8話
(公爵たちはもう離婚の話はしたかしら)
ドールは心の中で呟く。自分が席を外せば、ヴェントが伯爵夫妻へ話をするだろうことをドールは理解していた。寧ろその会話をさせることは目的の一つ。
彼ならば臨場感たっぷりに悲劇と愛を語り伯爵夫妻の心を安らぎで満たすだろう。
もう一つは、ドールの手の中。愛らしい弟との交流にある。
「僕、お姉さまと会えるのをずっと楽しみにしてました」
「まぁ」
ふくふくと柔らかな頬を染めて言うガレンにドールも微笑む。素直な子供を可愛らしいと思いつつ、ふと雑音がドールの耳を掠めた。
——この子さえ居なければ……!
〝スフェン〟の感情が靄のようにドールへ纏わりついていく。声は涙に濡れて憎悪を孕んでいた。
——この子の所為で私は公爵家へ売られたのに!
——どうして私ばかり、こんな目に?
——私の方が魔法だって、勉強だってできるのに……!
——女だからって、すべて奪われてしまうんだわ。
沈殿してた思いが渦巻いて声高らかに叫びを上げている。〝スフェン〟の本心が魔力を孕み身体へ染み込んくる感覚にドールは目を細めた。
(不快だわ)
パキン、と靄が罅割れ霧散する。人間の感情や思いが魔力を得て現へ降りようとするのを許さず、壊した音だった。
生憎とドールにとって魔法や魔力の扱いは難しいが、結局の所肉体には魔力が宿っているのだ。そして、それを動かすのは魂と意思。スフェンの憎悪が煮えるのならば、ドールの憎悪が相殺しても不思議ではない。意思の強さで負けるつもりはなかった。
すると、何かの割れる音にガレンは立ち止まった。きょろりと周囲を見渡して首を傾げている。
「今、何か……魔力が、ゆれた?」
「分かるのですか?」
「え? あっ、えっと、少しだけ……!」
「凄いですね、ガレン」
ドールは満面の笑みでガレンの頭を撫でた。まだ幼い身でありながら魔法を使用した際の魔力の揺らぎを感知できる少年は、正しく伯爵家の宝だろう。
(〝スフェン〟の記憶では、揺らぎを感知するのには苦労していた……この子は、本当に才能があるのね)
スフェンは勉強に励んでいた。そして、彼女にはガレンが持ち得ない〝妖精に好かれる〟才があった。それ故に他の魔法使いたちよりも格段に使える魔法や理解できる理は多い。
しかし、ガレンは妖精が視えず、声も聞こえず、彼等に愛されてもいない。だというのに愛された者よりも尊い才能を孕んでいるのだ。これは使える、とドールは喜色を浮かべる。
「僕、お姉さまのお部屋に入るのは初めてです」
「私もですよ」
「え?」
スフェンの部屋は記憶よりも美しい部屋だった。私物と言える物は少なく、整理と掃除が行き届いているようだった。開放された窓から柔らかな風が入り、テーブルには新しい花も飾られている。
身体に刻まれているこの部屋の思い出は暗く陰鬱とした光の入らぬ空間で、ベッドは黴臭いものだったというのに、それらは全て幻だったらしい。くつりと卑屈な笑みが零れた。
「綺麗に保たれていますね。定期的に使用人が掃除をしているのでしょうか?」
「はい! メイドたちが毎日!」
「毎日、ですか?」
「たまにお父さまとお母さまもお花を飾っているんですよ」
「思い出などないでしょうに」
「?」
クスクスと笑みを零すドールにガレンは首を傾げた。小さな頭を撫で返事をすることなくドールは部屋の奥にある机へ向かう。
ここで日夜、無駄な勉強に勤しんだ哀れな少女がいたのだと。しかし、今では美しい庭の花を飾る棚と成り果てている。
——花は嫌い。綺麗だけど、嫌い。
どの花も美しいが、決して〝スフェン〟が好きな花ではなかった。耳鳴りがやまない。頭痛が始まり、喉が絞められるような感覚に襲われる。
彼女が恨みを育んだ空間だからだろう、消しても消しても煩い亡霊が湧いてきていた。丁寧に活けられた花を一輪取り、ドールはガレンへ差し出す。
「ガレンが暇な時でいいので、今後もこの部屋へ来てあげてくださいな」
「い、いいのですか?」
「ええ、勿論。使ってくれる者が居てこその部屋ですからね」
花を受け取ったガレンは子犬のように瞳を輝かせてドールへ抱きついた。ドールが身を屈めることでようやく埋まる身長差は、姉弟よりも親子に近いだろう。
——やめて! 私のものを奪らないで!
