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6話


 

「オペラに行かないか?」


 また別の日。朝食の席で齎されたヴェントの非道な提案に、ドールは貼り付けた笑みで平坦な了承を返すことしかできなかった。


(数ヶ月後にはいなくなる相手に、尽くしすぎじゃないかしら)


 先日も街に出て数十着に及ぶドレスや宝飾品を買い与えられていた。本来であればデザイナーや店主が家に来て営業をするものだが、ドールが面倒を理由に断り続けていた結果、何故か外に出て買い物をしたいのだと勘違いされたという前例だ。

 外出を嫌う性格ではないが、同伴する相手によっては面倒になるのは人間の真理であろう。毎度の誘いに笑顔で頷きはしても、それは離婚する為の守るべき条件に家族円満が入っているからだ。拒絶を口にしても遠慮だと勘違いされるばかり。それでも、語らぬ本心は誰にも見透かせないが故に、延々と同じことが繰り返される。


「お誘い、大変光栄です。是非連れて行ってくださいませ」

「……無理はしていないか?」

「ええ」


 言葉の通り、無理はしていない。ドールはただ面倒なだけだったが、ヴェントは勘が冴えているので薄っすら感じ取ったのだろう。


「先日頂いたドレスを着ても構いませんか?」


 会話の流れを変えるべくドールは立ち上がり、クローゼットの前へ移動する。そこにあるのはどれもヴェントからの贈り物だった。入り切らなかったドレスや靴は未だ丁寧に包装された箱に入ったままで、特にお気に入りだけが並べられている。

 これまでのスフェンは実家から持ってきたドレスしか着ることがなかった。肩書上と言えど公爵夫人として充分な資金を与えられていたが、使われたのはほんの少し。今思うと天敵を見るような視線を向けてくる公爵家の人間から、更に叱責されかねない行動はすべきでないと考えたのだろう——その窮屈な環境を想像し、ヴェントは心を痛めた。


「勿論だ……そうだな、これなんかはどうだ?」

「臙脂色の生地に金の刺繍ですか……美しいですね、ではこれにします」

「靴の好みはあるか?」

「あまり高いヒールは歩き難くて……」

「ならばこちらにしよう。私も側で支える」

「ふふ、ありがとうございます」


 見せかけの親交も、重ねれば真実になるかもしれない。そう思わせられるほど、ドールの表情は柔らかかった。


(彼女は、被害者だ。守らなくてはならない弱者だ)


 ヴェントは唇を噛み締める。実の親から売られるようにして嫁いできた花盛りだった少女を、無為に過ごさせ無惨にも散らせてしまうのはヴェントだ。そして、公爵家の全員に責任がある。

 だと言うのに、何も憎んでないと言わんばかりに愛らしく微笑む後妻ほどできた人間を彼らは知らない。


「お揃いとは言いません……でも、旦那様が赤い宝石をつけてくださると、嬉しく思います」

 

 ドールはこれまでの警戒心を何処に隠したのか、見事に堅物な男を弄ぶ女の手管でヴェントの心を鷲掴んだ。

 男の胸中に満ちる罪悪感、庇護欲、同情、そして一抹の尊敬と——愛おしさ。

 ヴェントは僅かに目を見開き、その身を硬直させた。足の爪先から脳天まで駆け巡った謎の感覚をどうするべきか迷い、彼は無意識の内に肯定を零していた。

 

「君が許してくれるのであれば、宝石だけではなく、揃いに見える格好をしてもいいだろうか?」


 よほど睦まじい仲、もしくは周囲にそう見せたい間柄でなければ日常で服装を揃えることは少ない。故にドールはヴェントの提案を周囲へのアピールだと捉え、満面の笑みで受け入れた。

 ただ、ヴェントだけは、前妻が生きていた頃と変わらぬように、目に見える形が欲しかったのだ。恋に盲目だった在りし日。


(私の、今の妻は————彼女だ)


 静かに湧き上がり滲んでいく好意と、独占欲に目眩がするようだった。

 


 

