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よるの終わりのごはん屋さん ―あやかしたちのやさしい最期―  作者: 秋乃 よなが


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第五話 豚の角煮と風の童子


 梅雨が明けたばかりの空気はまだ湿り気を帯びているというのに、今夜はひと際風が強かった。店の周囲の木々がざわざわと揺れている。


 ツムギはカウンターの奥で鍋の蓋を外し、中の煮込み具合を確かめていた。湯気の奥から立ち上がる、甘辛い醤油の香り。それは箸を入れれば崩れるほどに柔らかく、脂は透き通るほど煮込まれている。


 そんなとき、びゅうっと強い風が吹いて、店の引き戸が音を立てた。


「こんばんは!ここ、ごはん屋さん?」


 風に乗ってひらりと現れたのは、笠を被った小さな童子だった。萌黄色の羽織に短い袴、首元には風車のついた根付を下げている。両足は浮いており、ふわふわと空中を漂っていた。


「いらっしゃいませ。お一人ですか?」


「うーん。一人だけど、一人じゃないかも」


 ツムギはその言葉に目を細めた。何かを隠すようでもあり、冗談のようにも聞こえる。けれど、敵意はまるでなかった。


「どうぞ、お席へ。お腹は空いていますか?」


「うん!甘くて、柔らかくて、温かくて。そういうの、食べたいな」


「ふふ。それならちょうど良いのがありますよ」


 ツムギは鍋を振り返り、湯気の中で黙々と料理を仕上げる。煮汁をさっと絡めた豚の角煮を煮卵とともに丁寧に器へ盛る。盆に乗せて席へ運ぶと、童子は目を丸くして歓声を上げた。


「わー!いい匂い!おねえさん、料理の神様?」


「いいえ。ただのごはん屋の女将ですよ」


 童子はさっそく箸を取ると、まずは角煮を口へ運んだ。一口かじった瞬間、その瞳が見開かれる。


「わあ…!おいしい…!」


 とろける脂、しっかりとした赤身の歯ごたえ、甘辛く深い味。口に入れただけで、長い旅路の疲れすら(ほど)けてしまうような味だった。


「やさしいのに、ちゃんと強い…。風みたいな味だね」


 それからしばらくは無心で箸を動かした。煮卵を割って黄身の半熟を楽しむ。ようやく一息つくと、童子はぽつりと呟いた。


「ねえ、おねえさん。ぼく、風なんだ。山とか、川とか、空のうえとか、いろんなところを吹いてきた。いろんな声を聞いてきたんだ」


「ええ」


「でも、最近へんなんだ。世界がさ、うるさくてしかたないの。怒ってる声とか、泣いてる声とか、壊れる音とかばかりが聞こえてくるんだ。たぶんね、もう、聞きすぎちゃったんだと思う」


 童子は笑っていた。けれどその笑顔はどこか寂しくて、壊れそうだった。


「だからぼく、風をやめようと思った。止まって、もういっかい、だれかの声じゃなくて、ぼくの声を聞いてみようと思って」


「それでこの店へ?」


「うん。流されるままに来たんだ。たぶん、ぼく、ここで終わるんだってわかってた。でもね、」


 童子はツムギを見上げた。


「さっき言ったでしょ?一人だけど、一人じゃないって」


「ええ」


「ほんとはね、ぼくの中にはいろんな『風』がいるんだ。春の風、嵐の風、通り雨の風…だれかが名付けた、たくさんの風たち。それが全部ぼくの中にいて、ずっと一緒に吹いてた」


 童子はまた一口、角煮を口に運んだ。口の中でほろりと肉が崩れて、あっという間に溶けてしまう。


「でも、今日この味を食べて、ぼく、一つになれた気がしたんだ。みんなが納得して、もう吹かなくていいよって、言ってくれた気がしたんだ」


 童子の輪郭が、少しずつ淡くなっていく。そんな童子にツムギはやさしく声をかけた。


「お弁当を包みましょうか?もう少し、風が吹きたくなったときのために」


 童子はふっと笑った。


「ううん、いいの。ぼくの旅はここでおしまい。もう、どこへも吹いていかない。――でも、」


 一瞬だけ、窓から空を見上げる。


「でも、もし誰かがやさしい風を思い出したら。そのときは、もういっかい、吹いてもいいかな」


「――ええ。そのときは、また豚の角煮を煮て待っていますね」


 ツムギの言葉に、童子はにっこりと笑った。そしてそよ風のように音もなく、姿を消したのだった。


 店の中は、静寂で満ちていた。木々を揺らしていた強い夜の風は消え、やさしく穏やかな風が吹いていた。


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