亡霊の悲鳴が、脳裏を劈く。
暴風で荒れる木々と災害を齎す雷雨の音のような、まるで嵐の夜の絶叫がドールには聞こえていたが、何も聞こえていないかのように微笑んでみせる。
「秘密基地、とまではいきませんが自由にしていいのですよ。好きな本があれば持ってきて、ベッドで読んでも。気に入った花は持っていっても構いません」
「~~~~!」
感極まったのか、抱きついてくるガレンの腕により力が加わる。声にならない声が漏れたかと思えば、ぐずぐずと涙を堪える様子の声が耳元で聞こえてきた。
「——ぼく……っ、お姉さま、には、きらわれているのだとっ」
思っていた、と続く言葉にドールは静かに目を伏せる。彼女だけがガレンの——伯爵家の人間が浮かべる安堵の表情の真意に気づいていた。
「どうして、そう思ったの?」
ドールは声に優しさを丹精込めて問いかける。
「この、このへやの、まりょ……くが、いたくて、とびらごしでも、こわくてっ……!」
ぼろぼろと涙を零すガレンの声は切実だった。切実に、心底から実姉の部屋を怖がっていたのだ。それをドールは当然のことだと内心で溜息を吐く。
(この部屋にはスフェンの〝呪い〟が渦巻いている。きっと、入室した者には無差別に〝呪い〟が降り掛かっているのね)
〝呪い〟と表現はしても、正確に魔法式を組み立てていた訳ではないので両親や使用人たちへの害は些細なものだっただろう。精々、稀に泣き喚くスフェンが夢に出る程度。不意に思い出す程度だろう。
それでも、魔力感知に優れたガレンには強く影響があった筈だ。
それこそ、扉越しに感じる自分へ向けられた絶対的な悪意はじわりじわりとガレンの魔力へ滲み、部屋へ近付いては悪夢に魘されていただろう。自身に対して「消えろ」、「お前さえ居なければ」と幻聴と幻覚が過ぎり、どれだけ一度も会っていない実姉が怖かったか。
「でも、気のせいでした」
バッと顔を上げたガレンの表情は恐怖ではなく安堵と歓喜に満ちている。
初めて彼が見た実姉は、〝スフェン〟に成ったドールは、太陽のような瞳を持ち穏やかに微笑む女性だった。まるで両親がくれるような慈愛に満ちた視線は擽ったくて、感じる魔力は恐ろしいものではなかった。
それは、共に姉の部屋へ来て身に沁みただろう。姉から感じる魔力と部屋に蔓延る魔力は確かに同じ人物のものである筈なのに、全く〝異なっている〟のだから。
「お姉さまは、やさしくて、お部屋も、いたくなかったです!」
「——昔、練習していた魔法の失敗作が残っていたみたいです。怖い思いをさせましたね」
「い、いいえ! こわくは……その、」
「でも、悪夢を見たでしょう?」
「う……うん…………」
「それなら、今日で終わりにしましょうか」
え、と零したガレンの頬をゆるりと撫で、ドールは立ち上がる。
「ガレン、魔法はどのくらい習いましたか?」
「えっと、魔道具の使いかたと、浮遊魔法のきそ……簡単な風魔法くらい、です」
「なら丁度いいですね。この部屋、綺麗にしてくれてますが、空気が未だ少しだけ悪いでしょう?」
「は、はい」
「その空気を、ガレンの風魔法で外に追い出してくださいな」
ドールの提案にガレンはえっと声を上げた。彼が出せるのは精々そよ風で、空気を入れ替えるほどは難しいと自負しているのだろう。
そよ風程度の魔法すら扱えないドールには媒介があるだけ非常に有り難いことだった。
「大丈夫、強い魔法を使おうとしなくて構いません。ただ、〝この部屋を綺麗にしたい〟と願ってくれればいいだけです」
「きれいに……」
「ええ、〝不浄は要らない〟と」
外からの風ではない、別の要因によってふわりとカーテンが揺れる。ガレンは目を見開いた。魔力の揺れを感じたのだろう。
