「君を愛すことはできない」ですって? だったら愛を教えてあげる
新婚ほやほや、結婚したて。
迎えた初夜で旦那様に言い放たれた言葉がこれだ。
「君を愛すことはできない!」
天蓋付きのだだっ広い寝台の上。メイドたちが一心に準備してくれたフリフリでヒラヒラのネグリジェに身を包み待ち構えていた私は、純真純朴に見えるだろう眼のまま、こてりと首を傾げた。
……………………なんてこと。嘘でしょう?
目の前にいる旦那様は、冷酷無慈悲と名高いアーレンハイム公爵家の若き当主グラシアン。
二十代半ばで当主の座を継ぎ、数ある事業は成功続き。
漆黒の闇を思わせる髪、長身で鍛えた体躯に整った顔が映え、爽やかな空のような瞳が印象的な彼は、どこへ行っても目立つ存在だ。
ただ自分にも他人にも厳しいと有名で、その見目麗しい顔からはいつも表情が消えている。残念ながらせっかくの瞳の爽やかさは仕事をしていなかった。
それでもパーティーに一度姿を現せば、一瞥すらされないことが多いというのに懲りない女性たちが、ワンチャン狙おうと挨拶に押し寄せる。
そんなグラシアンが、だ。
「まさか妻を愛することも知らない……愛を知らない男性だったなんて……!」
常に無表情というのも納得だ。
この見た目で浮ついた噂の一つすらないのも、仕方のないことでしたのね。
両手で、あんぐりと開いた口元を隠すように覆った私を見て、グラシアンはぎょっとした。
「は!?」
鉄壁だと噂の無表情が崩れ、目を丸くしたグラシアン。見るからに狼狽えている。
わかります、わかりますわ。恥ずかしいのですよね、格好つけて啖呵切った手前、こうもあっさり見破られてしまうなんて。
「大丈夫ですわ、グラシアン様。誰にでも初めてはあります。一緒に愛を育んでいきましょう!」
彼の大きな手を自分の手で包み込み、励ますように声を掛けた。
「な、違……! 違うぞ!」
「気になさらなくても大丈夫です。夫婦ですもの」
そう、ここは夫婦の寝室。
しかも今日は初夜だからと気を遣って誰も近寄らない。だから、誰にもバレないわ。
「グラシアン様の秘密、必ず心の中に秘めましょう。お約束しますわ。だから、その間に少しずつ愛をお教えいたしますね!」
どーん、と胸を叩いてみせた。
得意げな私とは反対に、グラシアンは、枯れ切った秋の風のような目をしている。
事業をたくさんお持ちですもの、やっぱりお仕事でお疲れなのね。
「………………なんだか、聞いていた話と違うんだが…………いや合っているのか…………?」
虚ろな目でぶつぶつと呟くグラシアンの腕をぐいっと引く。
だって初夜。
やることは決まっている。
「はい。ここに寝転んでくださいね。大丈夫です。一緒に寝るだけですから」
「おい……!」
ベッドへとバランスを崩したグラシアンの横で、ぽんぽんとシーツを叩く。
「私たちは政略結婚ですもの。恋愛は難しいかもしれません。でも愛は恋愛だけではないんですのよ」
さあさあ、とベッドへといざなって、無理やりグラシアンを横にして、掛け布団も掛けた後。
その隣に私もするりと寝転んだ。枕一つ分、間を空けて。
「まずは、友愛から始めませんか。友人のような夫婦だって、とても素敵だと思うのです」
隣を見れば、ぱちぱちと空色の瞳が瞬いている。
同じベッドに人がいるなんて、少しドキドキするけれど。でも夫婦とはそういうものだと聞く。
いまだ呆けた顔のグラシアン。彼に愛を教えるなら、妻の立場である私がきっと良い。
冷酷だと噂の公爵様に嫁ぐにあたり、心配性の父も兄も、嫌なことがあればすぐに戻ってきて構わないと言っていて。
ちょっぴり不安に思っていたけれど、私にもこの公爵家でできることはありそうだ。
ふふっと笑って目を閉じる。これまでとは全然違う環境だが、寝つきは良いと家族からはお墨付きだ。
「……この俺に、愛を知らないだと……? 愛を教える、だって……?」
そんな呟きは聞こえることなく、私はすやすやと眠りについたのだ。
◆◆◆
