彼女の人生
彼女は小さい頃から、ダンジョンに憧れを持っていた。
資源も、エネルギーも、強さも。何もかもが手に入る不思議な空間――そういう言葉の並びが、子どもの好奇心を容赦なく掻き立てた。
ダンジョンは日常の外じゃない。
対戦型の配信は当たり前で、ニュースも広告も、そこに紐づいて回っている。
それでも――試練型の奥へ踏み込む話だけは、空気が少し変わる。
「蘇生があるから平気」と笑う人の声が、ほんの少しだけ軽くなるのを彼女は知っていた。
だから余計に、惹かれた。
誰もが口にするのに、誰もが同じ場所を避けている。そこに“何か”がある。
その“何か”を、彼女は見たかった。
*
中学を卒業したその日に、彼女はダンジョンへ足を踏み入れた。
動きやすい服。握り慣れていない武器。
胸の奥だけが、妙に軽かった。
最初に現れたのは、ゴブリンだった。
たった一匹。普通なら何の苦もなく勝てる相手だった。
なのに、彼女は遅れをとった。
届かない。
追いつけない。
振った武器は空を切り、次の瞬間には視界が揺れて床が近づく。頬に当たった石が冷たくて、息が抜けた。
(……勝てない)
悔しいのに、泣くほどでもない。
ただ、どうしていいか分からないという感覚だけが残る。
彼女にはダンジョンを諦める選択肢などなかった。
諦めないと決めたというより、諦めるという発想がそもそも浮かばなかった。
それくらい、彼女にとってダンジョンは“前提”だった。
じゃあ、どうする。
戦う才能がない。
でも関わりたい。
関わりたいのに、入れない。
彼女は迷って、迷って、迷い続けて――そして決めた。
戦闘者を諦め、研究者になる。
*
研究者になると決めても、現実は簡単に優しくならない。
この世界のダンジョンは、試練型でも対戦型でも、パーティ登録をしない限り同じ空間を共有できない。
一人で“潜ったつもり”でも、同じ場所には立てない。
戦えない者は、扉の外に置かれる。
誰かに連れて行ってもらう必要がある。
けれど足手まといの自分を連れ添って戦ってくれる仲間など、簡単に見つからない。
親切があったとしても一回きり。継続しない。続かない。
彼女は“知識”にすがりついた。
ダンジョンのことも、それ以外のことも。読めるものは全部読み、聞けることは全部聞き、分からない言葉は全部調べた。
現場に入れないなら、机の上で戦えばいい。
それしかなかった。
いつの間にか、彼女は学校内でぶっちぎりの頭脳を持つに至った。
それでも、その憧れは誰にも拾われない。
扉の前に立てない日々が続く。
“正しい努力”をしているのに、正しい場所に行けない。
その感覚が、彼女の中で静かに腐り始めていた。
*
そんな中で、彼女は一人の少女に出会った。
第一印象は「勿体ない」だった。
ぼさぼさの髪。丸まった背中。尖った空気。
誰も近づかせないという意思が、皮膚の外側に貼りついているみたいだった。
なのに、顔はやけに整っている。
同じ女子として、どうしても気になってしまう。
声をかけても、とりつく島がない。
近づけば振り払われる。
それでも彼女は、なぜかその少女を見てしまっていた。
ある日、少女の機嫌が妙にいいことに気づく。
少し前まで丸まっていた背が伸び、雰囲気が丸くなっていた。
「気のせい」では片づけにくい。明確に何かが変わっている。
彼女は声をかけた。
その時だろう。彼女たちの運命の賽が投げられたのは。
*
少女は探索者だった。
無能者だと聞いていたはずなのに、目の前の少女は違った。
自分の力でダンジョンと戦い、恩恵を勝ち取っている。
その事実を、彼女は羨ましく思った。
ああ、なぜ天は自分に戦闘センスを与えなかったのだろう。
その時は本気でそう思っていた。
でも、それより先に――目が離せなかった。
少女は、一層ボスをあまりにも容易く倒していた。
ダンジョン歴は、たった二週間。
配信で見てきた“一層五階到達者”とも、まるで違う。
――知りたい。
――見たい。
その衝動が喉の奥まで上がってきた。
でも、同時にほんの少しだけ怖かった。
残虐で、歪んでいて。
それでも少女は、どこか俯いていた。
その時、彼女は理解した。
少女は悪魔ではなく人間なのだと
だから決めた。
一人にはしない。
二人は同じ方向に歩き出した。
*
それからの日々は、彩りだった。
少女と議論して、観察して、仮説を立てて、確かめて。
好きなダンジョンに関われることが、ただ嬉しかった。
けれど同時に、彼女はずっと不安だった。
この関係は、少女の気まぐれひとつで終わるかもしれない。
自分は役に立っていないかもしれない。
ただ隣にいるだけの存在かもしれない。
そんな葛藤を抱えたまま、二人は節目に到達した。
上級探索者の登竜門と呼ばれる階層。
ここを超えられるのは全探索者の五割程度。
しかも少女は、足手まといを連れたまま、単独で攻略しようとしていた。
彼女は何もできない。黙って見ているつもりだった。
つもりだったのだ。
しかし現れたのは、規格外の強さを持ったイレギュラーだった。
黒いミノタウロス。
少女は倒れた。
地に伏した。
それでも立ち上がろうとした。
彼女は、その姿を見て初めて、焦った。
胸が潰れるみたいに痛くなった。
何かを探した。
できることを探した。
でも現実は、彼女のために都合よく進まない。
少なくとも、彼女のためには。
その時、彼女は思ってしまった。
自分は愛されていないのかもしれない、と。
でも同時に、彼女は気づいた。
少女は―― ダンジョンに愛されていたように見えた。
彼女は少女の力になりたいと思っていたからこそ気づいた。
そのイレギュラーに勝つ方法を。
少女がその壁をぶち破る方法を。
錯覚かもしれない。見当違いかもしれない。
それでも、その瞬間だけは間違いなく“そうだ”と思った。
彼女は叫んだ。
少女に。
勝つための道を。
長い決闘の末、少女は勝利した。
勝った。
それだけのはずなのに、胸の奥が熱くて、手が震えていた。
笑いたいのに息が詰まる。泣くほどじゃないのに目が痛い。
彼女はただ、何度も瞬きをした。
——言葉にすると、どれも嘘になる気がした。
*
長い時間が経ち、彼女は一つの結論を出した。
この少女の人生をプロデュースする。
それが自分に与えられた意味なのだと。
錯覚かもしれない。思い上がりかもしれない。
でも、そうでも思わないと前へ進めない。
この少女の到達する高みを、隣で見たい。
世界一の称号を、この子に渡したい。
だからもう迷わない。
少女のために、人を、世界を知る。
その心が赴くままに、彼女は思考を続けた。
——朝倉ひなたは、そう決めた。




