踏み出した一歩
床に叩きつけられた衝撃が、遅れて全身に広がった。
肺から空気が抜け、喉がひくりと鳴る。
息を吸おうとしても、体が言うことをきかない。
――死ぬ。
その言葉が、やけに現実味を伴って浮かんだ。
視界の端に、闘士オークの影が映る。
ゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。
勝敗は決したとでも言うような足取りだった。
その瞬間、澪の脳裏に、ばらばらの記憶が走る。
「お前、こだわり強すぎなんだよ」
「もういいだろ、それ」
呆れたような声。
ため息混じりの視線。
「いつまでやるんだよ。付き合ってられねーよ」
空気が一気に冷えたあの感覚を、澪ははっきり覚えている。
自分が面倒な人間だということも、幼稚だということも、分かっていた。
それでも。
それでも、そのこだわりだけは、どうしても捨てられなかった。
他のものを犠牲にしてでも、曲げたくないものがある。
それが、相澤澪という人間だ。
意識が、はっきりと覚醒する。
振り下ろされた一撃を、ぎりぎりで躱した。
床を転がり、距離を取る。
肺に空気が戻り、荒い呼吸が次第に整っていく。
――そうだ。
強くなる。
自分が納得できる方法で。
他の何を犠牲にしてでも。
「ありがとう」
オークを見上げたまま、静かに言った。
「お前のおかげで、わかったよ」
今までの自分は、どこかで躊躇していたのかもしれない。
体を壊すことを。
それを異常だと思ってしまう、自分自身を。
でも、もういい。
勝つ。
ここで強くなる。
そのためなら――
「ぶっ壊れろ……!」
低く、命令するように呟いた。
空気が変わったのを、オークも感じ取ったのだろう。
闘士オークの表情が、わずかに引き締まる。
本当の敵と向き合った。
そんな顔だった。
「遅かったな。豚野郎」
澪は走り出す。
今度は小細工なし。
正面から。
オークが拳を振るう。
それを冷静に避け、踏み込む。
狙いは、膝。
――だが、蹴らない。
澪は身体を捻り、腕を叩きつけた。
次の瞬間、嫌な音がした。
衝撃が腕を駆け上がり、激痛が走る。
筋肉が悲鳴を上げ、関節が軋むのがはっきり分かった。
それでも、力は逃がさない。
闘士オークの膝が、崩れ落ちる。
「終わり……!」
踏み込む。
足に全体重を乗せ、渾身の蹴りを叩き込む。
首を狙った、一点集中の一撃。
次の瞬間、今度は足に嫌な感触が走った。
骨が軋み、肉が裂ける。
それでも止まらない。
鈍い衝撃とともに、闘士オークの体が力を失った。
巨体が床に崩れ落ち、沈黙が訪れる。
「……やっと、一歩前進か」
澪はその場に立ち尽くし、笑った。
嬉しい。
ただ、それだけだった。
苦難の道を、確かに進めた。
それが何よりも嬉しい。
ふと、現実に戻る。
「……これ、どうやって帰ろ」
腕も、足も、まともに動かない。
普通なら、立っていられる状態じゃない。
――まあ、いいか。
胸の奥から込み上げる感情を抑えきれず、笑いが漏れる。
しばらくの間、ボス部屋には澪の笑い声だけが響いていた。
やがて、違和感に気づく。
――軽い。
視線を落とすと、ありえない速度で治っていく手足が目に入った。
痛みが引き、感覚が戻っていく。
「……あれ?」
理解が追いつかない。
だが、一つだけはっきりしている。
壊しても、戻る。
だから、踏み込めた。
気づかなかっただけで、
最初から――
強くなる条件は、揃っていたのだ。