 煌びやかな空間に管弦楽の重厚な音色が響き渡る。重なる演者の声が悲劇を歌っていた。観客の夫人や令嬢よりも色とりどり、華やかに宝石や刺繍を散りばめた衣装が舞台で翻ることでくるりくるりと、転げ落ちていく人生を表すように回り続けている。

 二階バルコニー席は五人ほどが座れるよう構成されている空間だったが、座る観客はヴェントとドールのみ。どうやら貸し切りにすべく残りの三席も購入していたらしい。貴族御用達の歌劇は相場もそれなりなのだが、まあ公爵家の財産があれば支障など欠片もない。

 柔らかな座席の側にはサイドテーブルがあり軽い飲食も可能だった。ドールは食べ物には手を出さず、発泡酒の細長いグラスを傾けながら歌劇を見つめていた。


(隣国の王女に恋をした王太子の話、ねえ……)


 ドールはありきたりなロマンス展開に目を細める。

 物語は王族の義務や周囲との蟠りをしっかりと描く故に大衆向けではないが、展開としては王太子の一途な片思いと困難を乗り切ろうと奮起するものだった。それも、悲劇の男女ではなく男の一方的な一目惚れから始まる流れは、如何にも恋愛ごとに惹かれる令嬢たちの心を掴む為に脚本されている。

 

(王女には婚約者がいて、王太子にも数人の婚約者候補がいた。婚約者候補の令嬢たちは我こそがとアピールを繰り返すものの、王太子は誰にも頷かない……よく、自国の内部を荒らそうと思えるわね)


 王太子は頑なに王女以外の女性を認めなかった。互いの国の関係は良好と言えど、こうも王女を婚約者にと声を上げていては国交どころか候補の令嬢たちの家から苦情が上がって当然だ。

 それでも厄介なことに王太子は善人だという。顔立ちも整っていたが何より魔法に明るく、国政などの勉学を怠ることもなく、それでいて紳士だった。

 だからこそ令嬢たちは彼の地位だけでなく、純粋に人柄を好ましく思い隣に立ちたいと奮闘するのだろう。


(これは、父親である国王も悪いわね)


 恋に奮闘する婚約者候補の令嬢たちや真っ直ぐに王女を望む王太子について、観客の誰もが一喜一憂していたのだが、ドールだけは冷静に物語を分析していた。

 王太子は紳士な善人としても、既に婚約者のいる王女を望み続けるのはいかがなものか。それを叱責することもなく、好きにしろと大らかに頷く国王は、周囲で怒りを顕にする貴族が見えないのだろう。

 そうするとドールの目に王太子は、ただ甘やかされて育ったお坊ちゃんとしか映らなかった。


「あのような方が王太子では、国は終わりですね」

「その通りだな」


 誰かに聞かせる呟きではなかったのだが、隣から聞こえた同意にドールはちらと視線を移す。そこには眉を顰めたヴェントが腕を組み舞台を見下ろしていた。予想通りの潔癖だとドールは笑った。


「令嬢のどなたかが王太子を振り向かせるしかありませんが、どうにも……」

「ああ……王女の国は土地や技術、資源も豊かで、王太子の国はそれに依存する形だ。これ以上献上できるものも無く、既に良い関係を築いている以上、王太子の願いという理由だけで王女の国が婚約をのむ筈がない」

「そうでしょうね」

 

 ヴォルフェルム公爵家は王族の血が流れており関係も密接な故に、物語と現実の齟齬に思うところがあるのだろう。もしくは、ただ誰かと討論することが好きなのかと考えドールが会話を続けると、見事に的中だった。


「きっと、振り向かせられる令嬢がいなければ、あの王太子は暴走しますよ」

「物語とはいえそこまで愚かでは問題だろう。設定が扱いにくそうだ」

「問題ありませんよ……だってこれは、復讐に燃える王女の物語なのですから」


 ドールの返事にヴェントが目を見開き、視線が絡み合う。つい先日公演が始まった演目だがやけに訳知り顔のドールに驚いたのだろう。


「内容を知っていたのか?」

「いいえ? ですが、悲劇の対象が誰なのか、序盤に比べると徐々に変化していますから」


 ドールの言葉の直後、光と呼ぶに相応しかった高潔で一途な王太子は、王女の婚約者を密かに暗殺した。観客が息を呑んだ。

 悲哀に暮れる王女へ幾度目かの婚約を望むも、断られる——誰の目にも王太子が首謀者だと明らかだったからだ。

 

