第二十八話:賢愚
十河由弦は、自分の感情を持て余していた。何故嬉しいのか、わからないのだった。
横になって、さっきまで城山の座っていた辺りをぼんやり見る。結局三十分ほどPCの画面と睨めっこして帰っていった。随分長居してしまってすいません、と口にして帰ろうとする城山に、もう少し居ても良いぞ、と声を掛けそうになった。そして自分が何故そのような言葉をかけそうになったのか、それがわからなかった。考えているうちに、自分は嬉しいのだ、ということがわかった。そして今度は何故嬉しいのかがわからない。そういう思考を辿ってきていた。
「やはり」
自分の仕事が評価されたのが、嬉しかったのだ。そう考えるのが妥当である。十河は自分の評価が低いことを知っているし、ある程度は甘受するべき部分があることも理解している。だが、彼女も人間である以上、評価されたいという願望は当然ある。いやきっと人並み以上に持ち合わせている。
他の職員はあまり例のデータベースを閲覧しない。理由は城山の言った、弱点の個体差だろう。これで予め情報を入れておいても、実戦では異なるケースもままあるのだから、必要がない。そう考える者が多いのだ。必然、十河のやっていることはあまり人にありがたがられていない。裏方のやるような、地味でつまらない、しかも有用性も疑わしい仕事と断じて嘲る者まで居る。
「ふふふ」
笑みがこぼれる。だが、そんなデータベースを城山は、有益だと言ってくれた。あれほどの、戦いに於いては軍神のような働きを見せる男が、無駄ではないと言い切ってくれたのだ。これほど心強い励ましはない。
「励ましと言えば……」
自分の戦いについても、城山は蔑むでもなく、ごく平然と必要な役割だと言ってくれた。世辞を言うタイプには見えず、また自分に対してそれをする必要もなく、また淡々と事実だけを告げるような彼の一本調子な口調が、それが本心であり事実であることを裏打ちしている。励ます意志があったわけではないのだ。だけどそれがパラドックスのように励ましている。
「不思議な男だ」
やはりそれでもまだ、手放しに良いヤツだとは言えない。先程も、会話に困った際に振ってみた話題。例の民間の重傷者二人は大丈夫だろうか、という話。画面を見ながら、まあ大丈夫じゃないですか、と片手間に返してきた。もう誰が聞いても何も考えずに言っている言葉だとわかるような、信じられないほどにテキトウな言い草だった。興味が無い。少なくともこういった仕事、公共に己を捧げるべき仕事に従事している人間としては由々しき無関心。はっきり悪い部分だと言える。酷薄だ。
「だけどそれだけじゃない」
食事を共にしたとき、自分が何か話そうかとヤキモキしているときには、それを機敏に察して、優しい顔で笑って、あちらから話を振ってくれた。その他にも、彼の鋭い洞察力を感じることはままあったが、どれも悪意のない言葉で発揮されていた。それどころか……
「優しかった」
心の機微に聡く、それでいて優しさもある。とても冷たいのかと思っていたが、見えづらいだけで、恐らくあの無表情の下では、思いやりも多分に働いているのではないか。世辞や甘言は言わない。事実だけを告げる。だが、その事実が相手にとって残酷である場合、口を閉ざすのではないか。或いは時折見せる優しい笑みや、冗句で煙に巻いてしまう。
「賢いのかもしれない」
恐らく自分が思うよりももっと遠謀深慮に物事を考えている。
「でも何故」
何故、その優しさや賢さの少しでも、牛島や例の民間人なんかに向けられないのか。その使いどころが、線引きが、十河にはさっぱりわからない。嘘。心の奥底では何となく気付いている。
「もしかして」
一つの可能性。自分が気に入った人間にしか発揮されないのではないか。牛島の人間性など、すぐに底が知れてしまったし、民間人にしても彼と面識がない。知らない人間については、興味が無い。想像力がないとは思えない。広い視野を持ちながら、狭い範囲しか見ない。それではダメだ。
「だけど」
逆に言うと、自分は気に入られているのではないか。何故ならその狭い範囲の中でも、自分が気に入らない人間は叩き壊してしまった。言うなれば狭い範囲の視界から弾き飛ばしてしまって、それで無関心なまま外敵を排除した。そういう心理プロセスだとすると、自分は牛島や民間人とは違うのではないか。少なくとも自分の命は能動的に救ったのだ。彼の瞳に映っていないのであれば、あの時自分を見捨ててしまえば済むことである。つまり自分は、彼のひどく限定的で厚い、視界のブロックの内側、庇護や親愛を注ぐべき対象として見られているのではないか。
「……」
結局。結局色々考えてきたが、それが。それこそが、この喜びの一番の……
「違う」
違うと信じたい。博愛のような、公平無私のような、そういった心がけこそが、正義であり、職業倫理であり、彼にもこれから身につけてもらいたいと考えている思考だ。それを矛盾的に、自分が特別視されているかもしれないという事を喜んでいては、ダメだ。
「ありえない」
そっと起き上がり、膝を抱えるように座る。膝裏に手が当たり、城山の手の平の温もりを思い出した。