第一話 たまご雑炊と白い子狐
夜の帳が下りる頃、人気のない路地裏の奥。現世と幽世の狭間に、その店はひっそりと佇んでいた。
店の看板はない。明かりもぼんやりとしか灯らない。けれど現世から旅立つ『誰か』が望めば、その店の扉は必ず見つかる。
「いらっしゃいませ」
扉を開けば、カウンターの奥で出汁を味見している白い割烹着を着た女性が現れる。歳は二十代半ばにも、三十代半ばにも見える。黒髪をひとつにまとめ、涼やかな目元は深い夜の色をしていた。彼女の名前はツムギ。この店の店主だ。
今宵、店の戸口に現れたのは、狐の耳と尾を持った幼い少年だった。透けるような白毛に、紅色の目。しかしその姿はどこか曖昧で、現世と幽世の狭間に揺れている。まさにあやかしの『終わり』の気配を帯びていた。
「あら、可愛いお客さんね。お名前は?」
ツムギの声に子狐は一瞬戸惑い、そしてぽつりと答えた。
「…トウヤ」
「トウヤくん。素敵な名前ですね」
ツムギは微笑み、そっとカウンターに案内した。
「今夜はトウヤくんのために晩ごはんを作りますね。お腹空いてるでしょう?」
トウヤは少し不安げに目を泳がせたが、素直に頷いた。その間にも彼の身体は少しずつ淡くなっていく。あやかしであっても、終わりはあるのだ。命の灯が消えるとき、自身の記憶や想いに縋るようにして、こうしてこの店に現れる者がいる。
ツムギの店は、そうした死を目前にしたあやかしを迎えるための場所だった。
――出汁の香りが静かな店内に広がっていく。水でさっと洗ったごはんを鍋に入れて、しょうゆで味を調える。溶き卵を回し入れ、少し待ってから全体をゆっくりとかき混ぜたら、たまご雑炊の出来上がりである。
「お待たせしました」
トウヤの前にたまご雑炊の鍋と取り皿が乗った盆を置く。雑炊を見たトウヤは、驚きに見開かれていた。
「これ…」
「あなたのために作ったの。どうぞ召し上がれ」
雑炊を取り皿に移し、息を吹きかけて冷ます。そうして一口食べれば、トウヤの瞳からぽろりと涙が落ちた。
「あったかい…」
「うん」
「あの人が作ったのとおんなじ味がする…」
かつて彼は、山里の小さな神社に祀られていた白狐の神だった。江戸の終わり頃、山の麓の集落にあった小さな社。その御神体が彼の器だった。
雨乞い、豊作、厄除け、人々から祈りを受けるたびに、トウヤはうれしかった。中でもある若い女性がとても熱心に参拝していた。夏は冷えた水を汲み、冬は蓑を編んでくれ、時折彼女の手料理を供えてくれた。
その中でも一番記憶に残っているのが、たまご雑炊だった。それが、トウヤの忘れられない味だった。
トウヤの社はもうない。山は開発で削られ、集落はなくなり誰も参らなくなった。社は朽ち果て、信仰が失われた神は力を保てずあやかしへと姿を変え、やがて終わりのときを迎える。
その最期のときに、この店が現れたのだった。
食べ進めるうちに、トウヤの姿が徐々に薄れてゆく。
「おかわり、いりますか?」
「…ううん、おなか、いっぱい。ありがとう」
「そっか」
ツムギは静かに微笑み、トウヤの頭をそっと撫でた。ふわふわで、もうすぐ消えてしまう温もり。
「トウヤくん。あなたは最後まで大切に思われていたんですよ。あなたの中に人々の想いが残ってたからこの店まで来られたんです」
「ぼく、あの人に会えるかな」
「ええ、きっと」
トウヤはにこっと笑い、次の瞬間、彼の姿はふわりと霧散した。
「――いってらっしゃい。また二人がどこかで会えますように」
ツムギは空になった椅子を見つめ、呟く。
「神でさえ人々の祈りがなければただのあやかしになる。…寂しいわね」
けれど、最期に一度でも誰かに想われたなら。ツムギがトウヤの記憶から垣間『視た』あの人が、新たな生を受けてもなお、心の片隅で彼のことを覚えていたのなら。それは本当に消えるわけではない。
ツムギはカウンターに置かれたままの食器を片付ける。
また誰かが、最期の晩ごはんを求めてここへ来るだろうから。