「……確かに、同情せざるを得ない対象が王女の婚約者の死で切り替わったな。だが、なんの為に? 最初から王女の視点で進めてもよかったと思うが」

「集客目的では? 〝眉目秀麗な王太子が主人公の悲恋〟という設定はご令嬢方の好奇心を擽るには充分かと」


 ふむ、とヴェントが頷く。組んでいた腕の片方の指を口元に当て思案する姿は演者よりも美しく絵になっていた。絵画にすれば飛ぶように売れるだろう光景も一蹴して、ドールは喉を潤す。


「王太子と共に、国ごと沈まなければいいですね」


 案の定、歌劇の内容は悲劇を追うこととなる。

 憎悪に染まった王女は立ち上がり、王太子が犯人だという証拠を掴んだ。そして自身の父親である国王を説得して、王太子の廃嫡を要求したのだが、王太子の父は「息子に限ってそんなことはない。これは、我が国を取り込まんとする貴国の陰謀であろう」と火に油を注ぎ、戦争へと発展した。

 しかし、兵力差は圧倒的で王太子の国は惨敗。国王は処刑され、他の民は捕虜に、王太子は王女の目の前で処刑されることとなった。


「《わたくしは、貴方を愛することは決してありません。貴方の命が続くことすら、わたくしにとっては耐え難いことなのです》」

 

 王太子の首に剣が降ろされる直前、王女は民衆には聞こえぬ程度の声音で心の赴くまま憎悪を語った。

 諸悪の根源である男の死を望みながらも、罪悪感に悩まされ、涙を流す王女。背徳的でありながら神聖で、何処までも人間らしく惨たらしい少女がそこには居た。


「《王女よ……私は私の罪を認め、喜んで死の剣を受け入れましょう。ですが、どうか、貴方を愛していた愚かな男のことを、覚えていてください》」

 

 彼女の悲哀を正面から受け止めた王太子は、尚も笑顔で愛を語った。愛故に狂ってしまったのだとしても、息絶える瞬間までその愛を消すことはないと宣ったのだ。


(……へぇ)


 見下ろせる一階席の観客は誰もが目元を拭い口元を押さえていたが、ドールはそれらも含めたすべてに観察目を向けていた。


(やっぱり、愛していると言えば殆どのことは許されるのね)


 隣に座るヴェントですら、愛の乱用に顔を歪めているというのに。ドールの心は平坦だった。興奮も軽蔑もなく事実確認にすぎない。

 何も響かず、何にも感動させられず、何かを嫌悪することもない——愛に搾取されてきたという特殊な生い立ちの所為か、彼女には共感性が圧倒的に欠けていた。

 

(愛は万能薬みたいなもの。スフェンが遠巻きにされていたのだって、公爵家の人間が前妻を愛していたから……そして、妖精やスピネルがスフェンに手を貸していたのも、また……)

 

 愛そのものや愛情を抱くこと自体を責めるつもりはない。責めるべきは愛に盲目になり過ぎて、起こした事象の責任が取れなくなること。愛が原因で引き起こされる劇が、清らかなものだけだと疑わない無知さを、ドールは憎んでいる。

 けれど運命に翻弄される舞台上の王女は、罪悪感に悩まされたような揺れる瞳を伏せ、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 彼女は知っていたのだ。自身の復讐すら、婚約者を愛してたからこその結末だと。