翌朝、取れない眉間のしわを擦るグラシアンは王城にいた。
有能であるがゆえラウル王子殿下にも頼りにされるグラシアンは、よく呼び出され、毎日のように登城している。
が、基本無表情。そして今はあからさまに機嫌が悪い。声をかける命知らずはおらず、遠巻きに見られていた——いや、そんな中、笑いながら肩を叩く強者が一人。
「どうした、新婚め。寝る暇もなかったか? ハハッ」
呼び出した張本人——緩く波打つ金髪に涼しげな碧眼、蕩けるような微笑を浮かべるのはラウル王子殿下だ。黙っていれば誰もが見惚れる王子様だが、いかんせんゴシップ好き。本人曰く、見かけ倒しの美青年、だそうだが。
にやにやと面白がるような様子の彼は、実際、面白がっていた。他人事だと思って。
「うるさいぞ。もっと王子らしく振る舞ったらどうだ」
「なんだよ、面白くないなあ。何のために呼んだと思うんだ」
「仕事だろう」
「ハハッ、まさか! 結婚初日の男を捕まえて、仕事なんか。社交場の華であるマドレーヌ嬢を妻にしたお前の話を聞くために決まってるだろうが。ラッキーじゃないか。どんな妬みの視線も、お前相手じゃ、思いを寄せる男たちも泣く泣く諦めると聞くぞ?」
聞くや否やグラシアンは席を立った。
「——帰るぞ」
「いーや、待て待て待て。どうせこれから毎日顔を合わせるんだろう、マドレーヌ嬢とは。今日くらい俺に付き合ってくれてもいいんじゃないか。薄情な奴だな、一体誰のおかげで一緒になれたと思ってる」
何をどう説得したのか知らないが、グラシアンの浮いた噂一つない清廉さを存分に押し出したらしい。もちろん公爵という地位も政治的な面で意味を持ったのだろうが、ラウルはマドレーヌの父ノイシュトール公爵を説き伏せ、グラシアンとマドレーヌを無事結婚させることに成功した。
全てはグラシアンの幸せのため。それからもちろん自分自身の愉しみ(ネタ作り)のためだ。
「……寄ってくる女どもにはうんざりしてたんだ。婚約が決まった後は多少落ち着いたが。まあその節は、助かったよ」
「…………おい、ちょっと待て。なんだその態度。結婚するならマドレーヌ嬢がいいってあんなに駄々を捏ねておいて?」
こみかみを押さえたラウルを、グラシアンは睨みつけた。
「駄々なんか捏ねてないだろ。もし、結婚するなら、彼女が都合良いと言っただけで」
「おいおいおいおい、いやホントに何? 彼女じゃなきゃ考えられないと言っていたお前が?? 手に入れたからってそりゃあないだろうが! まさかマドレーヌ嬢にもそんな感じとは言わないよな!?」
ラウルに呆れられて、グラシアンはとうとう無表情の顔を殴り捨てた。ついでに、言いたくもないとばかりに吐き捨てるように言う。
「…………覚えてないのか! ノイシュトール公爵の結婚の条件を!!」
「清く正しいお付き合い……節度ある結婚生活を、だっけか?」
「ああ、マドレーヌ嬢のことが心配なんだろうな。よく結婚を許してくれたと思うくらいだ。ノイシュトール公爵には会うたびに、可憐で純粋な娘に男の顔なんか見せてみろ、連れて帰ってやるからな、だぞ。どれだけ脅されてると思ってる! 連れ戻されてたまるものか! 言葉にも細心の注意を払ってだな」
「にしたって、お前も言い方があるだろう。箱入りなんだろうなとはわかっていたことじゃないか。でももう結婚はしてしまったわけだし? 大事なものはもう懐の中みたいなもんだろ? そんながちがちに考えなくたって、ほら」
「………………」
「…………え!? まさか、昨夜は……」
「……あの過保護な義父の手前、理性を保たなくてはと」
「はあっ!? こんのくっそ真面目か!?」
天を仰いだラウルは、勿体ねー、と言葉を紡いだ。
それからグラシアンの口から語られた「友愛」に愕然としたのだ。
「え……お友達から始めましょう、って……? で、寝不足? 何? バカなのお前」
「黙れ」
より鋭くなった眼光と低くなった声色を愉しむようにラウルは手を叩く。
「ハッハッ、令嬢人気抜群のお前が、あ、俺の次にね——妻に手も出せないって笑い事だわ。有能なはずの男が、一大事」
