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ミノタウロス

粉塵の向こうで、黒い巨体がゆっくりとこちらを向き直る。砕けた石を踏みしめる音が、やけに静かに響いた。ミノタウロスは息一つ乱していない。胸はわずかに上下しているだけで、その呼吸は一定で、落ち着いている。まるで準備運動でもしているかのような余裕だった。


対して、澪の肺は焼けるように熱い。たった数合の攻防。それだけで全身の神経が張り詰め、筋肉は悲鳴を上げている。呼吸を整えようとするたび、胸の奥がひりつく。


(違う)


オークは重かった。オーガは力があった。だが、あいつらは巨体ゆえに動きが単調だった。攻撃は読めたし、回避も成立した。だから削れた。だから勝てた。


だが、こいつは違う。


重さもある。力もある。そのうえで速い。しかも無駄がない。突進の踏み込み、裏拳の振り抜き、次の動作への移行――どれも繋がっている。連続している。澪が「隙」と思った瞬間には、すでにその隙は消えている。


ミノタウロスは首をわずかに傾け、鼻息を荒く吐いた。その仕草が、子供を値踏みする大人のように見えて、澪の奥歯が軋む。


「……ちょっと、やばいな」


思わず漏れた本音。しかし、視線は逸らさない。逸らした瞬間、飲み込まれると本能が告げていた。


強い。明確に格上。そう認めざるを得ない。それでも、ここで引く選択肢はない。今日この階層を突破すると決めたのは、自分だ。ミノタウロスの余裕は、まだ“勝負”だと思っていない証拠に過ぎない。


(なら、勝負に引きずり下ろす)


澪はゆっくりと立ち上がり、肩を回す。再生能力が内部で軋む音がするような感覚。痛みは残っているが、動けないほどではない。足の指先に力を込め、重心を低く落とす。


ミノタウロスの脚がわずかに開いた。次の動きに備える構えだ。


同時に、澪も踏み込んだ。


今度は逃げない。真正面から、速度と速度をぶつける。拳を握り締めた瞬間、視界の端で黒い巨体がわずかに揺れた。ミノタウロスもまた、待っていたかのように動き出す。


両者の距離が、一気に潰れる。


ここからが、本当の殴り合いだった。


距離が潰れる。互いの呼吸がぶつかり合うほど近い。ミノタウロスの拳が振り下ろされるより先に、澪は半歩踏み込み、肩を捻り、懐へ潜り込んだ。皮膚を焦がすような熱気と獣臭が鼻を刺す。ここまで近づけば、巨体は逆に邪魔になるはずだ。


(急所は人と同じだ)


牛頭でも、構造は人型。肋骨の下、鳩尾。呼吸と意識を一瞬奪える位置。そこへ全力を叩き込めば、いかに強靭でも無傷では済まない。


再生能力を前提に、捨て身で踏み込む。受けることを恐れない戦い方。それが澪の今の最適解だ。拳を握り締め、全身の筋肉を連動させる。床を蹴り、腰を回し、肩を通して力を一点に収束させる。


(狙うは鳩尾――!)


拳が走る。空気が裂ける。確実に当たる間合いだった。


「澪ちゃん、待って!!」


ひなたの叫びが背後から飛ぶ。しかし、その声が届いた時にはもう遅い。止められない。止める気もない。これは当たる。当たれば、流れは変わる。


“当たれば”。


次の瞬間、視界がぶれた。ミノタウロスの巨体が、信じられない速度でわずかに横へ滑る。大きな体が、紙一重で軸をずらす。澪の拳は空を切り、鳩尾のあったはずの空間を叩き抜いた。


