ひなたの作戦
立ち上がったところで、状況は何一つ好転していなかった。
視界の端で、黒い巨体がわずかに揺れる。次の瞬間、空気が震えた。ミノタウロスが、満身創痍の澪を“仕留める側”の目で見据えている。そこに躊躇はない。勝鬨は終わり、狩りの続行だ。
踏み込み。
床石が砕け、巨体が迫る。拳が唸りを上げて振り下ろされる。澪は横へ跳ぶ。だが跳躍は浅い。拳そのものは避けたはずなのに、風圧だけで肺が押し潰され、呼吸が詰まる。体が軽く浮き、そのまま転がる。
止まらない。
二撃目。今度は回し蹴り。空気を裂く音が耳元を掠める。澪は片手を床につき、無理やり軸をずらして滑り込むように距離を取る。頬に石片が当たり、血が滲む。
反撃の隙は、ない。
ミノタウロスの動きは速く、そして重い。オークやオーガのような鈍重さはどこにもない。巨体に似合わぬ加速。止まらぬ連撃。攻撃の合間が存在しない。
(……まだ足りない)
体は再生し始めている。折れた骨も、裂けた筋も、わずかに熱を帯びて戻りつつある。だが回復よりも、消耗の方が速い。攻撃をかわすたびに体力が削られ、肺が焼ける。
拳が振り抜かれるたびに、死が横を通り過ぎる。
澪は歯を食いしばり、ただ逃げる。前に出られない。出れば終わると本能が告げている。
ミノタウロスは息を乱さない。
対して澪の呼吸は荒い。鼓動が耳鳴りのように響く。ほんの数十秒の攻防。それだけで、両者の格差ははっきりと刻み込まれていた。
「……っ」
足がわずかにもつれた。その一瞬を、ミノタウロスは見逃さない。
拳が、迫る。
――まだ、弱い。
その事実だけが、残酷なほど鮮明だった。
迫る拳を、澪は咄嗟に両腕で挟み込むように受けた。
直撃は避けた。だが衝撃は殺し切れない。骨を通して全身に鈍い振動が走る。踏ん張った足が床石を削り、靴底が滑る。
――重い。
押し切られる。
澪は後方へ跳び、衝撃を逃がすように転がる。だがその隙を、ミノタウロスは待っていなかった。着地と同時に、次の一撃が叩き込まれる。
横殴りの拳。
回避が間に合わない。
澪は片腕を差し出し、受ける。
乾いた音がした。
鈍い感触と同時に、右腕が力を失う。肘から先が不自然な角度に曲がる。骨が折れた。
「――っ!」
痛みは一瞬遅れてやってくる。熱と痺れが一気に腕を満たす。握れない。支えられない。
だがミノタウロスは止まらない。
膝蹴り。体が浮く。息が吐き出される。視界が白む。
澪は空中で体をひねり、背中から落ちるのを避け、横転する。左手だけで床を押し、無理やり距離を取る。
呼吸が荒い。
再生は始まっている。折れた骨が軋みながら戻ろうとする感覚。だがその間、防御はほぼ不可能だ。
「このままじゃ……」
呟きが漏れる。
攻撃はできない。腕が一本死んでいる今、拳の威力は半減どころではない。両腕が揃って初めて成立する戦い方だ。
ミノタウロスは、悠然と歩み寄る。
逃げ場はある。だがそれは“時間稼ぎ”でしかない。
(何か……何かないのか)
勝つための糸口。
だが思考を巡らせる余裕は、攻撃の間にしかない。そしてその間は、ほとんど存在しない。
拳が、再び振り上げられる。
澪は歯を食いしばり、左腕だけで構えた。
壊れた体で、まだ終われない。
*
防戦一方の澪を、ひなたは歯を食いしばりながら見つめていた。
勝てない。
理屈ではわかっている。
今の実力差は明白だ。
一撃ごとに削られ、回避の精度も落ちている。
このままいけば、どこかで致命打をもらう。
それなのに――
「……あれ?」
さっきの裏拳。
確かに直撃ではなかったが、以前ならもっと吹き飛んでいたはずだ。
偶然?
目の錯覚?
次の瞬間、澪はまた攻撃を受ける。
今度は受け流しきれず、腕を折られた。
ひなたの心臓が跳ねる。
だが。
「……違う」
折れたはずの腕で、澪は踏みとどまっている。
崩れ方が、ほんの少しだけ違った。
被弾の角度か。
体勢か。
それとも。
(さっきより……ほんの少しだけ)
ほんの少しだけ、踏み込みが深くなっている。
でも、こんな短時間で?
理屈に合わない。
ダンジョンの恩恵は段階的だ。
一瞬で何かが変わるなんて聞いたことがない。
それでも。
同じ攻撃のはずなのに、
“さっきと同じではない”という感覚が拭えない。
ミノタウロスが苛立ち始めている。
確実に仕留められるはずの獲物が、崩れない。
(今のままじゃ負ける)
それは事実。
(でも……もし)
ほんのわずかにでも、変化が起きているなら。
ひなたの喉が鳴る。
賭ける?
何に?