ガレンとスフェンの魔力量の差はそこまでない。この世界では年齢や経験、修行を重ねれば魔力量が増える訳では無い。正確には、増えないこともないが、極僅かでしかないのだ。
キャロル伯爵夫人——スフェンの母親は生まれ持った魔力が多かった。そして、娘のスフェンと息子のガレンにもそれは引き継がれた。
妖精に愛されているか、いないか。愛されていれば妖精の力を借りることができる。愛されていなくても特筆すべきデメリットはない。
将来有望な姿にドールは微笑んだ。
(消えてください、スフェン)
ガレンとドールの周囲に魔力が渦巻いて、部屋に染み付いていた〝呪い〟を相殺していく。一瞬のことだった。ガレンが瞬きをしただけの間に、〝呪い〟は影も残さず消え去った。
「——できた……!」
陰鬱とした空気が無くなった部屋で、ガレンはもう一度ドールへ抱き着いた。胸元の温もりに頬を寄せながら、彼女はほくそ笑む。
(スフェンの意思を消そうとしたのに〝妖精〟が止めに入らなかった! 寧ろ、私がガレンに頼んだことで、力を貸しているようにも見えた)
今も妖精たちは楽しそうな笑い声を零すだけ。部屋の中でキラキラと輝いて、跳ねて、歌っている。
つまり、彼らは〝スフェン〟だけの味方でもないという証明に他ならない。
(私の願いを叶えない理由は、対価か条件のどちらかが足りないから)
人外はドールとスフェンを無性に愛しながら、無意味に力を貸しながら、無条件では助けない。力を借りるには対価が必要。
(それなら、入れ替わりの解除を止めに入ることはない)
問題の一つが解決したことでドールの心は期待に弾んだ。
お茶会の席へ戻ると、伯爵はヴェントと今後についてを話すようで屋敷の中へ向かった。残された夫人とドールは、ガレンを連れ三人で出掛けることになり、今は馬車の中。
夫人も明るくなった娘へ違和感は感じつつも、ヴェントから聞いた自殺未遂の件があるからと言及できず、受け入れることにしたようだ。
(ことなかれ主義で助かります、伯爵夫人)
皆の憐憫を含んだ視線を気づきながら知らないフリをして、ドールは馬車の中から外を眺める。時折ガレンの相手をして、それなりに退屈しのぎにはなっていた。
暫くして到着したのは様々な店が並ぶ貴族向けの市街地だった。貴族向けとは言っても貿易港が近い為に商人や外来品を扱う店が多く活気に満ちていた。
「朝から移動ばかりで疲れていない?」
「いいえ。それに初めて来る場所ですから、楽しみです」
「そう? 疲れたらすぐに言うのよ」
「はい、ありがとうございます」
夫人の声や視線には親としての心配が含まれており、温かな思いやりにドールは擽ったそうに微笑んだ。
思い出すのは、元の世界にいる兄と姉のこと。彼女にとっての家族は二人だけだが、その二人を思い出させてくれることが嬉しいのだろう。
「外国のお店が多いですね! あ、あれはなんだろう」
「気になるお店があれば見てみましょうか。貴方には新しいドレスも」
「やったぁ! お姉さま、行きましょう!」
はしゃぐガレンに手を引かれながら、ドールの心は何処までも、此処にはない。
気になる店を満足するまで周り、夫人とガレンが選んだドレスを身に纏う。そこでも夫人は、かつてのスフェンが選んでいたような地味めなドレスを目に止めたが、ふとドールを見て明るく華やかな物を取り直していた。今の社交界の流行に乗りつつ、外国の珍しい糸やデザインで作られたドレスはとてもドールに似合っていた。
その後も軽く昼食を終えると、夫人はドールの為に新しいドレスを作るのだと別の店に向かい、ドールとガレンは僅かな護衛をつけて再び街を歩いていた。
