第二十七話:QUARREL
食事から戻ると、七階は喧々囂々(けんけんごうごう)としていた。隣の十河に何があったのだろうか、と尋ねたが明確な答えが返ってくるはずもなく、城山と同様、当惑した顔をしていた。丁度その時、広間から三好が顔を出した。
「お帰りなさい」
「ええ。これは一体何の騒ぎです?」
三好が口を尖らせる。
「少し、ね」
すると広間から、小柄な男が続いて顔を出した。榎木さんだ、と十河が城山に小声で教える。
「どうもこうもない。対応が遅いんだって、話をしていたんだ」
榎木という男が、城山に何か同意を求めるような声音で語りかけた。一見落ち着いているようにも見えるが、やや目が血走っており、ついさっきまで怒号を上げていたのが彼ではないかと、城山は推察した。真偽は定かではないが、少なくとも初対面の城山に馴れ馴れしいだとかの気遣いも出来ない程には余裕がないようだった。
「えっと、何が起こったんですか?」
「柏原が負傷した」
十河を見る。城山と彼女は、食事を共にしたが、そこまで仲良くなったわけではない。だが、少なくとも仕事の話ならば、一番正確に、素早く情報を提供してくれる人間だということは、城山の認識の中に根付いていた。
「柏原さんは、榎木さんのチームの一人だ」
三好が続く。
「貴方たちが休憩に出ている間に、スクランブルがあったんです」
やや話が読めてくる。三好が小さく振り返り、広間の誰かに目配せをしたようだ。するともう一人、彼らのチームの一員だろう、三十代くらいの女性が戸口まで来た。宥めるように榎木の腕をさすって、部屋の中へと戻した。寺本さんだ、と短く十河が教える。三好は尾を引くような長い溜息を吐いて、言葉を続けた。
「それで、あの三人に出てもらったんですが、妖魔は取り逃がしてしまった」
「なるほど」
「その戦いの中で柏原さんが負傷した、と?」
「そういうことです」
「対応が遅い、って言うのは?」
「怪我した時の情報が錯綜してしまいまして。救急車が一台向かったのですが……」
話を総括すると、こうなる。柏原が負傷したとだけ報の入った三好は、すぐにパイプのある大学病院へ要請し、救急車を一台、至急現場へ向かわせた。だが、どうも怪我をしたのは柏原だけではなく、一般人も二人重傷を負っていた。ベッドは二つしかなく、計三人の重軽傷者を乗せることは出来ない。そこでまだその時は意識のあった柏原が、一般人の搬送を優先するように言った。そして救急車はその言葉に従って先に二人の重傷者を運んだ。そこまではよかった。だが、次の救急車、つまり二台目がやって来たのが、随分と遅くなった。その間に柏原は疲労と怪我のせいか、人事不省に陥った。幸い命に別状はないが、頭をやられており、そういった面からは予断を許さない状況だそうだ。そういった面というのは、この先意識が戻るかどうか、とかそういう……
「とにかく、貴方達は戻ってください」
三好の声には明らかな疲労の色が滲んでいたが、二人は言われた通りにするより他なかった。
とりあえず十河の提案で彼女の部屋へ戻った。自分が入ってもいいのか、とか部屋の調度とか、色々気になることもあったが、最も気になることを話題に選んだ。
「不思議に思ったことがあります」
「なんだ?」
「妖魔は、人を狩るのを目的としているのに、どうして途中で隔離世を解いてしまったんでしょう?」
「さあ、わたしにわかるわけがないだろう」
それこそ妖魔に聞いてみないと、とポニーテールを振った。
「ひょっとすると、妖魔の方も弱っていたのですかね」
だから追撃を諦めた。そう考えるのが、一番自然な気がした。
「さあな。考えても仕方ないことだ」
切り替えようと言外に。パソコンが起動する音が部屋に響く。
「わたし達はわたし達に出来ることをするしかない」
データバンクは、そのまま図鑑の様相だった。分厚い装丁がないだけで、ページを繰るかわりにマウスを上下させる。
「へえ。結構あるんですね」
記事のある妖魔は、数えるのも億劫だが、百種はくだらないだろう。十河がまた気分良さそうに、別窓で文章ソフトを立ち上げる。
「こいつだ」
ページの一つは、妖魔の写真。もう一つのページには、無機質なワードの羅列が並んでいる。特徴や攻撃方法、撃退方法、弱点、備考。やや硬い筆致で必要と思われる情報が書き連ねられていた。
「あとは名前だけだ」
写真のページの上部、そこにカーソルを合わせる。空白のその部分で縦線が明滅していた。
「バファで」
というのはどうだろう、と真顔で聞いてくる。
「なんですか? 暗号ですか?」
「バファローと百足を足したんだ」
「センス……」
「なんだ?」
「いえ。何故英語と日本語を混ぜるんですか? それならどっちかに統一して、百足牛か、BUFFALO,CENTIPEDEとかじゃないんですか?」
「セン……?」
「百足のことですよ」
「博識なんだな」
「いや。英単語を覚えるのって結構好きだったんですよ」
「しかし。百足牛。安直だがわかり易いし、良さそうだな」
安直という割には、城山に意見を求めるまで出てこなかったのだが。何度も繰り返し呟いて、それにしようと満足気に頷いた。
「名前は良いとして、この弱点なんですが?」
「む?」
「これって、個体差は無いんですか?」
「あ、それは……」
十河の顔が曇る。あるのだろう、と城山はその様子だけで理解した。つまりこの同種のカテゴリーの中にあっても、その個体個体で弱点が異なるケースもあるということだ。例えば、この新しく拝命した百足牛にしても、次に同じ容貌の個体と出会っても、また首の後ろ辺りに弱点を抱えているとは必ずしも言い切れない。そういうことらしい。
「……」
黙ってしまう。怒られている子供のように大人しい。
「まあでも、十分に参考にはなりますよね」
「え?」
十河は意外そうに城山の顔を見た。相変わらず画面を見据えているその横顔は、真剣だった。
「第一に攻めてみる箇所も決まっているというのは、実戦においては中々やりやすいですし。もし良かったら、もう少し色々見てもいいですか?」
「あ、ああ。いいぞ。まだ広間は混沌としているかもしれないし」
礼を言って城山は画面に見入る。スクロールする音、クリックする音。しばらく部屋にはこの二つの音だけがしていた。