ヒヒッと変な笑い声はグラシアンの機嫌を急降下させた。
絶対零度の青い瞳をラウルに向けて言い放つ。
「そうだ、一大事だ。こんなところにいる暇もないくらいにな。というわけだからしばらくこちらには顔を出さん。俺の他にも優秀な人間くらいいるだろう。俺がいない間仕事を滞らせようものなら、俺は今後一切お前の手助けはしない。これまでの働きを考えれば、マドレーヌ嬢との結婚に注力してもらったことも当然な気がしてきたな」
グラシアンの仕事放棄発言に、当然ラウルは慌てることになったのだが、時すでに遅し。足早に闊歩する背中は決して振り返ることはなく、ただ真っ直ぐにマドレーヌが待つだろう屋敷へと戻ったのだった。
◆◆◆
「奥様、旦那様がお戻りになられました……!」
「ええ? アンネ、今日はお早いのね。普段なら陽が落ちてから戻られるのだとお聞きしていたのだけれど」
「やっぱり奥様のことが気になって、お帰りになられたのではないでしょうか。今朝もいつもとはご様子が違っておられましたし!」
何か閃いたように喜ぶアンネ——私専属のメイドである——にはわからないだろうけれど、多分、秘密がバレないかグラシアン様は心配してそわそわしていたのだと思う。
けれど安心してほしい。私の口はフォークよりも固いのよ。
興奮した様子のアンネには、父と兄に人前では絶対に見せるんじゃないと言われ続けた笑顔を向けて応えた。
母譲りのおっとりとした顔立ち、白金色の滑らかな髪、幼く見えがちな大きめのピンク色の瞳。
笑えば勘違いした野郎共が押し寄せてくるからな、と口酸っぱく言われていたが、参加したパーティーでも——油断して時々顔は緩んでいたけれど、そんなことはなかったし、心配性な二人の思い込みなのだろう。
にもかかわらず二人の心配性は年々酷くなり、常々「笑うのは家族の前だけにしなさい」と念を押されまくった。
が、嫁いだ先はもはや家族。ようやく、実家以外でも気兼ねなく笑うことができるようになったのだ。
アンネは少し頬を赤らめて下を向いた。
あら? どうしたのかしら。
もしかしてグラシアン様の秘密の片鱗に勘付いてしまったのではなくて?
さっそく不安になったけれど、アンネはモジモジと指を遊ぶばかりで、これ以上は話を続けない。
様子が少しばかりおかしいが、無事、私は口を割らないのだと伝わったようである。
笑顔で旦那様の秘密を守る妻。信頼されてこそ、愛は育んでいけるのよ。
私はドレスに隠れた手をこっそりと握りしめた。
実は、初夜翌日の今日、早々にやらかしている。ふと目覚めると、窓の外はすでに陽が高くなった後だったのだ。妻になって早々、寝坊である。一刻も早く信頼回復に努めなければ。
とはいえ、アンネの話によると、決して起こさないようにとグラシアンから指示があったのだと言う。思っていたよりも、随分と思いやりのある方だ。「愛すことはできない」私のことをわざわざ気にかけてくださるなんて。
なんだかんだグラシアンも、友愛を育てたいと前向きなのかもしれない。
そうとわかれば、妻である私は、旦那様のために全身全霊で友愛を伝え、旦那様の期待に応える必要がある。
「すぐにご挨拶を。お疲れかもしれないわ、お茶の用意もお願いできるかしら。甘いお菓子もあれば嬉しいわ」
アンネに指示をすると、我に返ったように元気のよい返事がある。それを聞き、安心して足を進ませた。
向かう先はもちろん——グラシアンの執務室である。
本当は玄関で出迎えればよかった。
が、愛初心者のグラシアンに初っ端から全力でぶち当たってしまうと、慣れないことに心が折れてしまうかもしれない。それは避けたい。
人目も少ない執務室ならば緊張も少ないのでは、と考えたからこその行動だったのだけれど。
「…………マドレーヌ嬢、なぜ、ここへ……」
ここまで険しい顔を見せられてしまえば、失敗だったのではと思えてくる。
まだ結婚二日目ですものね、少し早まってしまったかしら。
