第二十三話:END OF THE DAY
午後の九時にもなると、そろそろ仕事の終わりが見えてくる。ひと足早めの開放感が城山の胸に渦巻いてくる。昨日も来たが、実際の勤務は今日が初日である。勤め上げたという充足感より、人間関係が主ではあるが、精神疲労が強かった。しかし、もう誰にも会わないでも大丈夫かな、なんて考え始めた矢先に、城山のもとに来客があった。
「城山さん。今少しいいですか?」
いきなり襖の向こうから声を掛けられて、城山はピクリとした。吸いさしのタバコを一先ず灰皿に置いて、どうぞと声を掛ける。少しして襖を開けて三好が部屋に入ってきた。
「お疲れ様です」
双方そのように労う。城山は三好が用件を切り出すのを待ったが、何故か城山の顔をジロジロ見るだけで何も言わない。彼の方がしびれを切らした。
「それで、一体なんですか?」
「あまりお疲れではないようですね」
「はい?」
「いえ。血色も良いし、目がトロンとするでもなく」
「当たり前ですよ。十時に出勤してきて、二時間ほど仮眠して、一旦地元に戻って飯食って、帰って来てウンコして、シャワー浴びて、また仮眠してたんですから」
「シャワーを浴びる前に、ちゃんとお尻は拭いたんですよね?」
「……拭きましたよ、勿論」
「なんですか、今の間は?」
「しかし凄いですよね。シャワー室まであるんですから」
「ええ。まあウチは職務上、待機時間が長いですからね」
そこで一区切り。城山が立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
「バターがありますが、舐めますか?」
「結構です」
「冗談ですよ。ラムレーズンとバターをクッキーで挟んだお菓子があるんです。食べませんか?」
「いただきましょう」
城山は同時に牛乳パックを取り出し、カップに注いだ。ついでに煙草を消した。
「わたしの分の牛乳は貰えないんですか?」
「カップが一つしかありません。半分こして飲みましょう」
「ずっと思っていたのですが、貴方はわたしを女として認識していますか?」
「間接キスとか気にするんですか? カマトトぶっちゃって」
「……貴方はわたしが飲んだ後に飲んでください」
二人で菓子を頂く。上品に半分に折って食べる三好の手に、ペンだこを見つけて、城山は彼女の苦労の一端を垣間見たようで、勝手に気まずくなった。決して長い付き合いではないが、何となく彼女は白鳥タイプ、バタ足は他人に見せない人間ではないかと考えていた。
「さっき事細かに、要らない所まで行動を追って説明してくださいましたが」
「はあ、ああ、そうですね」
「一つ一番大事な部分が抜け落ちてます」
「二度目の仮眠の前にもう一度したウンコ、ですか?」
「違います。二時ごろ、妖魔と戦ったでしょう?」
「ああ、そっちですか?」
「それはわたしのセリフです。何か勘違いしているといけないので言っておきますが、貴方の便の状況などわたしは全く興味はありませんから」
「そうなんですか。三好さんはちゃんと出ていますか?」
「ひどいセクハラですね。耳の後ろの辺りから、禿げて、その後死んでください。話を戻します。全く、貴方と話していると、知らない間に下品な方向へ持っていかれます」
「それは三好さんが下品だから、とかではなく?」
「貴方がですよ。とにかく、妖魔と戦う。これは新人にとってはとても酷なことなんです」
城山は顎を揉んだ。
「何でですか? それが仕事じゃないですか」
「人間という生き物は、そう簡単じゃない。いくら仕事内容をわかって、同意の上で入ってきても、やはり過酷な状況には音をあげたくなるものです」
「はあ」
「中には震えてろくに戦えないで戻ってくる者も居ます。妖魔の死体に戻してしまう者も居ます。戻って来るとすぐに辞表をしたためる者も居ます。しばらく寝付けない者も居ます。それほどまでに、死が近い仕事なんですよ。妖魔にしても、自分にしても、仲間にしても」
「はあ」
「聞いていますか? 牛乳を飲むのは後にしてくれと言ったじゃないですか。わたしが飲んだ辺りから飲まないで下さい」
「聞いていますよ。食べるばっかりじゃむせるじゃないですか。鼻からレーズンを出すところを見たいんですか?」
「結構です。とにかく、そういった事情から新人のケアというのもわたしの中では重要な仕事なんですが……」
城山の顔をじっと見る。ろくに戦えなかったなどという報告は十河から上がっておらず、寧ろ少し気落ちしたような様子からは、彼が存分に活躍したことが窺えた。妖魔の死体に戻すなんてことは勿論なさそうだった。そもそも手ずから首を抉っている凄惨な現場を見たことがスカウトの契機だ。辞表を書こうにもこの部屋に筆記具のような物自体見つからない。多分持ってきていないのだろう。仕事でメモを取るようなこともあるだろうに、逆の意味で問題である。寝付きすぎている。一体一日に何時間寝れば気が済むのだろうか。
「貴方には全くもって必要ないようですね」
「何故ですか、いたわってくださいよ。その推定Cカップの胸に飛び込ませてくださいよ」
「便の話を封じたら、途端にセクハラ路線ですか? 貴方に生きている価値はあるんですか?」
「ないですね」
妙に真剣な声で、三好は吃驚した。
「あの、冗談ですからね?」
「わかっていますよ。ただ僕がそう思っているだけですから」
三好が気まずそうにする。
「貴方が言ったように、僕はとても歪なんです。妖魔に限った話でもない。人を殺しても、それが自分の気に入らないような人間だったら、ほとんど何とも思いません」
「……」
「十河さんも、僕のこういう所が気に入らないんでしょうね。貴方が望んだようなチームシップは形成できませんでしたよ」
三好ははっとした。実は、城山の心のケアなんてのは、ハナから想定していなかった。そういうタマではない。だからここにやって来たのは、十河との軋轢に関して、少し探りを入れたいという思惑からだった。いわば人間関係のケアである。そういった魂胆を見透かされたような気持ちだった。
「とにかく」
城山は自分の分の菓子を食べ終えると、両手の平を打ち鳴らすようにして、カスを落とした。
「僕は妖魔は倒します。貴方が望むより多く倒すかもしれません。ですが…… 他のことには期待しないで下さい」
城山はそれきり口を閉じてしまい、三好は何とも言えない気持ちで残りの菓子を平らげると、挨拶もそこそこに部屋を辞していった。