空振りの反動で、上体がわずかに前へ流れる。その一瞬。


ミノタウロスの目が、澪を捉えた。


油断など、最初から一片もなかった。誘っていたのだ。踏み込みを。大ぶりな全力を。


「BUMOOOOOO!!」


咆哮と同時に、巨大な腕が振り抜かれる。避ける余地はない。腹部へ直撃。衝撃は打撃というより爆発に近かった。内臓が押し潰され、肋骨が軋み、視界が白く弾ける。


体が宙に浮く。


一瞬、自分の四肢の感覚が消えた。どこが上でどこが下かも分からない。次の瞬間、背中から壁へ叩きつけられ、石が砕ける音とともに地面へ落ちた。


呼吸ができない。


肺が空気を拒絶する。喉から漏れるのは空気ではなく、かすれた音だけ。


「が、は……っ」


視界の端で、黒い巨体がゆっくりとこちらへ歩いてくる。足音が重い。確実に、終わらせに来ている。


満身創痍。


圧倒的な実力差。


そばで見ていたひなたは、その光景を見て、初めてはっきりと理解した。


――負ける。



壁に叩きつけられた澪の体が、鈍い音を立てて床へ崩れ落ちた。


粉塵がゆっくりと沈む。


その向こうで、ミノタウロスはゆっくりと体勢を戻していた。息一つ乱れていない。筋肉の張りも、動きの精度も、最初と何一つ変わっていない。


ひなたは無意識に唾を飲み込んだ。


(今の一撃で、まだ本気じゃない)


澪の攻撃は、確かに鳩尾へ向けて放たれていた。人型構造である以上、急所の理屈は通用する。だがミノタウロスはそれを理解していた。誘い、避け、最大効率で反撃してきた。


力任せではない。

戦っている。


(知能がある)


それだけで難易度は一段階上がる。

身体能力が高いだけの敵なら、澪のやり方は通じる。だが、思考する相手は別だ。攻撃を読まれ、戦法を解析され、次第に詰められる。


ひなたの脳内で、情報が自動的に整理されていく。


速度差。

硬度差。

耐久差。

反応精度。


そして何より――余裕。


ミノタウロスは、まだ澪を脅威として見ていない。


澪は立ち上がろうとしている。呼吸は荒いが、目は死んでいない。だがその姿は、ひなたの目にははっきりと映っていた。


(これは、普通にやれば勝てない)


感情ではない。恐怖でもない。

観測結果だ。


ここから勝つには、何かが必要だ。

戦術の変化か、覚悟の変質か、あるいは――。


ミノタウロスが一歩踏み出す。その一歩で床が軋む。


ひなたは拳を握った。


「……まだ終わってないよね、澪ちゃん」


それは励ましではない。

確認だった。


負けを理解した上で、それでも続くかどうかの。



視界が揺れている。


耳鳴りが止まらない。肺がうまく空気を吸えない。肋骨のどこかが軋むたびに、内側から針で刺されるような痛みが走る。


床に横たわったまま、澪は自分の指先を見た。震えている。力が入らない。握ろうとしても、指は半分も曲がらない。


遠くで、ミノタウロスが勝鬨を上げていた。低く、太く、空気を震わせる咆哮。その声には確信があった。勝利を疑っていない者の声だ。


(私は……)


息を吸おうとして、咳き込む。血の味がした。


(まだ……)


体が言うことを聞かない。立ち上がるどころか、肘をついて上体を起こすだけでも視界が暗転する。


(死ぬのか……?)


その言葉が、初めて頭に浮かんだ。


ダンジョンに潜ってから、何度も体を壊してきた。手足を折り、皮膚を裂き、血を吐きながら勝ってきた。でも、“死”を真正面から突きつけられたことはなかった。


負けたことはある。

笑われたこともある。

見下されたこともある。


でも、ここで終わるという現実だけは、まだ受け入れたことがない。


――ふざけるな。


喉の奥から、熱が込み上げる。


――ふざけるな……!


肘を立てる。震える腕が、床を押す。視界がぐらりと傾く。


――――ふざけるな!


腹の奥に残っていた最後の力をかき集める。再生能力がじわじわと傷を塞いでいる感覚はある。だが追いついていない。それでも構わない。


絶対に、負けたくない。


もう負けるのは嫌だ。

見下されるのは、我慢できない。

「やっぱり無能だった」と思われるのは、耐えられない。


「ぐ……っ」


膝が震えながらも、澪は立ち上がる。完全ではない。体は傾き、呼吸は乱れ、視界は滲んでいる。それでも、立っている。


ミノタウロスの咆哮が止まる。


ゆっくりとこちらを向き、再び構えを取る。その動きにはわずかな興味が混じっていた。先ほどまでの余裕とは違う、観察する目。


澪は拳を握る。骨が軋む音がした。痛みが走る。それでも、離さない。


「……勝負は、これから」


戦局は絶望的だ。

どう戦えばいいのかも、まだわからない。


だが、立っている。


負けを認めない限り、終わりではない。


その一点だけで、澪は再びミノタウロスと向き合った。


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