第二十話:人形劇
城山が歩みを止めなかったその理由について、彼自身明確な説明が出来るものではなかった。強いて言うならば、勘。その場の空気、雰囲気。誰の目にも明確にわかる根拠に基づいたものではなかった。
彼は非常にデジタルな思考を好むが、実際勘というものを蔑ろにはしなかった。自身が天才であるということを十分に理解しているから。それもある。だが、勘というものを、彼の言葉に直すと、経験則に裏打ちされた推測。そして実戦においては、理論よりも経験が重要であることを知っている。実戦の全てにおいて、絶対的汎用性を持った理論というものは組み立てられない。必ずケースバイケースで、判断を迫られる場面に直面する。そういった場面で重宝するのが、勘である。絶対の理論、真理、答えというものがない以上、勘という名の推論に基づいた行動を試していくしかないのだ。最初のうちはきっとトライアンドエラー。だが、そういった失敗の経験すらも糧となり、勘の精度を上げるファクターとなる。例えば古の裁判官には、法文という確たる理論はなかったが、法源には過去の判例たちを用いてことに当たっていた。城山は人を裁く権限を持たないが、敵を正確に裁く思考面の柱として、過去の数多の例から導き出される勘というツールを法源よりは無責任に使っていた。
その勘が、告げたのだ。止まってはいけない、と。
果たして妖魔は生きていた。
「十河さん!」
城山の頭は脳内麻薬が放出され、異様に昂ぶった状態だった。それでいて冷静だった。十河を死なせないこと。この一点のみに集約された目的意識を旗印に、全身の感覚器官がその十全にのみ動く感覚。
まずどうするべきか。眉間と首に彼女のクナイを受けて、一瞬だけたじろいだ様子の妖魔は、顎を完全に上げきったかに見えた。だが、すぐにその首を下ろしていく。これが人なら、勝ち誇った嘲笑でも浮かべていることだろう。その瞬間を少し離れた場所から視認した城山は、今取りえる最善の策を練りながら走っていた。練ると言っても、緻密に計算するわけではない。例の勘が、天啓のように告げるのだ。いつも決まって。そしてそれはほとんどの場合にあって理にも適い、最善だった。このまま彼女の前に回りこむのが定石だが、間に合わない。だったらどうするべきか。
「まだ生きています! 離れて!」
妖魔が十河に向かって角の照準を合わせるのが見えた。十河はどうしたことか、放心したような顔で立ち尽くしている。ふ、と頭の隅に変な考えが浮かぶ。あんな、戦場で間抜け面を晒す子供をどうして自分が必死になって助けなければいけないのか。旗印自体に疑念。
仕事だ。だがすぐに断じた。ビジネスパートナーをむざむざ失ったとあっては、三好に協調性なし、或いは人格破綻という論調で解雇を告げられてもおかしくない。むざむざ失わないくらいの力は、既に三好に目撃されているのだから、力不足を理由に出来ない以上そういった判断を下される可能性は払拭できない。
頭を振って苦笑したくなるような心持ちで、城山は駆ける。
十河由弦にとって、目の前の出来事は何かの冗談にしか思えなかった。自分の投擲は完璧で、手応えも胸のすくような程に爽快だった。妖魔がそれで倒れ伏すのは、青写真ではなく確定事項であった。それほどに自信を持てる二刀だった。だからこんなのはおかしい。何かがおかしい。いや、全てがおかしい。何か、自分の立つ地面が、突然音もなく消え去ってしまったかのような、ひどい浮遊感が支配した。悪心すらしない、だけど現実感もない。明晰夢でも見ているような心地で、妖魔の二つの瞳を眺めた。黒い体色の中にあって、その瞳は爛々と輝いていた。口元からはだらしなく涎が垂れていた。寝起きのヒトの口でもこれほどまでの悪臭は放たないだろう。
十河はぼんやりとした面持ちで、ぼんやりとした頭で思った。死ぬのか、と。自分はこの妖魔に負け、このような場所で果てるのか。まだ成すべきことなど何も成していないままに。少し遠くから男の声が聞こえた。
「いやだ」
死ぬことが怖いんじゃない。何も成さずに死ぬのが怖い。自分の力不足は知っている。だが、それを改める努力すら途上で、死ぬのが怖い。男の声が近くなってくる。耳朶は打っているが、その言葉は頭に入ってこない。
「十河さん!」
やっと自分の名を呼んでいるということに気付いた。その時には、男は妖魔の背に飛び掛っていた。右手で崖の縁に手を掛けるように、その体にぶら下がりながら、左手を素早く振ると、首の付け根にフックをお見舞いした。
妖魔は突然の衝撃に驚いたのか、先程までより一段高い声を上げて、城山を振り落としにかかる。その動きの中で、逆らうでもなく、従うでもなく、ごく自然に着地した。妖魔は前足を上げて、怒りとも痛みともつかない要因から首を振り回している。
「十河さん!」
十河は初めて城山の姿を見とめたように、びくりとした。力のない瞳が彼を見る。離脱しましょう、と声を荒げそうになった城山は、しかしやめた。すべきことを完全に見失ったかのように、悄然としている姿に、言葉は意味をなさないことを瞬時に悟った。
素早く彼女の膝裏と背に手を滑り込ませ、持ち上げた。抵抗はない。一上一下する妖魔の頭の動きに横目で注意しながら、その場から素早く脱出する。人間を一人抱えていることを感じさせないほど、隙なくよどみなかった。
少し離れた場所に十河をそっと降ろす。電柱を背もたれにするように、十河は腰を落ち着けた。まだ焦点が定まらないような目で、城山を見上げた。
「失敗してしまった」
うわ言のように。城山は油断なく、離れた場所で未だ荒れ狂っている妖魔の様子を見ていた。
「そうですかね? 僕の目には貴方の投擲は完璧に映りました」
「わたしは…… まだ生きているのか?」
「疑わしいなら、ほっぺでも抓ってみればいいんじゃないですか?」
「お前に助けられたのか?」
「助けた、とは少し違うかもしれませんね」
「笑うか?」
「は?」
「あれだけの態度を取っていて、蓋を開けたらその相手に助けられている」
「……」
「無様だと笑うか?」
「さあ。何も面白くはないですけど」
十河は遅れて恐怖に支配されている自分に気付いた。だがそれは、妖魔に殺されかかった恐怖なのか、今話している相手が、あれほど凶暴な妖魔をまるで虫けらでも見るような目をしているからか。そのままの表情で、あの無表情で、自分にも接するからなのか。わからなかった。呆然と立ち尽くし、ここまで運ばれてきた自分が、傍目には人形のように見えるかも知れないが、彼女からすれば、このように感情の抜け落ちたような顔で、抑揚のない声で、接してくる城山の方こそ人形のように思った。愛玩の側面がなく、不気味さ、空恐ろしさ、そういった負の面ばかりが見えてしまう、人形。
「十河さん」
城山が横顔だけで言った。
「ちょっと試してみたいことがあります。協力願えますか?」
十河の頭の中に、作戦の主導を渡してしまったことへの反発などは浮かんでこなかった。逆らいがたい空気を感じた。丁寧な言葉遣いなのに、命令のように聞こえた。使い物にならないのなら、この場で殺す。そうとさえ言われているような錯覚があった。
十河は神妙に頷いた。