「お姉さま! 僕あのお店が見たいです!」
のんびり店を回っていると、ガレンが一つの店を指さした。店と言うには小さなテント。長い木の棒を組み立て紐で固定し、鮮やかな模様の布を日除けにしただけの簡素な作り。地面に敷かれた絨毯の上に少ない品が並ぶ程度の規模だった。
外来品を扱う出店の更に奥、路地に裏へ繋がるような場所にひっそりと佇んでいるからか、客はいない。店主も目深に被ったターバンで顔が見えず、テントの中でじっと胡座をかいているのだから胡散臭いまである。
(あの店……)
普通の貴族であれば歯牙にもかけない存在にガレンは惹かれ、また、〝店を認識した〟ドールは目を見開く。
「おや、貴族さまかい……いらっしゃい、気になる品があるかね?」
「はい、見てもいいですか?」
「ええ、ええ、どうぞ、どうぞ。可愛らしいお坊ちゃま」
しゃがれた声は低く性別が判断しにくかった。しかし、身につけている衣服は隣国の民族衣装のようなもので、そこからやっと店の主人が老婦人なのだとわかる。
絨毯の上に並ぶ幾つかの古書、貴金属、装飾品を眺めるガレンの隣でドールは静かに店を観察していた。
(……弱いものだけど間違いなく〝認識阻害〟の魔法が掛けられている。本人じゃなくて、店主の身につけている装飾品に組み込まれてるみたいだけど……)
目を凝らして漸く薄っすらと魔法陣が浮かんだ。店主のターバンにかけられた飾りが原因だと判明したが、ドールには理解しがたいことだった。
〝認識阻害〟の魔法とは、魔法使いたちが使えばその場にいる者から認識されにくくなり、透明人間のようになれる。人々の意識を逸らすといった方が正しく、看破の魔法や魔道具を使われれば当然バレてしまう。
しかし、微弱な〝認識阻害〟では所詮存在感の薄い人間とまでしかならず、隠密や悪巧みには向かない。簡単な変装と同じくらいの価値しかないからだ。
だが、それらは隠しごとをする人間にとって必要なものであり、より多くの人間を招き商品を売る仕事の人間にとっては無用の長物である。証拠に、魔力を感知できるドールやガレンが気付かなければ、そこには店があるとわかっていても興味が唆られず通り過ぎる者ばかり。
あからさまな貴族令嬢と令息が身を屈めてまで見ている店に誰も視線を向けないのだから、尚のこと。この店は怪しかった。
「どうしてこの飾りをつけているのかが、気になりますかえ?」
「……ええ、不思議で。商いには不向きでしょうから」
ドールは心を読まれたように感じ、ほんの一瞬硬直した。それは不快感や動揺からくるものではなく純粋な驚愕。この世界で目を覚まして、誰一人としてドールの心に近づいた者がいないからこその不思議な感覚であった。
「ああ、ああ、なんと素直なお方だ」
人形の顔色や心など、誰が理解できるというのか。
「うちの店にいる子たちは、選り好みが激しくていらっしゃる」
「えりごのみ?」
「持ち主を選ぶのですね」
「その通り」
店主の言葉にガレンが首を傾げ、一方のドールは成る程、と頷く。
「ガレン。この品々に魔力が込められていることはわかりますか?」
「は、はい! どれも強い力を感じたので……でも魔道具とは少し違うような……?」
「恐らく、物そのものに魔力が宿っているのでしょう……魔法陣を付与しているわけではなく、魔石を動力に使っているわけでもない……」
「えっ、そんな物があるんですか?」
「目の良いご姉弟だこと」
ほほほ、と店主が笑う。窪んだ目元を綻ばせながらも、枯れ木のような細い体は不自然なほど揺れていない。