 死人に口無し、敗者に用無し、勝者にはすべてが許される。


「《……あなたの愛を、許しましょう》」

「《ああ……それは何よりも、光栄なことです》」


 自分と王太子は何も変わらない。愛に生きただけ。故に愛を返すことはなくとも、王太子の愛は否定しない。

 そして、王女は空気を裂くように右手を下ろした。処刑の、剣を振り下ろす合図だった。


「《…………どうか、この方の魂が、静かに眠ることができますように》」


 転がった首を優しく胸元に抱き、王女は願った。大罪人の魂にすら慈悲を見せる彼女は、観客の目にはきっと聖女のように映るのだろう。

 そして王女は自らの首にも鋭い鋼を添え、肉を裂いた。沈黙が場を圧倒し、現実を知らしめる。

 一方ドールはこれで終わりかと座りを直そうとした瞬間、新たな音楽が始まった。

 重厚でいて甲高いような、風に乗るような華やかさ。例えるならファンファーレだろうか。祝福や喝采といった印象が強すぎる曲調に、何故か背筋が冷えた。


(あれは……)

 

 舞台最奥の幕が開かれ、花弁や羽が舞う。天から光差すような演出が王女たちの亡骸の上に訪れ、影が降る。

 現れたのは天使を模したような、神秘的な存在。美しい顔の演者に投影魔法で雰囲気を作っているのだと分かるが、ドールは悪寒が止まらなかった。


「……スフェン?」


 顔色の悪さにヴェントが声をかけるも、ドールはただでさえ白い顔を更に青褪めさせて口元には震える手を当てている。何に怯えているのかとヴェントが周囲を見渡しても怪しいものはない。舞台には、ただ人知の及ばぬ存在が、死した王女と王太子に祝福を与えようとしているだけ。


「《真実の愛をその身に宿す者たちよ。〝妖精王フトゥーロ〟の名に於いて、そなたらの魂に平穏と安寧を約束しよう》」


 愛に翻弄された者たちが、死者の世界や来世で平和に暮らせるようにと、人外が祈っている。人外だ。神でも、天使でもなく——妖精が。

 ドールの耳には確かに、音楽が鳴り始めるのと同時に聞こえていた。くすくすと笑う、光の粒たちの声が。

 

(妖精王、フトゥーロ……?)


 目を通したどの書物にも書かれていない存在に困惑が募る。舞台では語り部が讃えるように両手を広げて台詞を重ねていた。

 

「《〝妖精王フトゥーロ〟。かの存在はすべての妖精の頂点に立ち、人間の魂を見る。真実を見極め、誠実な者の前にのみ現れる》」


 ドールは手で隠された唇を不快そうに歪めた。板の上では、美しくも悍ましい存在が笑みを浮かべたままでいた。


「《祝福を》」

 

 幕が降ろされ、暗闇には喝采が響き渡った。

 



 公演が終わると、ドールは心配そうに見つめてくるヴェントを説得して演者たちを労いたいと口にした。歌劇の者たちも貴族から言葉を貰うことはよくあり、特にヴォルフェルム公爵家と言えば断られることはなかった。

 片付けをしている舞台裏に案内され支配人や主演の二人に挨拶をする。ヴェントは二階席の買い占めを交渉していたのでその礼を伝えていたが、ドールは会いたい者がいると頼んだ。

 

「こ、公爵夫人にご挨拶を致します……!」

「貴方が脚本家だとお聞きしました。お話を伺っても構いませんか?」

「も、勿論です……」


 奥からやってきたのは女性だった。

 歳の頃は二十代後半だろう。他の演者とは違った動きやすい服装で、ちらりと見えた小指側の手の側面と腕の袖口が擦れたインクで汚れているが顔は美しい。

 主役や演奏担当者に会いたいと願う者は多かったが、自分が呼ばれるのは初めてだったらしく、脚本家は何処か怯えた目でドールを窺っていた。

 

「素敵な物語でした。王女が自死したところなどは、特に」

「え……あ、いえ、えっと……光栄です……」


 まさかそこが選出されるとは微塵も考えていなかったのだろう。帰っていく観客から聞こえる感想はどれも悲劇の二人が可哀想、きっと来世は幸せになれる、王太子は愚かだ。どうして王女は死んだのか。王女と王太子が結ばれればよかったのにというものばかり。これは共に作品を作り上げてきた演者たちからも同様に上がった意見である。

 しかし、誰とも異なる感想を告げたドールに好奇心が疼いたのだろう、脚本家が恐る恐る口を開いた。

 

