5話
(予想はしていたけれど、面倒ね……)
ドールは噴水の縁に座り日傘の影の中で呟いた。中庭に抜けるそよ風は心地よく、僅かに秋の匂いを運んでいる。猛暑を抜けた花壇の花々は新たな彩りへと移ろいでいくのに、ドールの心中には爽やかさが微塵もない。
すべては顔を上げた先、手に土を付着させながら花を植える少年——ルークが原因だった。
先日行われたヴェントとドールのお茶会で、二人は契約を交わした。表面上は互いの心を曝け出し、要求を呑み円満に終わろうという平和的な話し合い。実際はドールの本心だけを隠した不当なものだったが、優しい公爵はそれを真実だと疑いすらしなかった。
契約の内容は至って簡単なこと。
ドールはヴェントとの離婚を望み、ヴェントは離婚を一年後にしたいと申し出た。
前者は言わずもがな。後者の条件も、高位貴族の離婚となれば諸々の後片付けが面倒な為だと推測できる。
しかし、一年もかかるものかとドールが訝しげな眼を向ければ、ヴェントは贖罪のつもりだと告げた。自分たちの都合で不当な扱いを後妻に強いたことを償いたいのだと。
事実、社交界に於いてスフェンの評価は公爵夫人に対して飛び交う内容ではない。恐らく、そんな声すらも消してしまえるような場を設けるのだろう、そして円満離婚だと世間にアピールするのだ。
スフェンが次の相手と結婚する際に、公爵家にいた頃の悪評が邪魔をしないようにという配慮であろう。
——許してほしいとは言わない。だが、傷つけたまま終わってしまうことは許されない。だから……
ドールはヴェントの言葉が偽りのない本心だと知りながら、それを心底鬱陶しいと感じた。何故ならば、彼らが謝るべき相手は〝スフェン〟であってドールではないから。
ドールからすれば見当違いな相手に罪悪感を抱いている哀れな者たちでしかないが演技の手前我儘も言っていられない。
それ故に離婚までの一年間、ドールは皆の理想とする〝スフェン〟を演じなくてはならない。公爵家の者もドールを厄介者扱いしてはならない。それが家名をかけて交わされた契約である。
その為、今この瞬間ドールに襲い掛かっている奇妙な時間——義理の息子との交流——すら面倒で堪らないようだった。
お茶会以降、ルークはドールへ話しかけるようになっていた。と言っても拒絶されたらどうしようという色を滲ませる瞳で話しかけてくるので、優しい人間の皮を被ってしまったドールに拒否権はない。
この日はお茶会ではなく、庭師と共に季節の花を植える作業に呼ばれた。作業と言っても植えるのは庭師数人とルークのみで、スフェンはその様子を観察していろと言う。
(花を植えてる姿を見ていて欲しい、なんて、変わったお願いをするのね)
塔で借りてきた魔法書を読むこともできず、平和な家庭をなぞる行為はドールにとって無意味でしかない。けれど齢十歳になるヴェントの息子ルークにとっては何より大事な行動のようだった。
「あ、あの……喉はかわいていませんか?」
土を払い落とした手の指先をそわそわと組みながらルークが問いかけてきた。
「そうですね。ですが私などより、ルーク様の方こそ喉が渇いていらっしゃるでしょう。使用人に用意をさせましょうか」
「そ、それなら、花のお茶を飲んでみませんか……!?」
「花の? ……ああ、なるほど」
だから自分をここへ呼んだのか、とドールは納得する。ルークのうしろでは庭師がきれいな籠に土を落とした花を幾つも乗せている。恐らく植え替えで生じた前の季節の花を使うのだろう。
近頃のルークはヴェント曰く、スフェンの為に花壇や温室を弄っていたと言う。子供だとしても貴族の教育をしっかりと受け、誠実な者が多い公爵家の一人息子の為か、ルークはしっかりとスフェンへの扱いが間違いだったと認識し行動していた。
(残念ね、スフェン。貴方が入れ替わりなんてしなければ、きっとこの小さな王子様がいつか花を届けてくれたでしょうに)
ドールは穏やかな笑みを浮かべてルークの招待に頷いた。ルークが手洗いと着替えへ向かう間に、ドールは使用人と温室に移動する。到着したスフェンの為の温室には生息地の違う色とりどりの花が咲き乱れ、暖かな陽気に包まれていた。見慣れぬ植物も多く、ドールは案内された椅子には座らずに中を見て回ることにした。
