第一話:NO WORK,NO LIFE
9月2日(FRI)
雑居ビルの階段を下りてくると、途端にむわっとした空気に包まれた。朝もまだ早いのに油蝉がジクジク鳴いている。城山仁はビルの外階段を見上げる。白い外壁に赤錆の混じった小汚い中層ビル。仁が時折赴く麻雀屋がテナントとして入っている。
見上げた階段の先から男が降りてくる。切れ長の目に、尖った顎、男にしては色白で、色男に分類して差し支えない容貌だった。
「暑いな」
「ああ」
男二人はありきたりな感想を取り交わして、並んで歩き始めた。あまり会話が弾まない一因は、彼らが昨日の朝からパチンコ屋へ並び、そこで終日スロット台で遊んだ後、その足で雀荘へと向かったためだった。すれ違う人々は皆駅から出てきてこれから勤務に向かうであろう勤め人たち。一様にパリッとした背広で軍隊のようにきびきび歩く。対して彼らは間逆。遊び疲れてねぐらへと戻る。
「それにしても…… 大丈夫なのか?」
色男の方、川瀬良一が相方の方も見ずに言った。街路樹の下、雑草が草いきれを吐き出し、アスファルトの照り返しも相まって足元を不快に温める感覚。
「何がだ?」
「お前、親父さんに見限られたんだろう? こんなフラフラしてて大丈夫なのか?」
そこで川瀬はやっと城山の方を見た。二人は互いに相手のことについてあまり詮索しない主義だった。そんな川瀬にとっても、城山の様子はいささか心配であった。昨日のスロットについても終日最高設定を打ち切り、先程の麻雀にあっても役満をあがるなんて幸運があったにも関わらず、どこか思い詰めたような顔をしていた。どこで最高設定と判断したか、何を引いて波に乗っただとか、或いは配牌はどうだったか、どんな牌姿を辿っただとか、いつもは多少は楽しそうに語るであろう内容も、さっぱり彼の口から聞かれない。
「ああ、その話か。多分何かバイトすることになるんだろうな」
ほんの少し寂しそうな顔をして城山は言う。それは二人で今日のように遊び尽くす機会が減ることへの寂しさか、純粋に労働を嫌う彼が半強制的にその労働を余儀なくされているせいか。
「しかし…… 学費も自分で出すことになるんだろう?」
「ああ、多分」
「まあそりゃそうか。お前の単位の取得が芳しくないせいだもんな?」
城山は彼にそのように説明していた。二年生の前期が終わった時点でほとんど留年は決まったようなものである。その状況に親が腹を立てた。以降は経済援助をしない。そういった仔細だと。城山の首肯を見ると、川瀬は続けた。自分も同じような状況であるにも関わらず、未だ親のスネを齧ることを許されているという負い目のようなものと、城山への申し訳なさのような感情が手伝って、川瀬を饒舌にしていた。
「でも俺の知り合いにも学費と生活費、バイトで稼ぎながら大学通ってる奴も居るからな。やってやれんことはない筈だぜ」
川瀬は知らない。城山の父が何の連絡もなしに口座への振込みを打ち切ったこと。城山には妹が一人居り、その子への支援もまた前触れなく途絶えたこと。つまりは自分の息子娘らへの援助の一切をやめてしまったこと。
「ああ」
生返事をしながら、城山は昨日の朝のことを思い出していた。
朝、城山は妹に起こされた。奈々華といって、城山とは四つ離れている。今年高校に上がったばかりだった。昔は随分仲の良かった兄妹だが、最近では互いの部屋へと足を運ぶこともなくなっていた。だからそんな珍しい事態に、城山は何かあったのかと尋ねた。彼女は父からの仕送りが振り込まれていない、と答えた。言われて城山はその日が定期的に父からの仕送りがある日だと理解した。というのも、彼は随分長い間、その金に手をつけていなかった。奈々華は兄妹等分でその金を割り、自分の分だけを下ろして生活費や小遣いとしている。兄の方はギャンブルで生計を立てており、放置していたわけである。
「どうしよう?」
彼らの父は表向きは海外出張ということにしているが、実際のところ兄妹は父がどういった仕事をしているかはおろか、今現在どこで何をしているのかも知らない。だから、
「どうしよう、ったって」
こういう事態になってしまった場合には対処の仕様がない。連絡先も勿論知らない。
「とりあえずキミは俺の分に残してある残額でしばらく暮らして」
兄の方は当然、こういう事態も想定はしてあった。最悪の想定としてだが。
「で、でも」
「いいから」
城山は瞳に力を込めて妹を見た。
「……う、うん。わかった。ありがとう」
当座はそれでしのげるとして。
「俺はこれから仕事を探してみるよ」
奈々華は彼女に非があるわけでもないのに、終始申し訳なさそうに遠慮をしていたが、実際高校生の彼女に働かせるわけにもいかず、城山は何とか説得してその場はお開きとなった。
「並の仕事じゃ厳しいんだよな」
川瀬と別れた後、城山は呟いた。川瀬の知り合いの話、それは自分ひとりだけの費用を捻出すれば事足りるから出来ている。城山の場合は二人分。つまりは学生の身分で扶養家族を一人設けているようなものだ。幸いにして今年度分の学費は二人とも払い込まれているので、今年に限っては生活費だけをどうにかすれば済む。だがこの事態がいつまで続くとも、ましてや終わるのかもわからない状況。そして城山は根拠のない楽観視は嫌いな主義で、今後一切父からの仕送りはないものとして考えている。もともと彼は父を嫌っており、そんな感情からあまり口座の金に手をつけたがらず、それをしないために必死にギャンブルを勉強している次第。しかし学費や家賃については頼っているという不十全で半端な反抗をしていることも自分で理解していた。そんな中…… これは転機だ。そう思いたかった。これを乗り切れば完全なる自立を果たせる。妹の面倒を見ること。これについても異論はない。責務であると考える。
「だが……」
問題は、それだけを果たせる報酬が見込める仕事。城山は思案顔のまま、私鉄に乗り込んだ。