「な、何故その、王女が亡くなるシーンを……?」

「彼女はちゃんと自身の罪に気づいたようでしたから」


 ドールの言葉に脚本家が目を瞠る。

 

「王女は愛に狂った王太子と変わりません。愛していた婚約者を殺されたから、だから消せぬ愛を理由に王太子を憎悪し、戦争を起こし、処刑した。」

「は、はい」

「最後に王太子の愛を許したのは、自身の愛による復讐を正当化する為に必要だったからでしょう?」

「!」

「〝愛する人を殺されたから復讐した〟と〝愛していたから邪魔者を殺した〟は結局のところ同じです。それならば……」

「——復讐によって王太子が処刑されるのであれば、王女も死ななくてはならない」

「ええ」


 私はそう思いました、と微笑むドールに脚本家は破顔した。彼女はそのまま、いっそ涙の膜まで瞳に宿し、神聖なものを前にしたかのように両手の指を交互に重ね合わせた。


「その通りでございます! 誰かを恨むのであれば、誰かに恨まれていなくては、可笑しいでしょう? 特に愛や憎悪といった感情に身を焦がすのであれば、生半可な気持ちで動かれては不愉快というもの。それに気づかないなど愚の骨頂です」

「ええ、そうでしょうね。それも同じ意見です」


 ドールは目を細めて脚本家を見つめた。紅潮した頬、心から吐き出された本音、歓喜で潤む瞳は初めての理解者に会えた喜びで満ち溢れている。

 その姿をドールは知っていた。よく知っているのだ。何度も見たことがあるそれは——自分自身に似ていたから。


「貴方は、誰かに恨まれて、恨み返したことがあるのね」

「はい……!」


 ドールは味方のような顔をして脚本家の手を握る。それを見事に、真の仲間を得たと考えた脚本家は物語を編むように自身の過去を歌った。


「因果応報はあって然るべきですもの!」

 

 脚本家は元々隣国の男爵家の三女だった。

 貴族として男爵位を持っていてもその財産は王国で生きている商人と変わらないほどで、寧ろ劣る場合もあった。

 それでも平和に暮らしていたが、結婚適齢期になると他の令嬢と同じように彼女も別の家門へ嫁いでいった。それが悲劇の始まりである。

 嫁ぎ先はあろうことか王国でも名高い伯爵家で、到底脚本家のような貧乏貴族とは釣り合わない。持参金も少なく、恋愛結婚でもない。両家のメリットを重視する貴族には珍しいことだったが、若かりし頃の脚本家は少しも疑わなかった。

 彼女はその伯爵家で家畜のように扱われた。伯爵夫人とは名ばかりに、使用人と同じ服を着て床を這いつくばり掃除をする日々。パーティーには行ったことがなく、開いたこともない。夫はいつも妻の体は弱いと言って別の女性と参加していたようだ。

 愛した相手ではなかったので、浮気紛いの行動を取る夫を恨んだことはない。使用人のように扱われても底辺貴族の令嬢だからだと文句も言わなかった。

 けれど、彼女が疎まれるのには理由があった。


「私は、父が娼婦に産ませた娘だったのです」


 そもそも、実家に彼女を大切に思う者はいなかったのだ。誰もが優しいふりをしていた。

 ——そういえば、家族での外出に連れて行ってもらったことがない。

 ——そういえば、お姉様のおさがりばかりで、新しいドレスを貰ったことがない。

 ——そういえば、お姉様とお兄様は、いつも困った顔で私と接していた。

 ——そういえば、お母様に抱き締められたことがない。

 ——そういえば、お父様から声をかけられたことがない。

 そういえば、そういえば、そういえば。

 思い出せる記憶のすべてが今となっては歪で、くすんだ色をしていた。どうして気づかなかったのかと噛み締めた唇は誰に心配されることもなく、彼方へ沈む。


「厄介払いだったのです。そして、伯爵家もまた、同じような問題を抱えていたのです」


 夫の父親である前伯爵は、とある娼婦に夢中になって妻や息子を蔑ろにしてきたという。終いには正式な愛人として家に入れたのだと。それ以来、伯爵家の内部は完全に崩壊した。誰もが愛人を嫌っていたが当主がそれを庇うのでどうにもならなかった。