及び腰になったけれど、すぐに思い直した。
いいえ、私の使命は、愛の伝授。
「あら、もちろんグラシアン様との愛を深めに」
「ごっふ」
グラシアンの方から変な音がした。
ついでに隣にいる執事からも。
「……な……! は? それはどういう」
結婚してからというもの無表情の顔はほとんど見ていない。こちらが素なのかしら。
ここまで表情豊かであれば愛の伝授の方も期待が持てるというもの。
「お疲れでしょう? お茶とお菓子を用意しましたの。ご一緒にいかがかしら」
アンネにも披露した、母譲りの笑顔を向ければ、再び聞こえる変な音。
執事は、空気を読んだように即座に退室した。もしかすると私の意図が伝わったのかもしれない。だとすれば、なかなかの有能ぶり。お父様付きの執事を思い出した。彼もよく空気を読んでくれたから、執事とはそうであるのかもしれない。
「……ああ、もらおうか」
顔の下半分を手で覆ったグラシアンはそう言ってわざわざ執務机からも移動してくれた。
そばの応接机で顔を合わせてお茶をしてくれる。お菓子も食べてくれる。一緒にだ。
内心感動しながら、グラシアンの一挙手一投足を見つめた。
グラシアン様は愛を知らないわけじゃない。きっと表に出すのが苦手なだけなのよ——!
「…………なんだか、またあらぬ方向に向かっているような……?」
「まあ。いかがされました? そんな険しいお顔をされて。やっぱりお疲れなのですよ、働きすぎなのではありませんか? せっかく整ったお顔ですもの、怖いシワはないほうが格好いいですわ。ふふ、時々こうやってお茶してくださいね。よろしければ私もお付き合いいたします。お茶会は大好きですので」
無表情の顔から、また変な音が鳴る。
一体どうされたのかしら? まさか、むせていらっしゃる!?
慌ててグラシアンの隣に身体を移した。そうして大きくて広い背中を撫でる。
辛い時、家族にこうしてもらうと少し落ち着いた。首元を真っ赤にするグラシアンは、やはり辛そうに見える。
これで少しでも楽になると良いのだけれど。
「ま、マドレーヌ嬢、もう、やめてくれ……」
「……大丈夫ですか? まだお辛そうですが。私も家族にしてもらったことがありますが、多少楽にはなりませんか?」
「っ、もう充分だ」
確かに顔は赤いけれど、変な音は聞こえない。落ち着いたのだろう。
私の心もほっとして、それからハッとした。
「今の……! 今のは、家族愛に近かったのではございませんか?」
きゅうっとグラシアンの顔のパーツが中央に寄った。
「……家族愛……」
「ええ! まさしく! 家族が辛そうにしている時に助けてあげられる。辛そうなお顔は見たくなくて、大事にしたいと思う。これが家族愛ですわ!」
「……家族愛……」
これが、と震える手のひらを見つめるグラシアンに満足げに頷いた。
友愛に続き、家族愛までも。なんとも順調である。
初めて知る家族愛に感動しているようなグラシアンを見て、私も嬉しくなる。
もしかして幼い頃から家族の愛情に触れてこられなかったのかもしれない。バリバリと事業をこなすアーレンハイム公爵家ですもの、のんびりとしている我が家とは違うのかも。
子に甘い我が家では、幼い私に親が毎晩読み聞かせしてくれていた。近くで聴こえる声や私だけを見てくれる時間が嬉しくて温かい気持ちになったものだ。
そんな気持ちをグラシアン様にも教えてあげられたなら。
私の中で何かが閃いた。そうよ、読み聞かせなんてどうかしら。
大人の男性にすることではないかもしれないけれど、一通り実践してみるのもアリかもしれない。
「グラシアン様! 今日も夜は一緒に寝ましょうね。お待ちしておりますわ」
「ごっふ」
書類を届けに再入室してきた執事と再びシンクロしていた。
もしかして、流行っているのかしら。
私も練習したほうが良いのかアンネに確認してみることにしましょう。
そんなこんなで、この夜から、グラシアンに家族愛を伝えるための読み聞かせが始まったのだ。
◆◆◆