「鮮やかで楽しいと言えばそれまでだけど……」
豊富な種類のある花々はそれこそ色味で整えられてはいるものの、この空間の形やスフェンには合わない物がある。恐らくそれらはスフェンの好みを知らぬが故に、手当たり次第集めた結果だと知れた。
そういった細かいところですら彼等の〝知ろうとした〟、けれど〝動かなかった〟の範疇なのだろう。誰も動かず、何も変わらない。それを好意的に捉えろというのが無理な話で、とことん脳内が温室育ちなのだろうと分かる。
(……この暖かさで、腐ってしまいそう)
ドールは一番手近にあった花を柔く撫でた。決して握り潰すことも摘み取ることもしない。ただ、愛でるように撫でる。その手元に小さな影が乗った。ルークだ。横を見ると恥じらいの涙に濡れた瞳と目が合った。
「……か……さま……」
「え?」
「お、おかあさま、と……呼んでも、かまいませんか…………?」
手を胸の前で組み、もごもごと呟いた少年の頬は痛々しいほどの赤。言いにくそうに舌を回す小さな唇は、どこか甘えるような音を奏でていた。
だからドールは触れていた花と同じように、優しく少年の頬に手を伸ばした。熱いくらいの肌を、花を愛でるように撫でてやる。
(この子も、公爵も、温室にある花と同じだわ)
ただ、そこにあるだけの存在。ただ壊れ物に触れるように接するだけで、彼らはそれを慈愛だと受け取るのだろう。なんと都合の良いことか。
「お茶にしましょうか、ルーク」
「は、はい!」
母と呼ぶ息子に対して敬称はつけるべきではないと判断し、名前を呼べば満面の笑みが返る。正しい回答だったとドールも笑う。
例えどれだけ心の底が冷えていたとしても、微塵も外に出してはならないことを彼女は知っていた。この世界にドールの味方はいないのだから、本音を曝け出していいことなどない。
けれど、テーブルまで向かうほんの数歩分の時間で小さな手と繋いだ心だけは、かつて彼女が本当の姉や兄にされて嬉しかったことだ。
(……姉さんと兄さんの優しさをを、思い出を、汚さないといけない自分が嫌い)
幸福な記憶をなぞり、不幸にする人間たちに幸福感を与えていく——それだけが、彼女の心を苦しめていた。
だから、ドールはスフェンが嫌いなのだ。ドールの幸福な記憶を塗り替えなくては、スフェンに復讐ができないから。
「誰のことも憎まずに消えられるのなら、それが一番楽なのに……」
「何かおっしゃいましたか?」
「ええ、お茶が楽しみだなと。ルークが淹れてくれるのですか?」
「も、もちろんです……!」
侍従から道具を受け取り、ルークは小さな体を必死に動かしては丁寧にお茶を淹れた。何度も練習したのだろう。もしくは趣味か。どちらにしろ誰かの為に淹れることには不慣れのようだった。
ドールがルークと関わり続ける理由は三つ。
一つはそれが公爵との契約内容だから。契約期間中は円満な家族関係を築けと。二つ目は幼い子どもの頑張る姿が、突き放すには過去の自分に似すぎていて憚られるというもの。これはドール唯一の甘さである。最後は、本物のスフェンへの嫌がらせだ。理由が複数あれど、比重は三つ目が一番多く大きかった。
いつか彼女がこの世界に戻った際、ドールが演じたスフェンとの違いを思い知るように種を蒔く。
「どうぞ……」
「ありがとうございます。いただきますね」
受け取ったカップとソーサーは硝子だった。耐熱素材と加工が成されているのかと思いドールが目を凝らすと魔法陣が薄っすらと浮かぶ。通常の硝子に耐熱の魔法をかけているのだろう。
(日常生活の道具にも魔法が当たり前のように組み込まれてる……でも、長続きはしないみたいね)
この世界では魔法使いの詠唱が声、または文字から模様となり、陣として完成し、発動する後押しの魔力を込めればそれが魔法と呼ばれる。陣を物に付与し、使用者が魔力を込めるものが魔法道具だ。
それらの道具に刻まれた魔法陣は意外と簡単に視ることができる。魔法を扱えないドールも目を凝らせば文字の羅列が目にできた。
(魔力が多い者は何をしなくても見えるのかしら? それとも、無意識に魔力を目に集中させてるの?)