 故に、愛人は前伯爵夫人に暗殺された。微量の毒が紅茶に混ぜられているとは知らず、毎日飲んでいたのだ。

 前伯爵夫人の動機は勿論嫉妬もあっただろう。同時に、このままでは幼い息子に——脚本家の夫の為にならないと、決断したのではないだろうか。


「愛人を殺害した後、前伯爵夫人も自害されたそうです。当然、外聞悪い事件ですから世間には愛人の存在すら漏れていません…………だから、これは私の両親も知らなかったのですが……」


 脚本家の顔は笑っていたが、双眸は、深淵のように暗かった。踏み込めば飲み込まれそうな光ない瞳は如実に、世界を呪っている。


「件の愛人は、私の本当の母親だったのです」

「……娼婦だった頃の客の一人が、お父様だったのですね」


 脚本家は満面の笑みで頷いた。


「母も中々面白い方で……高級娼婦でありながら、男爵であるお父様と愛し合っている気になっていたそうです」

「けれど、妊娠を伝えた直後、男爵様はお店に通わなくなった。女性は裏切られたと考えたでしょうね」

「ええ! だからこそ、自分を弄んだ男の家庭を壊す為に赤ん坊を堕ろさず産み落とし、真実を口外しないことと金貨を対価に、私を男爵家へ売ったのです」

「そしてその後、女性は伯爵家に愛人として迎えられ、殺された」

「私は随分、母に似ているそうですよ」


 それが、伯爵が彼女を愛さず、貶めた理由。

 ある日偶然、家族を壊した女によく似た令嬢を見つけ、男爵を問い詰めた結果黒だった。真っ赤に染まった目で、伯爵は思った筈だ——母の仇だと。


「だから、私を! 何も知らされず生きてきた私を、不幸にしていいと考えたのでしょう!」

 

 脚本家は笑顔のまま、泣いていた。器用なことだとドールは感心し、硝子細工にでも触れるような手つきでその頬を撫でた。


「何も知らされないものを私はどうやって知ればよかったのでしょう? 母の罪はなんでしょうか? 家族を壊したこと? では、母の身体を金で買ったのは誰だったでしょうか? 赤子を拒まず三女に迎えたのに中途半端に扱ったのは? 母を追い出すのではなく殺したのは誰? それらは、私の罪なのでしょうか? そもそも、母は、私に母親として何かをしてくれたのでしょうか? 私は彼女を母と呼び、娘でいなくてはならなかったのでしょうか?」

 

 悲鳴だ。疑問のように口にしていても、それは悲劇と憎悪を物語り、彼女の絶望を叫んでいた。

 初対面の人間に告白する内容ではない。それでも話さずにはいられなかったのだろう。何年も溜め込んでいた激情が、弾けている。


「これまで誰にも、理解されなかったのですね」


 ドールは眉を下げながらも微笑み、脚本家の涙を絹のハンカチで拭った。

 娼婦と貴族の言葉など比べられるものではない。何があっても娼婦は弱者で悪者だ。身分が低いのだから当然だろう。

 では、娼婦の血が流れているとも知らぬ子供と、娼婦を恨む貴族であれば、それも然り。悪いのは身分の低いほうだ。子供の血に半分男爵家の血が流れていても、伯爵家の血筋には及ばない。


「誰も私の声が聞こえないのです。誰も、私の言葉など聞く気がないのです。ならば、高尚な貴族が好む娯楽に落とし込めばどうなるかと、家と国を出て脚本家になりました……それがまさか、数年経った今、貴方のような方に出会えるなんて!」

「私も嬉しいです。貴方のような才能が埋もれることなく、今多くの人間を感動させている……素晴らしいことですね」

「こ、光栄です!」


 脚本家は呆気ないほど簡単に、ドールへ心を許した。

 

「私は残念ながら、今日が初めてのオペラでして……貴方さえよければまた今度、ぜひ他のお話についても教えてくださいな」

「ぜ、ぜひ! いつでもお呼びください!」

 