「もう……辛い。辛すぎるんだが」
「なんだよ、しばらく来ないんじゃなかったのか」
書類の山に囲まれたラウルを無視して、グラシアンは長い長いため息を吐く。
「こんなに我慢して耐えているのに、家族愛……家族愛だと……? いや間違ってはいないか、家族ではあるわけだからな……だが、友人の次は家族……」
あのお茶会の後から十日間、毎日愛する妻による読み聞かせが開催されていた。
心地良い声、近くで聴こえる息づかい、それに甘い匂いまでするのだから、たまったものではない。精神力と理性を無理やり鍛えさせられている。
この数日で奥歯がすり減ったかもしれない。
「人が仕事に追われてバタバタしてるっていうのにそんな話? 家庭の話を職場に持ち込まないでくれる?」
先日真っ先に私情で呼び出したラウルに言われる筋合いはない。
「おー、こわ。そんな顔なんか見せたらマドレーヌ嬢倒れちゃうんじゃないか。慣れてないだろ」
「お前とマドレーヌ嬢を一緒にするな。するわけがないだろう」
面倒くさそうに書類をひらひらさせたラウルをギロリと睨みつけた。
「そう睨むなよ。本当のことだろう? そんな悶々と悩むくらいなら、正直に話せばいいんじゃないか? ノイシュトール公爵との約束のこと、マドレーヌ嬢は知らないんだろう? それに、お前はちゃんと自分の気持ちは説明したのか? ま、こんな百面相のお前を見ることなんかないからな、俺としてはこのままでも面白……じゃなくて、お前の好きにすればいいと思うけどな」
いつもなら聞き流すラウルの小言に思わず、ハッとした。
友愛と家族愛に夢中なマドレーヌ。
一生懸命に愛を——自分が今一番欲しい類のものではない愛を説く彼女すら、可愛らしいと思っていたけれど、だ。
もし、自分の中に燻っている、マドレーヌへの愛を正確に伝えたとしたら。
驚くだろうか。それともまた斜め上の反応を見せてくれるだろうか。——けれどもし、男として意識してくれたなら?
マドレーヌの反応を想像すると、胸が躍った。
「おい! せっかく来たんだから、この山を一つくらい片付けていったらどうだ!」
ラウルの泣き言を受けて、ささっと書類の山を一つ片付けた。周りの側近から歓声に近い声が上がる。それを聞きながら踵を返した。
全く、こんなところにいる場合ではない。
◆◆◆
思い立ったが吉日で。
読み聞かせを始めてから十日経つ。
執事に本のおすすめを聞けば困ったように眉を下げられたけれど、初めだけ。二度目以降は生温かい目で見られるようになった。おそらく応援されているのだと思う。でなければグラシアンの片腕である彼が大人しく本を選んでくれるはずがないのだ。
今日もまた、広いベッドの上でグラシアンを待つ。
もちろん本を傍らに置いて。
「お待ちしておりましたわ。本日はこちらの本を」
グラシアンは湯浴みを終えた寛いだ格好で現れた。
普段のきっちりとした格好からは想像もつかない姿に初日はどぎまぎしたものだが、よくよく考えれば気を許してもらえているということ。そうと知ってしまえば、この姿を見るたび口元が緩む。
「——マドレーヌ嬢」
グラシアンがするりと、クッションに寄りかかるようにしてベッドに座った。
これまでなら、たくさんたくさん説得して、ようやく座ってくれていたグラシアンが、自ら。
ギシッと軋んだベッドの音がやけに大きく聞こえて、本に伸ばしていた手を止めた。
「楽しみだ。今日はどんな話を、その声で聞かせてくれるのか」
いつもとは雰囲気の違う低音の声が耳をくすぐった。
「え、ええ。本日の本もおすすめを選んでいただきまして」
「家族愛の、練習だったな。今日もよろしく頼む」
いつになくグラシアンが積極的だ。思わずじっと見つめてしまうと、骨ばった顎や、首の筋、ちらりと見える胸板に目が留まる。
どれもこれも私とは違う。似ているのはやはり兄だろうか。
でもお兄様は家族だから、近くにいても、これほど緊張はしなかったわ。
……いいえ、おかしいですわ。グラシアン様も、同じ家族ですのに……?
