拮抗する力
鳩尾に沈んだ手応えは、ほんの一瞬だけだった。
黒い巨体が、わずかに“沈む”。数センチ。たったそれだけ。
それなのに、澪の胸の奥で何かが弾けた。
(通った)
次の瞬間、その予感を叩き潰すようにミノタウロスの空気が変わる。
鼻息が荒く吐き出され、足裏が床を噛んだ。砕けた石が跳ねる。巨体が沈み、跳ね上がる。
――ギアが上がった。
重さが違う。速さが違う。
さっきまでの連撃は“狩り”だった。今のは“殺し”だ。
一歩。
床が鳴る前に拳が来た。
澪は肩を落とし、半身で受け流す。肘に衝撃が刺さる。痛みが走る。それでも崩れない。足が沈むだけで済む。
二撃目。
裏拳が横薙ぎに走る。風圧が頬を撫で、髪が持っていかれる。澪は首を引き、すれ違いざまに踏み替えた。
“見えている”。ほんの少し。拳の起こりが、さっきより遅く感じる。
三撃目。
蹴り。膝。肘。
巨大な体から出ているとは思えない連結。どれも途切れず繋がって、澪の逃げ道を削ってくる。回避が間に合わない。肩に直撃。肋が軋み、息が漏れた。
それでも倒れない。
(……なんで、踏ん張れてる)
理由は分からない。分かるのは一つだけ。
さっきまでの“ただの被弾”が、今は“耐えた被弾”に変わっている。衝撃の芯が外れ、体の中で散っていく。痛みはある。胃が浮く。肺が焼ける。だが、足が残る。
ミノタウロスの眉間に皺が寄った。
苛立ち。
獲物が崩れないことへの苛立ちだ。
咆哮が落ちる。空気が震え、次の一撃がさらに速くなる。
澪は反射で動く。腰を沈め、拳の下をくぐり、肩を押し当てて軌道をずらす。手首が熱い。骨が悲鳴を上げる。だが折れない。
視界の端で、黒い体毛が揺れた。
ミノタウロスが踏み込む癖――重心が一瞬だけ前に落ちる。そこに“隙”が生まれる。
(今なら――)
澪の拳が握り直される。
だが、打たない。
身体が、まだ早いと言っている。理屈じゃない。直感の方が先に答えを出していた。
もう一度、突進。
角が迫る。床が裂ける。
澪は横へ逃げない。斜め前へ滑り込み、風の刃の中を抜けた。頬が切れ、血が温かく垂れる。背後で壁が砕ける轟音。粉塵が舞い、視界が白む。
澪は、粉塵の中で呼吸を整えようとして――
気づく。
(……息が、追いつかない)
肺が熱い。心臓が暴れる。
筋肉は動いているのに、血が回らない。目の焦点が一瞬だけ合わなくなる。
その“瞬き”が致命的だった。
粉塵が割れて、ミノタウロスがもう目の前にいる。
距離が消えている。いつ詰めた。どう詰めた。考える前に、拳が落ちた。
澪は腕を上げる。
間に合う。
間に合うはず――
視界がぐらついた。
ほんの一瞬。足元が抜ける感覚。
その刹那、受けの角度がずれた。
衝撃が腕を貫き、肩の奥まで突き刺さる。骨が軋み、関節が悲鳴を上げた。吹き飛ばされる一歩手前。身体が宙に浮きかけ、必死に床を掴んで落ちる。
「――っ!」
息が詰まる。喉の奥が熱い。
痛みが遅れて押し寄せ、視界が滲む。
ミノタウロスは止まらない。
今の一撃で仕留め損ねたことが気に食わないのか、さらに踏み込む。殺気が濃くなる。攻撃の線が、さっきより鋭く、直線的になる。
澪は一歩下がりかけて、踏みとどまった。
(いけると思ったら、これだ)
笑いそうになる。
だが笑えない。脚が震える。呼吸が浅い。視界の端が暗い。
それでも――
拳を解かない。
ミノタウロスの影が落ちる。
次の一撃が、来る。