魔法を学んでいたスフェンの体だから魔法陣や妖精が見える——と簡単に納得できるほどドールはこの世界を理解しきれていない。何より、入水自殺を図った前後で明らかに妖精の目視に変化があった。自殺を決行する前は見えなかったのに、今は見えている。何かがドールの魂にも影響を及ぼしている筈なのだが、それが何か分からず眉が寄る。
この世界に於いての魔法陣は取り扱い説明書のようなもので、それさえ見れば陣の模様濃度で持続時間が分かり、刻まれている内容で属性や用途が把握できた。勿論内容を理解する勉強は必要だが。
中でも対人、対魔獣用の魔法などは魔法陣を隠す魔法が重ねられ読み取れず、読み取る目も相当な高位魔法が必要になる。一方で生活必需品や公共施設に刻まれている魔法陣は機密事項以外公開されている。単に消耗品にまで陣隠しの魔法を重ねがけするのが面倒なだけだろう。
(私とスフェンを入れ替えたのは妖精の魔法……それも、寿命半分を対価にした禁術。中途半端に触れるのは危険すぎる)
どうしたものか、とドールは華やかな色と風味の花茶を見下ろして考え込んだ。時折ケーキを頬張るルークを微笑ましく見守り会話を繋げながらも、彼女の思考は遠くにあった。
——入れ替えられた二人が共に〝戻りたい〟や〝帰りたい〟という本音から出た感情を吐露し、願えばいいだけ。君たちは妖精に好かれているから、それだけで充分な筈だ。
——私が元いた世界や家族に干渉できる?
——〝スフェン〟が一度繋げているから、条件次第では可能だろうな。例えば血縁者の夢に出るとか、数秒間だけ白昼夢で会話するとか。
前途多難。けれど彼らに助けを乞うても意味がないことだけは理解している。彼らはスフェンの味方であって、ドールの味方ではない。
スピネルの言葉を思い出すたびにドールの心には仄暗い影が差す。彼の言葉に嘘はない。これは確信だった。隠す必要などあの男にはないのだ。
この世界には特定の条件を満たす人物の夢に出る魔法や長距離を移動する魔法が存在する。調べればすぐに記述のある書物は見つかった。それらを使えばドールが元の世界と交信を試みることは可能だろう——まあ、ご丁寧にもそれらの魔法書は国に認められた一級魔法使いにしか解読できないよう魔法をかけられていたが。魔塔の司書に申し訳無さそうな顔で説明を受けたのだから事実だろう。
それよりも問題なのは、浄罪の塔にはそもそも妖精について詳しい書物が存在しないということ。
——〝私〟に成り代わった〝スフェン〟が、ただ帰りたいと願えばいいだけでしょう?