矛盾が起きた頭の中を振り払うようにふるふると首を振った。今考えることではない気がする。
気を取り直して、本を開いて文字を追う。本の世界に入ってほしいから、どもることなく読みたいのに、ずっと空色の瞳が真っ直ぐ私を見るから、集中できない。
うう、私の使命は……家族愛の再現……!
そう心の中で何度も唱えて、なんとか読み終えた頃には、ふうと達成感の吐息を漏らした。
なんだか様子の違うグラシアン様相手によくやりきったと、自分を褒めてあげたい。
しかもだ。
「ふっ、マドレーヌ嬢のおかげで、家族愛がよくわかった。感謝する」
そんなことを言われたものだから、ぱっと笑顔になる。報われたようなそんな気持ちだ。
「まあ! こちらこそ最後までお聞きくださりありがとうございます。友人として家族として、少しでも親愛を深めることができたのなら私もとても嬉しいですわ」
グラシアンは眉を顰めるようにして口元を歪ませた。
「……そんな顔を、ここで、俺に見せるのか?」
笑おうとして失敗したような顔を、一度引き締めて、そっと私の手のひらを広げる。その上に小さな箱を載せた。
「……これは?」
「本当はもっと早く——最初の夜に、言うつもりだった」
開けるよう促されて、上下に蓋を開くとそこには淡い水色の——グラシアンの瞳にそっくりな空色の宝石が台座に載った指輪が納められていた。
「マドレーヌ嬢は義父上殿から愛されているな。必ず幸せにしろ、と。泣かせるな、とも散々念を押されていて。どこまで触れてよいのか、悩みもしたのだが」
差し出された手の上に、導かれるように手を載せた。
そんな私に苦笑して、グラシアンは開いたばかりの箱から指輪を取り出すと、私の指にそっと嵌める。
「……え」
「——政略じゃない。俺は、君のことを、一人の女性として好きで。いつだって君が頭から離れたことはない。俺のために、俺を想って、友愛やら家族愛やらに奔走してくれる君が愛おしくて、だ」
整った顔から——冷酷に見えるその顔から、情熱を帯びた瞳で見つめられる。
「君から触れてくれたのだから、俺も触れてもいいだろう?」
持ち上げられた指先にキスが落ちる。どくんと胸が鳴った。
「ずっと君だけを愛すと誓おう。俺と生涯を共にしてくれないか」
それはまるで、慣例に沿って流れるように行われた結婚式の、やり直しのような。
嵌められた指輪が存在感を持って輝いている。
「え……?」
「知らないか? 求愛って言うんだ」
何と言えばよいか分からず困惑する私に向かって、大真面目な顔で愛を説く。
その顔は、友人でもなく、ただの家族でもない。
「愛を教えてくれたのは、君だろう?」
一人の男性。私の旦那様。
意識してしまえば頬がカッと熱を持つ。その頬を優しくグラシアンの指が撫でていく。
とんとんとグラシアンは自分の隣を叩いた。
「読み聞かせも済んだことだ。さあ、いつも通り、共に寝よう」
グラシアンが薄く笑みを浮かべた。
だからだ。いつもとは違って、心臓の音がうるさいのは。
「……そ、うですね。早く、寝ませんと、疲れも……取れませんし」
今さら、正しく突きつけられた関係性に戸惑う自分を見せたくなくて、装った平常心は。
私の手を包む、グラシアンの体温にあっさりと崩れ去った。
どんどんと大きくなる自分の心音で眠れる気がしませんが?
グラシアンはずっと待ち構えているように上半身だけ身体を起こしていて、手を離してはくれないし、なんなら少し引かれているし、寝ないと疲れが取れないし。
ううう、と変な声を出しながら、意を決して、隣で横になる。
枕一つ分空いた隙間は、いつもどおり。
ただ、その真ん中で、握られたままの手が私をドキドキさせてくる。
「……あの! 手は……!」
「何か問題が? 俺たちにはすでに、友愛も家族愛も親愛もあって、さっきは求愛もした仲だ。それに、そもそも夫婦であるわけだし」
そう素知らぬ顔で、なぜか笑顔のまま。
枕に片肘をついて身体ごと私の方を向くグラシアンは。
——本当に、いつものグラシアン様なの?
