手で払った。
奈々華が駅前にいた理由は、城山が想像したとおりのものだった。もう一度振込みがないか確かめに来たというのだ。続けて、非常にバツが悪そうに城山の言われたとおり、貯まっていた彼の金を下ろしたとも言った。要領が悪いな、と城山は思った。こちらが察していることくらいあっちも分かっているだろうに、わざわざ報告して気まずくなることもないだろうに、と。気にするなとだけ返すと二人は黙りこくってしまった。
駅から十分ほど歩くと、彼らの家の近所まで戻ってきた。その頃には太陽も随分高いところまで昇っていて、遠くにはぼんやりと陽炎の揺らめきも出始めていた。二人の右手、黄色い派手な色の家を過ぎる。住人も金髪のパンチパーマと派手な頭髪をした、おっさんのようなおばさんが一人と襟足だけ長い子供が二人ほど居る。ヤンキーハウスと城山は呼んでいる。ここを過ぎれば自宅までもう二分とない。
「ここって、旦那さん見たことないよね?」
久しぶりに口を開いた奈々華は、しかしどうでもいいことを言った。城山の方も同じ事を考えていたので、内心苦笑する。腐っても兄妹だ。
「単身赴任とかじゃない? それかあんなんだから離婚したか」
城山は知っているが、そのおばさん実は駅前のパチンコ屋に入り浸っている。ろくに回らない釘でMAXタイプのパチンコに際限なく入れているのはあの店では大抵の人間が知っている。
「……うちと一緒かな」
「どうかね」
また会話が途切れる。ベージュの煉瓦風タイルの外壁が見える。彼らの借家。城山はふと、気になった。
「うちって家賃いくらだっけ?」
「9万8千円」
城山は礼を言って概算する。今年の彼の月平均の利ざやが大体6万前後だ。今のままでは家賃すら払えないことになる。加えて、彼のやっていることは当然運の要素が多分に絡み、負け越す月だってあるわけだ。そういった上下の振れを平均して、最終的にプラスに持っていくというのが、ギャンブルの勝ち方、本質である以上それは仕方ないのだが、家賃はそんなことお構いなしである。毎月同じ日に同じ額を納めなければ叩き出されるだけ。
「口座にあったのは?」
「……三十万と少し」
このままでは三ヶ月と暮らせないだろう、ということ。わかってはいたことだが、こうして数字として現実を突きつけられると、城山も少し言葉に詰まる。自分で思うよりも難しい顔をしていたのか、奈々華が心配そうに覗き込む。
「大丈夫。すぐにバイト見つけるよ。最悪休学みたいな真似しても良いし」
「そんな……」
「今の状況なら仕方ないさ。ボンジュールワークを貰って帰るんだったね」
隔週発行の無料求人雑誌、その名が兄の口から出てくるとは奈々華は夢にも思わなかった。悪魔の書とまで蔑んでいたのは彼が高校生の時だが、基本的にそういった精神性は変わっていないはずだとは容易にはかれた。つまりそれほどまでに追い込まれている、ということだ。
城山は安心させるような優しい顔つきで一つ笑うと、先に歩いて家の鍵を開けた。残暑の太陽に照らされた鉄のドアノブは生温い感触で、気色悪いと兄妹共に感じた。