「質のいい魔力を放つ物は、すべからく衆目を集めなさる。唯人には何故か気になる、といった程度でしょうが……お二人のような魔法使いには、少し違って感じるようだ」
店主はくつりくつりと喉を鳴らした。満足そうな声に呼応してか、並べられた品たちの放つ魔力が波を打ち煌めく。揺れる光の粒はガレンには視えていないだろうが、それでも感知はできているのだろう。魅入られたように商品たちを見つめている。
ドールが口を開いた。
「此処に在る品々はどれも一級品ですね。〝認識阻害〟でも隠しきれず、魔法使いを呼んでいたのですから」
「我が儘なお嬢さんやお坊ちゃんばかりでねえ。どうにも〝護衛〟すらくぐり抜けて、会いに来る御方にしか見られたくないと言うもんだ」
「つまり、えっと、僕とお姉さまは魔法が使えるから、見つけられたってことですか?」
「正解であり、間違いでもありますなあ」
「え?」
「たかだか魔法が使える程度、たかだか国の試験に合格した魔法使いだとて、変わりやしません。例え私を見つけられても、この子たちは姿を現すかどうか……」
にやりと口角を上げる店主にガレンは更に首を傾けることしかできなかった。幼い彼には〝道具が使い手を選ぶ〟事象自体が慣れぬ物なのかもしれない。
当然、ドールにとっても初めてのことではあるが、前例として彼女は妖精というイレギュラーな交流を持っている。常に選定の目を向けられている身からすれば特段気にすることでもなかった。
理解を示す堂々たる姿に、店主も頷きドールへ手の平を上へ晒す。
「お嬢さまに惹かれてのことだそうで」
「お姉さまを? すごいです、こんなに強い魔力が込められた物に選ばれるなんて!」
ガレン、店主の順で視線を遣ると、ドールはとある商品へ目を向けた。その視線を追った店主が破顔する。
「ああ、ああ。一番声が大きかったのはその子だねえ」
「——そうでしょうね」
それは絨毯の端が捲れないようと重しのように置かれていた。外来の調度品と言われればそれまでと見落としがちな洋燈だった。
この国の文化とは異なる形、装飾の品だが、ドールへ向けていっそ威嚇にも取れそうなほど強烈な輝きを放っているのだ。
〝自分を手に取れ〟、〝自分を見ろ〟と言わんばかりの見えない圧。傲慢極まりないそれが、ドールにとっては不思議と不愉快ではなかった。
「それは我が国の遺跡から出没した物でねえ、真偽は定かじゃあないが——〝妖精王〟が作った洋燈と言われているんですよ」
ドールが目を見開く。また、〝妖精王〟だと。
一方で隣のガレンは困惑した風に首を傾げた。
「妖精王って、なんですか?」
「……外の国で寝物語に出てくる空想上の存在ですよ。全ての妖精を纏める存在なんだとか」
「へぇ……初めて聞きました!」
「この国は特に、妖精の存在も薄くなっておりますしねえ」
ドールの説明にガレンは目を輝かせた。その反応はこの国の者らしく、店主は愉快そうに笑う。
妖精とは物語の中にしか存在せず、存在していたとしても徳を積んだ魔法使いしか視ることは叶わない。
中でも王と名のつく〝妖精王〟とは天使や神に近いモノ。信じる信じない以前に隣国の更に辺境でしか信仰されていない小さな宗教の一端として分類されている——以前、脚本家から聞いた内容だ。
故に、この国は太陽神を信仰している者が多い兼ね合いで、寝物語の超常的な存在は妖精ではなく太陽神の使いに挿げ変わっている。
「この洋燈が本物だとして、自国の宝物庫や神殿に収められているべき物をどうして貴方がお持ちに?」
「幸いにも、選ばれた御方が現れるまでのお供を許されましてにございます。」
「…………〝妖精王〟の作った洋燈が、私を、本当に選んだと?」
