第二話:変調
自宅の最寄り駅で降りると、改札を抜ける。ベッドタウンとして都心から少し離れたこの街へとこの時間に戻ってくる人間というのは、ろくでもないもので、当然数としては多くなく、日本はまだ安泰なのかもしれないなんて下らない思考が城山の脳裏をかすめた。
財布に定期をしまうと、前を向く。視界の先は広場のようになっており、中央には噴水がある。端には整然と花壇が並ぶ。さらに花壇の向こうには喫煙スペースが半ば押しやられるようにあり、城山はそこへのろのろした足取りで向かう。十メートルほど先にはロータリーがあり、バスやタクシーが時折行き来している。
シャツの胸ポケットからタバコを取り出すと、百円ライターで火をつける。それを合図にしたようだった。
周囲の空気が変わったような気がして、城山は軽く顔を上げる。どこがどう変わった、という説明は難しい。ただ彼の第六感としか言いようがない。そのくせ微細ではない。まるっきり世界が変わってしまったかのような違和感。いや、自分が今のこの世界からして異質なのだ。疎外感と言った方が適切なのだろう。じとりと嫌な汗が背中を流れるのを感じた。
「な、なんだ?」
城山の耳朶を打った自分の声は、妙に響いて現実感がなかった。そこで初めて気付く。音がない。いや、それだけじゃない。周囲から人の気配がしない。首を巡らせてみるが、やはり人の姿を見つけられない。先程まで走っていたバスや、駅に入ったファストフード店も変わらず在るのに、先程までそこに満ちていた人間が居ない。子供の頃見たアニメで、鏡の世界というのが出てきて、そこは現実世界と何一つ変わらない様相なのに、生物だけが居ない箱庭のような世界だったのを思い出す。あれと酷似していると。
城山はわけあってこういった超常現象というものに、他の人間より慣れている自信がある。だから驚きはしても取り乱したりはしない。そも常人であれば、この状況にあってなお状況が把握できていないであろう。とにかく城山の目つきが変わる。野生の獣のように辺りを油断なく窺い、じっと息を殺した。タバコを危険物でも取り扱うかのような慎重な手つきでスタンド灰皿へ落とす。やはり大きな音を立てて消える。今度はそれが合図になった。
「きゃあああああ」
若い女性の悲鳴だった。耳を澄ませていた城山はすぐに声のした方角へと駆け出す。聞き覚えのある声だった。
ロータリーは長く湾曲しており、端から端、という表現も円状だと適切ではないのだが、彼がいた場所から一番遠い場所に声の主はいた。駅ビルの入り口付近、腰を抜かしている。城山はその姿を見て、彼女がここにいる理由まで推察できた。このビルの一階には銀行のATMがあった。
「大丈夫かい?」
城山は落ち着いた声を出し、女性に向いた。その間にも視界の端できっちりと女性の前方を窺っていた。女性は背中まで届く黒い長髪を振り乱し、弾かれるように城山を見た。声を掛けられて初めて城山の存在に気付いたらしい。恐怖と驚きに固まっていた表情が、ゆっくりと安堵の色へ変わっていく。女性はまだ歳若く、学校の制服を着ていた。
「お、お兄ちゃん!」
女性、奈々華はわなないていた形の良い唇で兄を呼ぶ。黒く大きな瞳の端にはうっすら光るものもあった。
「立てる?」
黙って首を横に振るのを見て、城山は小さく鼻から息を漏らして、女性の眼前に背を向けて立った。必然対峙する。女性を今尚恐れさせているモノと対峙する。それはやはりこの世の理から外れたような存在だった。
「鹿、いやライオンか」
体は鹿だ。栗色の体毛はツヤがあり、しなやかな筋肉で張り詰めた四肢は動物特有の瞬発力を内に秘めている。頭は獅子だ。剥き出しの敵意を込めた瞳は猛々しく、口から覗く僅かに黄ばんだ牙は人の体のどの部分にもない鋭利さを持ち合わせている。
「キメラって奴か?」
言って、自分で首を振る。キメラ自体見たこともないくせに、どうもしっくりこない。しかし、城山は目の前の生物にそういった人工的な雰囲気を受けなかった。コレはコレで一個の完成された、自然のままの生物である気がした。まだUMAといった方がおさまりが良い。その生物は、奈々華に牙を剥いた後、少し相手の様子を見ていたようだが、城山がやって来たことにより、また見のようだ。外貌に似合わず存外慎重な生き物、というのが城山の寸評。しかし半分は鹿なのだから見た目通りとも言えるのかも知れない、などとどうでもよいことを考えていると、威嚇するように、生物がグルルと低く唸った。
「そうですね。最近は暑いですね」
「絶対そんなこと言ってないよ」
兄が来たことにより、少し奈々華にも余裕が出てきたらしく、軽口に乗る。だがその声は小さく兄には聞こえなかったようだ。対照に、また生物が大きく唸った。
「そうですか。じゃあ死んでください」
城山が腰を落とし、グンと飛び出す。初速からトップスピードのような速さで、獣がピクリと反応した頃にはもう半分以上間を詰めていた。動く前に相手に害意、殺意を気取らせない。しかもそれが動物相手である。並大抵のことではない。しかし相手も顔だけとはいえ肉食獣。瞬時に判断し、飛び掛る。城山の腕に噛み付いた。後手を踏んだとはいえ、獣は恐らく勝利を確信した。こうすれば獲物は必ず逃げようと身を退く。本能と反射。そうなれば自分が押し込んで相手の上を取れる。後は噛んで噛んで噛み千切ってやればいい。
だが城山は違った。助走でついた力も、もとの膂力も獣の上をいっていた。加えて、傍目には命知らずにすら映るほどに勇猛だった。だが彼の自己評は違う。もとより相手より上回っていることを十分に理解している。肉食獣を前にしても、狩られる側だという認識は毛ほども持ち合わせていなかった。とはいえ平素の彼がここまで無鉄砲に敵に突っ込むことはないが、肉親を守るためには構えていたのでは分が悪く、打って出るしかないという状況が、この強殺劇に繋がった。
押し負けた獣が地に落ち、その上に城山がのしかかる。蹴り上げられないように四肢の間、腹に腹を合わせるように身を潜りこませた。獣は首を後ろに振れないため、彼の腕を引きちぎることもあたわず、さりとて顎の力だけで押し潰すには、彼の腕は異様に逞しい筋肉の壁に包まれていた。おまけに獣にとってこのような状況は初めてのことであり、動揺も少なくない。
城山の空いている方の手が獣の目に伸び、抉る。ジュグと嫌な音を立てて眼球が潰れる。生暖かい血やら体液やらが城山の指に絡みつき、獣は耳を覆いたくなるようなけたたましい悲鳴をあげる。口が開いて城山の両腕を自由にしてしまう。そこからは一方的だった。体の比較的柔らかい部分、腹に両拳を浴びせて弱らせ、首筋に爪を立てる。しかし爪で以ってではなく指を捻じ込むようにして進む。獣が物凄い力で暴れ、城山の腰が一瞬宙に浮くが、指先に込めた力は決して緩めず、ズブリズブリと肉を抉り分けていく。血は先程から噴出し続けている。壊れたスプリンクラーのようだ。しかし生き物の血は無限ではなく、それはこの威容の生物も例外ではないらしく、徐々に血の勢いは弱まっていき、岩清水のようになる。その頃には体から力は抜け落ちており、顎があがった状態で事切れていた。
それを確認すると、城山はすっと立ち上がる。妹の方を向いた顔の半分以上が獣の血でべっとりと赤くなっていた。
「大丈夫だったかい?」
城山仁には力があった。