届かない理由
玄関のドアを閉めると、家の音が戻ってきた。
換金所のざわめきとは違う、鍋が煮える音と、テレビの低い声。
澪は靴を脱ぐ。つま先で位置を整え、揃える。
その動きに合わせるように、台所から母の声が飛んできた。
「珍しいわね。こんな時間まで外出してるなんて」
母はエプロン姿で、コンロの前に立っている。
火を弱める手つきが、澪の返答を待っていた。
「ダンジョン」
言った瞬間、鍋をかき混ぜていた箸が止まった。
母が振り返る。驚いたというより、反射的に緊張した顔。
「……ダンジョン?」
「うん」
澪は廊下へ足を向ける。
それ以上続ける気もなく、話題を終わらせるように。
「何をしに行ったの?」
母の声が、少しだけ高い。
澪は立ち止まらないまま答える。
「別に」
母が言葉に詰まる気配がした。
「別に、って……」
澪は返さず、洗面所のドアを開ける。
手を洗う。冷たい水で指先の感覚が戻る。
鏡に映る顔はいつもと変わらない。服の汚れも、上着でだいぶ隠れている。
背後から、母の声が追ってきた。
「手、洗ったらすぐご飯よ」
「わかった」
短く返して、蛇口を閉める。
廊下を戻る途中で、母の視線を感じた。
見ようとしているのは、澪の顔じゃない。腕だ。服の隙間から覗く傷。
澪は気づかないふりをした。
⸻
食卓には、もう料理が並んでいた。
湯気の立つ味噌汁。焼き魚。白米。いつもの夕飯。
父も席に着いている。テレビは消されていた。
その時点で、今日の話題が決まっているのが分かった。
澪は椅子を引き、座る。
箸を取る。まずは味噌汁に口をつける。熱い。舌が少し痺れる。
一拍置いて、父が咳払いをした。
「……母さんから聞いた。ダンジョンに行ったって?」
「行った」
澪は魚の骨を外す。
手元の作業だけは丁寧だった。
「危険だって分かってるのか」
「蘇生できるでしょ」
澪は目を上げずに言った。
その瞬間、父が箸を置いた。
木が皿に当たる音が、思ったより大きく響く。
「そういう問題じゃない」
父の声が低くなる。
母も、食べる手を止めていた。
「死ななきゃいい、って話じゃないでしょう」
母の言葉は柔らかいのに、端が硬い。
澪は箸を止めない。
否定されても、引っ込める気がないからだ。
「体は戻る」
「戻るわよ。でも……」
母が言葉を探すように一度視線を落とす。
そこから先は、言う側にとっても楽な話ではない。
「ダンジョンから帰ってきても、家から出られなくなった人の話、聞いたことあるでしょう」
澪は一瞬だけ、噛み傷の痛みを思い出した。
痛みそのものじゃない。噛まれている間に、頭の中が白くなる感じ。
誰かに殺される感覚。
何もできずに潰される経験。
蘇生しても、それは消えない。
澪は「ある」とは言わなかった。
黙って、味噌汁をもう一口飲む。熱さが喉を通っていく。
母が続ける。
「やめておいたほうがいいんじゃない?」
遠回しな言い方だった。
命令じゃない。お願いに寄せた言葉。
澪は箸を置いた。
食器が触れる音が、また静かな部屋に残る。
「やめない」
一言。
父と母が同時に黙った。
その沈黙は、怒りではなく、困惑に近い。
澪は視線を上げる。
「強くなりたい」
自分でも、声が平坦だと分かった。
でも、これは本当だ。飾りようがない。
「だから行く」
母がゆっくり息を吐く。
怒鳴らない。泣かない。代わりに、諦めに近い理性が顔を出す。
「……何か必要なものがあったら言いなさい」
父も頷く。
「力にはなる」
一瞬、父が何か言いかける。
口を開いて、閉じる。言葉が引っかかったまま出てこない。
「でも……お前には、能力が……」
「お父さん」
母が止める。
父は目を逸らして、黙った。
澪は、その場で怒らなかった。
腹は立つ。でも、ここで噛みつくと、話が長くなる。
長くなるのが嫌だった。
「ありがとう」
それだけ言って、箸を取り直す。
武器を使えば浅い層は問題ない。
深い層に行くなら準備する。
そう言っておいた。
半分は本当で、半分は嘘だ。
食事が終わる頃には、話題は自然に途切れた。
父も母も、それ以上は追ってこなかった。追ってこられない。
澪は食器を流しに運び、手を拭く。
「先に風呂入る」とだけ告げて、部屋へ戻った。
⸻
自室のドアを閉めると、ようやく音が消えた。
ベッドの端に座る。スマホを机に置き、制服の袖をまくる。
左腕の噛み傷。
夕方の光で見ると、赤みが薄い。腫れも引いている。
痛みは残っているのに、見た目が追いついていない。
「……意味わかんない」
理由なんて考えても、出ない。
ダンジョンの恩恵。そういうことにしておく。
問題はそこじゃない。
澪は目を閉じる。
扉の前を思い出す。
一階のボス。闘士オーク。
情報は知っている。あいつはでかい。硬い。鈍い。
そして、今の自分じゃ倒せない。
逃げ帰った、と言われても仕方ない。
事実だから。
ゴブリンは倒せる。
ウルフも、時間をかければ殺せる。
でも――
一撃がない。
転ばせて、動けなくして、逃げ場を潰して。
それでやっと、踏み抜ける。
それは「勝てる」じゃない。
「時間をかければ殺せる」だ。
闘士オークにそんな余裕はない。
澪は、天井を見上げた。
「……届かない」
声に出すと、余計に腹が立った。
言葉が、現実みたいに重い。
能力がない。武器も使わない。
言い訳はいくらでも作れる。
でも、それで何が変わる。
勝てなかった。
ただそれだけ。
澪は深く息を吐く。
怒りを外に出さない代わりに、内側で硬くする。
逃げる気はない。
じゃあ、やることは一つだ。
どうやって、攻撃力を作るか。
それが分からない限り――
どこまで行っても、扉の前で止まる。