例えば元の世界へ戻る条件に、スフェンと同じ対価——寿命の半分や、血肉など身を削る必要があるのであれば、ドールは顔色一つ変えることなく差し出すだろう。
残った寿命が数分になったとしても、それでも元の世界へ戻り兄姉に会える希望が残っているのであれば、尚更選ばない理由はない。
故に、問題なのは対価ではなかった。
また、一級魔法使いになる必要があるのなら、どれだけの時間を費やしてでも勝ち取ってみせる。だから、時間が問題というわけでもなかった。
——君たちは妖精に好かれているから、それだけで充分な筈だ。
今も自分たちが見えないルークを笑うようにその頭上で跳ねる妖精たち。彼らはスピネルやスモークと同じだ。ドールだけの味方ではない。味方だとしてもそれが彼女の願いを叶えてくれるものとも限らない。
(好かれているのは、私とスフェンの二人……)
事実、ドールは好ましいと評価されながらも、妖精たちは異世界を拒絶する彼女を異世界に呼び、世界を拒絶したスフェンの願いの方を叶えてしまった。
ドールが寿命の半分でも、血液でも、なんでも対価を渡すと告げても妖精たちはその願いを叶えてはくれなかった。
(つまり、私がスフェンを無理やり連れて帰ろうとした場合、彼らに邪魔される可能性が高い)
人知を超えた存在に愛される、その恐ろしさは想像に容易い。彼らに人の言葉が通じたとして、どうしてその言葉に従ってくれることがあるのだろうか。そこに人間的な思考で立ち入るべきではなく、期待をしてもいけない。
彼らのような存在の愛だのと言った好意は、人間には毒だ。巻き込まれる周囲としても、ありがた迷惑な優しさを押しつけられた本人にも。
(……私が欲しい優しさは、貴方たちからのものじゃない)
ドールは器用にも笑みを貼り付けたまま、内心で溜息を吐き出した。四方を囲う塀は低い筈なのに、飛び越えようとした瞬間に空へと伸び邪魔をしてくるような感覚。酷く鬱陶しい現実に頭痛がして、ドールは目を伏せた。
「お母様……? お茶、美味しくありませんでしたか?」
曲げた人差し指でこめかみを押すドールにルークが不安げな表情を向けてくる。そういえばお茶の席だったと思いだして彼女は首をゆるく横に振る。
「美味しいですよ。ただ少し、頭痛がしたものですから」
「! 今すぐ医者を……」
「よくあることですので、お気になさいませぬよう」
「よく……?」
ドールの言葉を聞いたルークと、側で待機していた侍従の顔がサッと青褪めた。ドールとしてはこの世界に来た精神的負荷で頭痛がするだけなのだが、どうやらルークたちは別の要因を思い浮かべたのだろう。
公爵家の人間は入れ替わりの事情を微塵も知らず、この先も知ることはない。そもそも、数年間引き篭もり生活をして、先日入水自殺を図ったスフェン——という認識なのだ。
(もしかして、ずっとお部屋にいたのも頭痛が……? それか、湖へ落ちた際にどこか……?)
ルークは勘違いを巡らせたが、これは彼が幼いからではなく、公爵や侍従すら勘違いしても仕方がないだろう。何せ、ドールは真実を語るつもりがなく、また、かつてのスフェンは何を言うこともなかった。
会話が成り立たないのであれば憶測と邪推で進めていくしかない。
「いつも、酷いのですか……?」
「ええ、まあ……今日は少し痛みが強いので、そろそろお暇しても構いませんか?」
「も、もちろんです! では、その、お部屋まで……僕が…………」
ドールが席を立つ素振りを見せると、ルークは慌てて立ち上がり、エスコートをするように小さな手を差し出してきた。まろい少年の頬は緊張が走り強張っていながらも林檎のように赤かった。
「では、お言葉に甘えて」
少年の覚悟や矜持を台無しにしてしまわぬよう、ドールはその手を取った。身長差の所為で、エスコートと言うには迷子防止の手繋ぎでしかないのだが、それでも仲のいい家族には見えるだろう。微笑ましく見守る侍従たちの視線が答えであった。
部屋に戻ったドールはメイドを下がらせ、柔らかなベッドに沈み込んだ。
「早く、帰りたい……」
震える声音で呟いた彼女の枕元には、慰めるように妖精が跳ねていた。どの妖精も、心配そうな気配を見せるだけで、彼女を元の世界に返してはくれなかった。