第二十二話:如水
世界が戻りつつある中、十河が突然弾かれたように動き出し、近くに置いていた自分の鞄からデジタルカメラを取り出した。片膝をついて妖魔の死体を撮る。一枚、二枚。
「何をしているんですか?」
答えず三枚目。撮り終わると、やっとファインダーを目元から離して、立ち上がった。
「写真を撮っている」
「わかってます。何故撮っているのかと尋ねたんですが?」
「……必要だからだ」
禅問答のような虚しさを感じて、城山は口を閉ざした。
世界が戻っていく。元々人通りがあまりなかったが、僅かにある営業中の店の人間がガヤガヤと騒ぐ声が聞こえてくる。完全に戻った頃には、街の様相は変わっていた。煉瓦が抉れ、閉店中の店のシャッターは至るところ凹んでいる。トラックでも突っ込んだように凄まじく変形し、シャッターはおろか店のガラスまで破壊されている店もあった。
「なるほど。モノを壊すとこっちに戻っても影響があるのか」
ますます鏡の世界を想起させられる。
「戻るぞ」
十河は歩き出していた。
「あまり現場に立ち止まっていると、警察が来たときに面倒だ」
「はあ」
返り血などは浴びていないが、城山の体は幾らか汚れていた。テクテク歩いて行く彼女に素直に従う。クナイ用の厚皮ホルダーもいつの間にか鞄にしまいこみ、今はすらりとスカートから伸びた足がやや急ぎ気味で前後する。
「僕等を見た人間が居るんだから、後で通報が行って事情を聞かれたりしそうですが?」
追いついて疑問を投げかける。現場から足早に立ち去る二人組。男の方は薄汚れている。
「大丈夫だ。後から三好さんから連絡が行く。ウチの管轄だと言えば、警察も詮索はしてこない。マスコミの方にも、多分…… ガス管の爆発だとかいう説明になるだろう」
「はあ」
城山は首だけ振り返り、遠ざかりつつある現場を眺める。高井商店の元店主なのか、店先からモモヒキのまま飛び出してきた中年の男が頭を抱えていた。
パーキングを出た時には、二時も半分を過ぎるかという頃だった。奈々華の授業が終わるのが、大体四時半。あまり悠長には出来ず、寧ろここから直接向かいたいくらいだった。十河さん、すいませんが駅から電車で帰ってください。ギリギリで飲み込んだセリフをもう一度喉元で噛み殺しながら、城山はやや急ぎ気味に車を走らせた。幸い運転に集中できる環境ではあった。十河は元々口数が多くはないが、今は余計に寡黙だった。しかしその理由には城山は心当たりこそあったが、あまり興味はなかった。何より今は帰路を急ぎたかった。
国道をひた走っていた。前の車がトロくさく、右車線から追い抜こうかどうしようか考えているうちに信号に捕まってしまった。腹立たしいことにその前の車は黄色ギリギリで行ってしまった。紺色の軽のその背中を忌々しげに眺めていると、
「さっき……」
十河が口を開いた。置物が動いた、とまでは言わないが、城山は少し意表を突かれて、吃驚した顔で助手席を見た。
「さっき説明の途中だっただろう?」
「はい?」
「アンタが、あの妖魔の弱点を見破った理由」
「ああ」
事も無げに受けて、城山は前に向き直った。
「貴方の投擲は完璧だった、のあたりでしたか?」
「ああ、そうだ」
「ええっと、完璧だったというのは、言い換えれば、その投擲に問題がなかったということです」
「そうだな」
十河が拳を握ったり開いたりする。あの時の感触を思い出しているようだ。
「つまりアレで死んでいるべきだった」
「……回りくどいのは嫌いだ。何が言いたい?」
「完璧に射抜いた筈の、本来動物の急所。だが死なない」
ウィンカーを上に押しあげる。左折を告げるカチカチという音が車内に続いた。
「となると、あの生物の急所はあそこではない」
「……」
「加えて例の過剰な反応。飛び掛って殴りつけた時のですね」
「わかってる」
「それらを総合的に考えると、奴は、こっちの常識からはかけ離れた存在だということも加味すれば、急所もまた常識の埒外であったとしてもおかしくはない。まあヒトでもあんなところ攻撃されたら死にますけど…… とにかくモノは試し、ってわけですよ」
つまりは確証があったわけではないのだ。勘、その域を出ない。そう言っている。話はそれで終わりのようだった。城山はもう前だけ見て運転に集中していた。
十河は、憶念染みた先入観もひと時忘れ、素直に感服したくなった。あれだけの、僅かな戦いの中で、柔軟に考え、常識の枠組みさえフリーにして、そして自分が見て、感じて考えた答えに、殉じれるその覚悟、胆力。裏打ちするは、絶対の自信か。十河の思い描く姿に近かった。柔らかく考え、ここと決めたらどこまでも力強く。少なくとも、こと戦闘にあっては、彼は彼女の理想像と言ってよかった。ただ、そこに絶対的に足りないものがある。正義だ。彼の振るう力には、正義がこもっていない。戦いの中で、彼の信念や気概、そういったものが見られるかとも思ったのだが、それは大きな間違いだった。例えば自分を助けた時、その様子。とても他人を守りたい、そういった気持ちがあっての行動には見えなかった。だからこそ、自分はこの男が気に入らなかった。正義もなくふるう力。それはとても危うく、恐ろしかった。何故それだけの力が有りながら、誰かのために使おうとしないのか。同時にそういった憤りも感じる。
同時に、十河は思う。彼がもしそういった気概に目覚めれば、ふるう力の源を、正義に見つければ、完璧な力となるのではないか。少なくとも彼女の考える完璧な力とは守護のそれであり、彼にその片鱗を見ているのは間違いなかった。水のように、包み込み、通さず、敵に対しては時に苛烈に。そしてそういった兆候が全くないでもない。初めて彼を見たとき、他人を守っていた。とても冷たい瞳をしていたが、それが自分達もまた敵味方定まらない状況だったことを考えれば、仕方ないことなのかもしれない。しかし、いかな理由だろうと、人間に対してまでああいう目をして欲しくない、するべきではない。それは自分の考える力とは違う。そうも思う。結局総括すると、絶対悪とまでは言わない。だけど善でもない。だったら…… 十河は運転席の男の横顔を見た。チラチラと速度計や時計を気にしている。
相手の人間性を量りかねているのは、十河も同じだった。
「……とにかく助けてくれたことには礼を言う」
モゴモゴと口にした十河の声は、運転席には届かなかったようで、城山が聞き返すような顔をした。もう一度言う気にはなれなかった。