「ええ、ええ。貴方さまですとも。ご自身でも、おわかりになっていらっしゃるでしょう?」
選ばれたのだと、そう言われ店主より手渡された洋燈を受け取れば、酷く馴染む感覚にドールは目眩がした。くらりと甘さに酔うような、眩しい輝きに怯えるような、懐かしさ。
(——どうして、)
そう。それは確かに懐かしさであった。
幾度となくドールの胸中を占め、逃がしてくれない望郷の念。
(どうして……兄さんと姉さんを、思い出すんだろう)
咄嗟に湧いた寂しさにドールは僅かに顔を歪めた。その実、彼女の表情は人形のように微塵も動いてはいないのだが、本人にはどうでもいいことだろう。
一言も発しなくなったドールの側でガレンが心配そうに窺っていたが、安心させることもできず洋燈を見つめるばかり。
「妖精は、貴方さまを愛していらっしゃいます」
そう言い残すと店主はふわりと煙のように消え失せた。並べられた品や絨毯も消えており、そこでようやく街が騒がしかったことを思い出す。
まるで薄い硝子の密室に閉じ込められていたようで、そういう魔法なのだろうとドールが感心していればガレンの言葉で硬直する。
「あれ、お姉さま。その洋燈はいつ購入されたんですか?」
その一言でガレンの記憶が操作されていると理解し、ドールは慌てて近くにいた護衛を呼んだ。
そういえば、店主と話している際に護衛たちは何処に居たのかと考えに至り、記憶や認識操作に自分もかかっていたのだと肌が粟立つ。
「少々用事ができました。後ほど合流させてください」
「え、お姉さま!?」
「ごめんなさい、ガレン。戻ったらまたお店を見て回りましょうね」
「は、はい!」
「お嬢さま、流石に護衛なしでは……」
「必要ありませんので、この子をお願いします」
護衛の静止を他所にドールは駆け出した。
胸中は不快感と憤怒に塗れている。しかし、大半は焦燥だった。
(いつから? 何の認識が、どの記憶が違う? 何を忘れてる? 何を変えられた?)
他人によって自分の思考回路が乱されることなど彼女には耐え難く、只管に恐ろしいことだった。気付かない内に、本当に大切な存在を忘れさせられる恐怖は、既に痛いほど知っている。
元の世界のこと、兄と姉のこと。
この世界のこと、この身体の本来の持ち主であり元凶であるスフェンを覚えていること。絶対にこの入れ替わりを戻し家族の元へ帰ること。公爵家、伯爵家、舞台の脚本家、妖精王、洋燈。覚えていることに安堵しながらも、それすら誤った認識に捻じ曲げられているかもしれないと唇が戦慄く。
店主が居た奥の路地へ進み、覚えている魔力を辿る。薄く僅かに残っただけの魔力粒子を追いかけることは酷く難儀だった。
周囲を見渡していると、勢いよく手首を握られドールは振り返る。
「なんで、此処にいる?」
そこに居たのはスモークだった。不機嫌そうに此方を探るような表情でドールを見下ろしている男を、彼女は邪魔だと振り払おうとするが逃がしてもらえず瞳が歪む。
「離して、今貴方に構っている暇はないの」
今にも泣きそうな黄金色の双眸に、尚更スモークは手を離せず、表情を困惑に染めた。
「——何があった」
親身な様子が、決して自分に向けられたものではないとドールは理解していた。彼はドールではなく〝スフェン〟の身体を心配しているのだ。
ならば、とドールは思考を切り替え抵抗を軽くしスモークの服を掴む。
「私が今、記憶操作の魔法を受けているか分かる?」
「何……?」
「答えて——いいえ、教えてください」
不快感を振り払い頭を下げた。なりふり構っていられず、利用できるものはすべて利用しようと、ドールは懇願した。