「ですが……」
「求愛もしてせっかく友人から抜け出せた気がするのに勿体無い。もっと近づいてもいいんだぞ」
そう言って本当に近づいてこようとするから、慌てて目を閉じた。
これ以上近づけば、グラシアンに心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「わ、わかりましたわ! 今日はこのまま寝ることにしましょう! おやすみなさいませっ」
ぎゅっと瞑った暗闇の中で、くつくつと喉が鳴る音がする。
「——さっきの求愛の返事は、明日だろうか?」
「え!?」
せっかく閉じた目もまあるく開いた。
目の前に笑う整った顔がある。反射的に後ろに下がろうとした身体は、繋がったままの手が邪魔をした。
「おや、そんなに驚くか? 親愛なるマドレーヌ嬢は問われれば答えてくれるものと思っていたが。まあ、俺がただマドレーヌの答えを聞きたいわけだが」
「……す、すでに私たちは夫婦、ですから、返事など決まって……!」
本当に? と、形の良い唇が動く。
「別に明日でなくとも構わない。三日後でも、一週間後でも、一ヶ月後でも。なんせ俺たちはすでに夫婦なのだからな」
でしたら、やはり、もう返事なんて必要ないのでは……。
そんな反論も許されないほど、造作の整った顔が目の前にあり、苦し紛れに口を尖らせた。
「……っ、グラシアン様は、こんな方でしたか?」
「君が勝手に言ったんだ。愛を知らないと。……いいや、違うな。君が俺に知らない愛を教えてくれたんだ。であれば、その責任は君にあると思わないか? まあ、答えてくれるまで、何度も求愛するだけだが」
どこまでも真っ直ぐに、漏れ出す色気を浴びせられては、もう心臓がもたない。
今思えば、結婚前までは近くに過保護な父と兄がいた。二人っきりで、しかもここまで近距離で、話したことはなかった。
今夜のグラシアンはいつもとはどこか違って、そのせいでずっとドキドキしていて、どうしたら良いのかわからないけれど。
でも、答えは決まっているのだ。
パーティーで見かけるたび、囲まれたご令嬢の隙間から見える無表情な顔。そんな彼が、初めての顔合わせの時に、ふんわりと目尻を下げた。
その時の春の日差しを思わせるような瞳がひどく印象的で、頭の奥ではずっと、彼の優しい瞳が私を見ている。
「……グラシアン様……その、私も、」
伝えたいのに、口は少ししか開かない。緊張しているのかもしれない。何もかもが初めてだ。
ああ、私の意気地なし。
涙が浮かんで、視界が滲む。
——途端、グラシアンが慌てたように手で制した。
「い、いや! 泣かないでくれ! これ以上は義父上殿に怒られるような気がしてきたな。それに今はやめておこう! ——ぜひ、この返事は、陽の高い日中に」
「え? ええ、はい。……に、日中に……?」
「ああ。うむ。楽しみに、待っている」
なぜか急に、グラシアンが放つ強烈な色気から——緊張から解き放たれた。
私は困惑しながらも、ほっとした反動か、目を瞑ればあっという間に眠りにつき。
「……手を繋いでいるだけでは、足りなかったか? ——まあ、これからか」
グラシアンの口からそんな言葉が出てきたことなど露知らず。
手のひらに与えられる体温を抱きしめるように、安心しきった顔で寝息を立てていたらしい。
次の日、急にお父様から来訪の知らせが届き、どこかで見られているのではないかとグラシアンはそわっそわしていたけれど、お父様の思いつきな行動はよくあることなのでこれから慣れていってもらうとして。
「一応確認だが、私の可愛い娘に大きな虫などたかっていないだろうな?」
「……ノイシュトール公爵……俺の目の黒いうちは決して」
グラシアンのあまりの慌てように少し心配に思っていたけれど、彼はいつも通りに父と顔を合わせていた。二人揃って無表情かつ真面目な顔で対峙している。
彼らはいつも目で会話をする。私もいつかできるようになるのかしら。
さて、私はというと——。
グラシアンとの会話が終わったお父様が甘い顔をしてハグしてきたので、こっそりと耳打ちした。
「グラシアン様が結婚相手でよかったですわ」
愛するお母様に良く似た、満面の笑顔で。
グラシアンの苦悩(煩悩?)は続く……




