この瞬間の勝利
「……こんな、ことでぇ……」
澪は膝をついた。床の冷たさが、皮膚越しに骨まで染みてくる。肺が潰れたみたいに息が浅い。吸っても入ってこない。吐けば、全部持っていかれる。脚に力が入らず、立ち上がるという動作そのものが遠い。
それでも、手だけは床を掴んだ。爪先が石を引っかく。前に進むためじゃない。倒れないためだ。
ミノタウロスが低く沈んだ。角が前を向き、床石がきしむ。
次の瞬間、世界が“押し潰す”方向にだけ歪んだ。
「オオオオオオオ……ッ!!」
咆哮が耳を叩き、黒い巨体が一直線に迫る。速い。重い。近い。
澪の脳が「無理だ」と言う前に、肺が勝手に息を吐いた。息を吸う余裕がない。心臓だけが暴れる。
(来る、来る、来る――!)
逃げたい。跳びたい。下がりたい。
でも脚は動かない。膝が笑う。足首が外れそうだ。
それでも、澪は“逃げる方向”を捨てた。横へ跳べば、着地の瞬間に轢き殺される。後ろへ下がれば、勢いに飲まれる。
だから――前だ。
角先が迫る。獣臭と熱気が鼻を焼く。
澪は自分の脚を殴りつけるみたいに力を込めた。筋肉がちぎれそうに悲鳴を上げる。
半歩。
たった半歩、内側へ潜り込む。
だが身体は言うことを聞かない。狙った軌道より遅れ、角が頬を削った。熱い。皮膚が裂ける感覚。視界が赤く滲む。
それでも、当たっていない。
巨体がすり抜けた風圧だけで、澪の背骨が軋む。肋が鳴る。肺が押し潰され、声にならない息が漏れた。
「――っ、は……!」
次の瞬間、轟音。
ミノタウロスが壁に突き刺さり、石が爆ぜた。粉塵が舞い、壁に大穴が開く。破片が雨のように落ち、床を叩く。
澪はそこで崩れかけた。足が抜ける。腰が落ちる。
倒れれば終わりだと分かっているのに、身体が勝手に終わろうとする。
(ふざけるな……!)
澪は床を掴んだ。指先が石に擦れて皮が剥ける。痛い。だが痛みがあるうちはまだ動ける。
喉の奥で血の味がした。呼吸が薄い。視界が揺れる。
それでも、顔を上げた。
粉塵の向こうで、黒い巨体がゆっくり振り向く。
その目が、今度こそ“刈り取る目”になっていた。
澪は、崩れかけた姿勢のまま、息を吐いた。いや、吐こうとして、喉が乾いた音を立てるだけだった。
(……もう、ない)
体力は雀の涙。
次を外せば終わる。次を受ければ死ぬ。次が最後になる。
粉塵の向こうで、ミノタウロスがゆっくり振り向く。壁の穴から外光が差し、黒い体毛が鈍く光った。獣の目が澪を捉え、鼻息が短く荒く鳴る。
澪は、なぜか笑いそうになった。
苦しい。痛い。限界だ。なのに、この感覚が――嫌いじゃない。
自分の境界線が、今まさに壊れている。
怖さと、興奮と、快感と、優越が、ごちゃ混ぜで喉元までせり上がる。
「……はあぁ」
澪は立ち上がった。脚が震える。視界が揺れる。身体の内側が焼けている。
それでも、拳を握った。
そして、粉塵の中へ向かって告げた。
「次で終わりにする」
ミノタウロスが返事をしたかは分からない。
ただ、姿勢が落ちた。角が前を向いた。突進の構え。――最も得意な形。
澪も、深く息を吸う。胸が痛む。肺がひりつく。
それでも吸った。限界の奥に、まだ火種が残っている。
静寂が訪れる。
この瞬間だけは、ひなたの声も、粉塵の匂いも、砕けた石の音も遠い。
二人だけの、決闘の時間。
先に飛び出したのはミノタウロスだった。
床が爆ぜ、空気が裂け、黒い巨体が一直線に迫る。これまでで一番速い。これまでで一番重い。
澪は、逃げない。横にも跳ばない。
冷静に、確実に――軸を外す。
角をかわした瞬間、ミノタウロスが急停止する。予想通りだ。ここから裏拳。何度も見た。何度も食らってきた。
(既知だ)
澪は姿勢を低く保ったまま、裏拳の軌道を“見て”、かわす。
風が髪を散らし、頬を掠める。だが致命にはならない。
そして、相手の体がほんの一瞬だけ開く。
突進からの急停止――その反動で、心臓の位置が浮く瞬間。
澪は、そこへ踏み込んだ。
躊躇はない。
迷いもない。
拳に全身を乗せた。床を蹴り、腰を回し、肩を通し、骨の芯まで使って――心臓へ。
「――今、この瞬間に勝つ……!」
拳がめり込む。
手応えがあった。肉と骨の抵抗。
次の瞬間、内部で何かが破裂した感触。ミノタウロスの体が揺れ、咆哮が喉で途切れる。
同時に、澪の腕が吹き飛んだ。
衝撃の反動が、腕を根元から持っていく。骨が裂け、筋がちぎれ、視界が一瞬遅れて暗転しそうになる。
痛みは遅れて追いつき、熱が一気に全身を包んだ。
それでも、澪は立っていた。
立ったまま――最後の一撃を成立させた。
ミノタウロスは一歩、二歩とよろけた。
それでも最後に、雄叫びを上げる。
勝鬨じゃない。怒りでもない。
まるで勝者を讃えるみたいに、戦いを終えるための咆哮。
「BUMOOOOOO――」
声が砂に変わっていく。
黒い毛並みが崩れ、巨体が粒子になり、床へ落ちて消えた。
静寂。
砕けた石の小さな音だけが、遅れて聞こえてくる。
ひなたは声を出せなかった。手も動かなかった。目の前で起きた“決着”が、理解より先に胸を圧迫していた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
ようやく呼吸を思い出したひなたが、震える声で言う。
「み、澪ちゃん……その、腕が……」
返事はない。
「……澪ちゃん?」
その時になって、ようやく気づく。
澪は――立ったまま、気絶していた。勝った姿勢のまま、意識だけが落ちている。
ひなたは腰が抜けたようにその場に座り込んだ。笑うしかなかった。
「……確かに、戦いの中で成長しろって言ったよ? 言ったけどさ……」
乾いた笑いが、部屋に転がる。
「戦後まで少年漫画みたいなこと、やる? 普通……」
そして、ひなたは澪を支えるために立ち上がった。
壁に開いた大穴の向こう、次の階層へ繋がる空気が流れ込んでくる。
そうして澪たちは、ひとつの壁――“一層”を突破した。




