届かない
傷が浅い理由なんて、考えても分からない。
左腕は赤く腫れているものの、血はもう止まっていた。噛み裂かれた感触は確かにあったはずなのに、痛みは鈍く、違和感に近い。治りが早い。早すぎる気もするが、それ以上を考えるのはやめた。
――これもダンジョンの恩恵なんだろ。
そう結論づけて、澪は先に進むことにした。立ち止まる理由はない。
携帯端末を見ると、どうやら昼頃らしい。ダンジョン内の時間感覚は曖昧だが、数字が示しているなら信じる。持ってきた携帯食をかじり、水で流し込む。味はどうでもいい。空腹が紛れればそれでいい。
歩き出す。
道中では、ゴブリンやウルフが現れた。連戦になる。疲労は確実に溜まっていたが、ゴブリン相手なら問題ない。首の骨を折れば終わる。以前よりも力が通る。考える前に体が動いていた。
ウルフはそう簡単にはいかない。
一匹だけ。それでも素手では決定打に欠ける。倒せなくはないが、時間がかかるし、被弾のリスクも高い。短刀でもあれば、もっと楽に殺せるだろう。それは分かっている。
――でも、持たない。
一度自分に課した枷を、都合が悪くなったから外す。それは、ダンジョンに負けた気がした。理由をつければ、いくらでも正当化できる。だからこそ、使わない。
そうして歩き続けた先で、澪は大きな扉の前に立っていた。
一階のボス部屋。情報通りなら、この先にいるのは闘士オークだ。体格が大きく、筋力に優れ、戦い慣れた個体。人型だが、ゴブリンとは比べ物にならない。
扉を見上げながら、これまでの戦闘を思い返す。
ウルフ。ゴブリン。連戦。疲労。被弾。
――今のままで、勝てるか。
答えはすぐに出た。
無理だ。
怖いからではない。逃げたいわけでもない。ただ、攻撃力が足りない。どう戦っても、闘士オークの首を折る未来が見えなかった。これまで積み上げてきたものでは、届かない。
澪は扉に手をかけることなく、踵を返した。
「一旦帰って、方法を探さないと」
独り言のように呟いて、ボス部屋を後にする。
ダンジョンを出ると、外はもう夕方だった。休日ということもあり、入口付近は人が多い。換金所の前も賑わっていて、澪は何となくそちらに視線を向けただけだった。
そこで、朝に絡んできた男たちのパーティが目に入る。
気づかれた、と分かった時には遅かった。
「お、初心者さんじゃないでちゅかぁ?」
わざとらしい声。
「どうせ一階でゴブリン相手に震えてたんだろ?」
「何階まで行ったんだ? まさか闘士オーク如きに逃げ帰ってきたのかぁ?」
図星だった。否定できない。事実として、ボス前で引き返している。
澪が黙っていると、男たちは勝手に納得したようだった。
「マジかよ、傑作だな」
「一階のボス程度でこれか?」
「能力者だったら瞬殺だろ。どんだけしょぼい能力なんだよ」
周囲にも聞こえるように声を張り上げる。失笑が混じる。澪は何も言い返さず、その場を離れた。
――離れようとした、だけだった。
気づけば足が速くなっている。歩いているつもりだったが、人混みを抜ける頃には走っていた。
背後で、誰かの声が聞こえる。
「……今の、速くなかったか?」
「身体能力強化か?」
振り返らない。
走りながら、澪は考える。
強い能力があれば、闘士オークなど敵ではない。それは事実だ。そして、それは自分には当てはまらない。能力の差は、そのまま探索者としての適性の差になる。加えて、自分は武器も縛っている。
言い訳はいくらでもできる。能力がない。武器を使っていない。だから勝てなくても仕方ない。
――でも、それで何になる。
相手には関係ない。ただの敗者だ。
「強くなる」
小さく、だがはっきりと呟く。
「茨の道を進んで、誰よりも」
そうして澪は、家路についた。




