噛まれる距離
通路は、いつの間にか静かになっていた。
奥まで来ている。そう判断できる程度には、景色が変わっている。岩肌は荒れ、足元に落ちている欠片も大きい。途中、ゴブリンが何体かいたが、どれも単独だった。澪は足を止めることなく近づき、頭を蹴り飛ばして処理する。棍棒を振り上げる前に距離を詰めれば、相手にならない。
血の匂いが残る中、少し開けた空間に出た。
そこに、一体だけ獣がいた。
灰色の毛並み。犬に似た体躯だが、体格は一回り大きい。低く身を伏せ、こちらを見据えている。
ダンジョンウルフ。
一層に出現する獣型モンスターだ。
資料で見たことはある。速度があり、噛みつきが危険。複数で出ることもあるが、単体でも油断はするな――そんな注意書きだったはずだ。
澪は一瞬だけ足を止めた。
引き返すという選択肢が、頭をよぎらなかったわけではない。だが、理由がない。避ける理由も、後回しにする理由もない。進むなら、いずれは通る。
澪は姿を隠さず、一歩踏み出した。
ウルフはすぐに反応した。突っ込んではこない。低い唸り声を上げ、距離を保ったまま睨みつけてくる。警戒している。ゴブリンとは、明らかに違う。
正面から行っていい相手か。
そう考えた直後、澪はそれを切り捨てた。このまま睨み合っていても、何も変わらない。
澪は地面を蹴った。
接近と同時に、蹴りを繰り出す。体勢的に一番やりやすかったからだ。だが、ウルフはそれを読んでいた。軽く身を引き、蹴りをかわすと、すぐに距離を取る。
「……なるほど」
口に出した瞬間、澪は警戒を強めた。速い。判断も早い。正面から殴り合う相手じゃない。
睨み合いが続く。
先に動いたのはウルフだった。円を描くように走り出し、澪の周囲を回る。視界の端で影が揺れ、距離感が崩れる。
まずい。
目で追っていた分、外された瞬間に反応が遅れた。振り向いたときには、もう間合いだった。
苦し紛れに蹴りを出す。しかし、届かない。
次の瞬間、左腕に衝撃が走った。
噛まれた。
牙が食い込み、肉を引き裂く感触がはっきりと伝わる。激痛に、思わず息が詰まる。
「……っ」
ウルフは離さない。腕を引きちぎるつもりらしい。
「……調子に乗るなよ、クソ犬が……!」
吐き捨てるように言った瞬間、澪の思考が切り替わった。痛みは消えない。ただ、無視できる程度には押し下げられる。
右手が動く。
狙う場所は決まっていた。顔の位置を確認し、指を突き立てる。
ぐしゃり、と嫌な感触が指先に伝わった。
ウルフが甲高い悲鳴を上げ、牙が外れる。澪はすぐに距離を取った。左腕から血が滴るが、構わない。
片目を潰されたウルフは、動きが鈍っていた。それでも本能的に距離を取り、再び円を描くように走り出す。だが、さっきとは違う。視界が欠けている分、動きに迷いがある。
同じだ。
澪はウルフの死角に入るタイミングを待ち、一気に距離を詰めた。ウルフも反射的に引っ掻いてくるが、軌道は単純だ。澪はそれをかわし、腹部に蹴りを叩き込む。
獣の体が吹き飛び、地面に転がる。
澪は間を置かず、右目に狙いを定めた。ウルフは立ち上がろうとしたが、ふらついている。こちらを正確に捉えられていない。
そのまま、右目を潰す。
完全に視界を失ったウルフは、意味のない方向に頭を振った。澪は近づき、頭部を何度も踏み抜く。感触が変わり、抵抗が消えるまで、足を止めなかった。
砂のように崩れるのを確認してから、澪は一歩下がった。
「……最悪」
息を吐く。
勝った実感はない。あるのは、不快感だけだ。こんな相手に噛まれた事実が、ひたすら気に入らない。
そのとき、遅れて痛みが戻ってきた。左腕が熱を持ち、感覚が曖昧になる。
「クソが……」
呟きながら腕を見る。
血は出ているが、思ったよりも深くない。
「……あれ?」
さっきの感触を思い返し、首を傾げる。
この傷、こんなに浅かったか?
違和感を残したまま、澪はその場に立ち尽くした。