理論もない。
確証もない。
あるのは、ただの違和感。
それでも。
「澪ちゃん!!」
声が出ていた。
*
「澪ちゃん!!」
声が飛ぶ。
だが澪には振り向く余裕などない。
ミノタウロスの拳が振り下ろされる。
床が砕ける。破片が跳ねる。
澪は転がるように回避し、そのまま低姿勢で横へ抜ける。
呼吸が荒い。
肺が焼ける。
「攻撃を受け続けて!!」
「は!?」
思考が一瞬止まる。
次の瞬間、裏拳。
間一髪で屈み、風圧が髪を乱す。
「何言ってんの!?」
距離を取りながら叫ぶ。
ミノタウロスは止まらない。
踏み込み。連撃。膝。肘。
巨体から繰り出されるとは思えない速さで、攻撃が重なる。
「今の澪ちゃんじゃ勝てない!!」
「わかってる!!」
それは痛いほど理解している。
「だから――」
ひなたは歯を食いしばる。
「戦いの中で変えるしかないの!!」
「無茶言うな!!」
拳を弾き、肘をいなし、だが被弾は避けきれない。
肩に直撃。骨が軋む。
息が漏れる。
「無理なら――」
ひなたの声が鋭くなる。
「無様に負けるだけだよ!!」
澪の視界が赤く染まる。
「はあああ!?」
苛立ちが爆ぜる。
ふざけるな。
こっちは死にかけてる。
だが、次の瞬間。
ミノタウロスの拳を腕で受けた。
折れる。
だが、以前ほど吹き飛ばされない。
(……?)
違和感。
ほんのわずか。
だが今、確かに踏みとどまった。
「まだ攻撃しないで!!」
腕を振り上げた澪の動きが止まる。
その隙を逃さず、ミノタウロスの連撃が叩き込まれる。
「くっ……!」
ラッシュ。
回避。受け流し。被弾。
後退。立て直し。
だが。
「……さっきより、軽い」
口の中で呟く。
ミノタウロスが苛立ち、咆哮する。
攻撃がさらに荒れる。
澪は避け続ける。
限界を超えて。
まだ、攻撃しない。
拳を握る衝動を抑えながら、
ただ、受ける。いなす。耐える。
「まだ足りない!!」
ひなたの声。
理由はわからない。
でも――
「やってやるよ……!」
澪の目が燃える。
攻勢ではない。
耐久戦。
泥試合。
ミノタウロスが踏み込む。
突進。急停止。裏拳。
今度は真正面から受けた。
腕が折れる。
だが。
吹き飛ばない。
澪は地面を踏みしめていた。
互いに距離を取る。
息が荒いのは澪だけ。
だが――
ミノタウロスの目に、わずかな戸惑いが宿っていた。
ミノタウロスはすぐにその戸惑いを振り払うように鼻息を荒く吐いた。次の瞬間、床が砕ける。巨体が再び踏み込んだ。迷いはない。力で押し潰す選択。拳が一直線に迫る。
澪は動く。考えるより先に体が反応する。真正面からは受けない。半歩だけ内側へ。肩をずらし、肘を当て、軌道を逸らす。完全な受け流しではない。衝撃は残る。それでも、さっきより“重さが散っている”。
拳が床を砕く。破片が跳ねる。澪は踏み込み直し、今度は逆側へ回る。ミノタウロスが即座に体を捻る。裏拳。速い。だがさっきより、見える。
――見える?
澪は咄嗟に両腕を交差させて受けた。骨が軋む。だが折れない。足が半歩沈むだけで、吹き飛ばない。靴底が床を削る音が短く響く。
ミノタウロスの眉間に皺が寄る。
澪自身も理解していない。ただ、さっきより一瞬だけ余裕がある。痛みはある。苦しい。肺は焼けている。それでも、攻撃の“芯”がわずかに外れている感覚。
ミノタウロスが距離を詰める。今度は連撃。左右、左右、肘、膝。巨体とは思えない速度で畳みかける。澪は逃げない。下がらない。最低限だけ体をずらし、受け、滑らせる。被弾はする。だが崩れない。
一撃、腹部に入る。視界が揺れる。内臓が跳ねる。それでも踏みとどまる。
二撃目、肩。骨が軋む。だが関節は抜けない。
三撃目、脇腹。呼吸が詰まる。だが倒れない。
ミノタウロスの攻撃がわずかに荒れる。正確だった軌道に、微細なブレが混じる。苛立ちか、それとも。
澪はその乱れに反応する。拳が振り下ろされる直前、内側へ潜る。肩が触れる距離。獣臭と熱気。鼓動が耳を叩く。
今なら打てる。
だが、打たない。
半歩だけ踏み込み、すぐに離れる。ミノタウロスの腕が空を切る。
「……まだ」
澪は小さく呟く。理由は分からない。ただ、今は攻めるべきではないと体が言っている。
ミノタウロスが咆哮し、再び突進する。速度は変わらない。だが澪の視界は、さっきより鮮明だ。踏み込みの瞬間、重心がわずかに前に寄る。その癖が見える。
澪は横へ跳ぶのではなく、斜め前へ滑り込んだ。角が掠める。風が頬を裂く。だが体勢は崩れない。
背後で壁が砕ける。
澪は振り向きざま、拳を握る。
まだ打たない。
ミノタウロスが振り返る。その目には、さきほどよりはっきりとした警戒が宿っていた。獲物ではない。対峙する存在を見る目。
呼吸が荒いのは澪だけ。それでも、立っている位置が違う。
さっきは押し込まれていた。今は、拮抗に近づいている。
ミノタウロスが低く構える。今度は本気の突進。床が爆ぜる。
澪は正面から走った。
互いの速度が交差する瞬間、澪は一瞬だけ重心を沈め、肩で軌道をずらす。完全に逸らすことはできない。衝撃が体を貫く。それでも、吹き飛ばない。
そのまま懐へ。
拳を振りかぶる。
今度は――
躊躇しない。
鳩尾へ、全力。
衝撃が手応えとして返る。さっきの空振りとは違う。確かに、肉と筋を打った感触。
ミノタウロスの体が、わずかに沈む。
ほんの数センチ。
だが確実に。
両者の間に、初めて“同じ土俵”の気配が生まれた。