 ドールはにこりと笑って脚本家と握手をする。物書きの手と貴族令嬢の手が柔らかく体温を交わらせることに脚本家はうっとりと友情を夢想しているようだった。

 ふと、その手をドールが引いた。

 

「そういえば、ラストシーンについて気になることがあるのですが……」


 少しだけつんのめった脚本家を優しく支えながら、金色の目が甘やかな色を宿して蠱惑的に細まる。

 金貨以上の価値を思わせる黄金色に脚本家は僅かに呼吸を止めた。


「ラスト……妖精王のシーンでしょうか?」

「ええ、〝妖精王フトゥーロ〟。私は魔法を学んでいるのですが、時折妖精の記述がありまして。けれど妖精の存在自体を言及した書物は少ないでしょう?」

「確かにそうですね。私の知る妖精王も人伝に聞いたものを劇に落とし込んだだけですから……」

「ああ、そうだったのですね。あまり聞いたことのない名前だったので、つい出典元が気になってしまいました」

「私の生まれた国には寝物語の幾つかに妖精の話があるのです。そこから着想を得まして」

「寝物語に?」

「はい。なので実際には存在していないのかも」


 妖精の存在は認められているものの、視る目を持つ者が少ないために殆どがお伽噺でしかないと脚本家は語る。

 先日ドールが赴いた浄罪の塔にも妖精に関する書物はどれも憶測や理想を重ねたものばかりだった。加えて脚本家には魔法の才能がないので、そもそも塔に集められた書物に触れたことすらないだろう。

 要するに、完全創作の域に達している存在が妖精なのだ。


(だからこそ、可笑しい)


 ドールは劇中で見た妖精王を思い出す。


「どうして、〝妖精王フトゥーロ〟を演じた方に、幻術魔法の類——容姿を別の者に見せる魔法をかけていたのですか?」


 役者自体はただ顔の綺麗な男だった。

 しかし、ドールの目には彼そのものの顔に薄い膜が重なったような感覚で別の顔が見えていた。幻術で上書きされた、観客に見せたい姿だ。


「それも分かるなんて、凄いです!」

「ふふ、目はいいんです」

「本当に凄い……! けど、それならあの演出は少しつまらなかったでしょう……高位の魔法使い様に付与をお願いしてはいたのですが……」

「寧ろ、そこまでして妖精王の容姿にこだわるのか、そちらの方が気になっていましたね」

 

 あっと脚本家の目が丸くなる。


「ノヴァ公爵様にそっくりですものね」

 

 明るい返事に対し、ドールは薄っぺらな笑みで頷いた。

 悪寒がするほどにドールが動揺した〝妖精王フトゥーロ〟。魔法越しで視認できた彼は僅かに薔薇色が混ざる眩いほどの赤——まるで、宝石のスピネルに似た色の髪と瞳の美しい男。

 

(あれは間違いなく、スピネル・ノヴァ公爵だった)


 人外染みた、他人を無自覚に下に見るような圧倒的な存在感を持つ嫌な男を思い出し、ドールは心の中で眉を寄せる。

 どうして、脚本家のイメージした妖精王の姿がスピネルだったのか。確かに彼の功績や地位は素晴らしいものだ。故に、偶然かと思っていたが、しかし、ドールの目には妖精王が登場した瞬間に笑い声を大きくした人為らざる者たちが見えていた。

 光の粒たちは、言ったのだ。

 ——にてるね。

 ——にているねえ。

 ——おうさまだ。

 ——よくできている。


「浄罪の塔を管理するほどの方ですもの。もしかしたら、ノヴァ公爵は〝愛された子〟なのかも——」


 妖精に愛された子。つまり、〝スフェン〟とドールと同じ存在かもしれないと。

 それが正解だとしたらどうしてくれようかと、ドールの心はこれまで以上に酷く冷たくなっていく。

 けれど叫び出すようなことはせず、表の表情を歪めることもしない。冷静さを欠けば元の世界へ帰るきっかけを見失ってしまうかもしれないからだ。

 

「実は——……」


 次の瞬間、脚本家の口から紡がれた思わぬ内容にドールは目を見開き、うっとりと微笑んだ。





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