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3話



「——この世界から、逃げたいの……だから、助けて……!」

 

 暗く沈んだ黄緑色の瞳が涙を滲ませて悲哀を漏らした。


「わかった——元気でな」

 

 そして、鮮血の如き赤色が、それを笑って許したのだ。

 それが、始まり。


 


(どういうつもりなんだ師匠は……)


 雲に届くほど高い塔を一瞬で頂上まで移動できる転移魔法陣の上、スモークは隣に立つ人形めいた女をちらりと窺い、眉を寄せた。

 転移魔方陣は塔主しか扱えないのだが、その塔主が許可を出した。何故か禁術を犯した要注意人物の女を「自分のところまで連れて来い」と魔法の伝書鳩を使用してまで。


「嫌悪や憎悪の感情は隠しておいた方がいいわよ」

「……」

「貴方は仲間外れにされてたからなんにも分からないのね、可哀想に」


 ひりついた空気が両者の間に漂う。

 欠片の哀れみも抱いていない声音でスフェンではない女が呟いた。当然スモークはその言い分に怒りを覚えるが、同時に悔しさのような罪悪感が胸中を占めていた。


「黙れ。お前に何が分かる」


 スモークは元々没落した男爵家の子息だった。幼い頃より魔法の才能があった為、王国の魔法学園に入学するも一年後に家が没落。多額の借金を負わされ、学生を続けるどころか貴族として生きていくこともできなくなった時に救ってくれたのが今の義父であり魔法の師であるスピネル・ノヴァ公爵だった。

 スピネル公爵は軍事的活躍で戦果を上げ公爵の地位を得た名誉称号受領者である。彼の仕事は先陣をきって戦場に立つこと。

 また、魔法学園の学園長であり、浄罪の塔の管理者。魔塔主であった。

 ——お父様とお母様が欲しかったのは息子だったの。だから、弟が生まれたら、私にはなんの興味もなかった。

 悲しく呟いた女をスモークは知っている。

 スピネルが魔法を教え、毎日のようにこの塔へ転移魔法で招いていた貴族令嬢——スフェン・ヴォルフェルム公爵夫人のことを。彼女の悲哀を。

 ——せめて伯爵家の為に役に立ちなさいとヴォルフェルム公爵家の後妻になったわ……。

 ——でも、あそこにも私の居場所なんてないの。

 ——私は誰かに愛されたかった……必要だと、言ってほしかった。

 スモークにとってスフェン・ヴォルフェルム公爵夫人とは、妹のようなものだった。年齢はスモークの方が若いが、スフェンの庇護欲をそそる繊細さが憐憫を誘っていた。

 スモークはスフェンが好きだった。

 それは決して恋愛からくる情ではなく、友愛に近いもの。心から彼女の幸福を祈っていた。

 だからこそ、悲しみを帯びた目でこの塔に現れていた彼女を損なった存在——金色の瞳の女を、許せそうになかった。


「自分に都合がいい現実しか見られないところは可愛いわね」


 愛でるように揶揄いを口にしながら欠片の関心も抱いていない声音は、消えたスフェンと同じものである筈なのに、氷のよう。他人事のように誰かの不幸を語るスフェンに成り代わった女が不愉快で、スモークは舌を打った。

 しかし、その怒り自体が抱くことを許されないものだと、スモークは知らなかった。



 

「やぁやぁ、ヴォルフェルム公爵夫人! いや、こう言われるのは嫌いだったね……家出中のお嬢さん、今日は何用かな?」


 スピネルの名に相応しい色の髪と瞳を持つ男は塔の頂上にて、満面の笑みを浮かべて待ち構えていた。スフェンになった女とスモークを迎え入れたスピネルを、女は冷めた瞳で見つめるばかりで口を開こうとはしなかった。

 

「おや、無視は寂しいな? せっかくここまで来たのだから茶でも用意しよう」

「……」

「今日は珈琲じゃなくて紅茶にしたんだ。珈琲と同じで角砂糖三つ、ミルク入りでいいか?」

「……」

「おいおい、せめて好みくらいは教えてくれよ」

「砂糖もミルクも要らないわ」

「仰せのままに」


 頂上は執務室のようだった。壁一面に本が並び、窓の前には一人用の机と椅子のみ。質素な作りだったが、スピネルが杖を振ればあっという間に来客用のソファとテーブルが現れてティーポットにカップ、茶葉と水が宙を踊った。

 

「どうぞ、お座りくださいお嬢様」

「結構よ」

「話し合いとは座ってするものだ、そうだろう?」

 

 スピネルは依然として笑みを崩さず、恭しくソファを示すが、スフェンでない女は頑なに動こうとはしなかった。見兼ねたスピネルが彼女に浮遊魔法をかけて優しくソファへと降ろした。

 テーブルを挟み向かい合うように設置された二つのソファ。一方にはスフェンではない女が、もう一方にはスピネルが座る。スモークは座らずスフェンではない女の斜め後ろに立ち、今にも食い殺さんと言わんばかりの眼差しで監視しているようだった。

 スピネルの余裕ぶった笑みも、スモークの敵意もすべてが気に食わなかったが、彼女の表情は無から動かない。


「話し合うつもりがあったことに驚きだわ」

「そうか? 俺は人と会話するのが好きなんだ、いつでも来てくれていいって前にも言っただろう?」

「それは、貴方の知る〝スフェン〟ではないけれどいいのかしら」


 スフェンになった女は静かに問いかけた。怒りすらも飲み下して平然としている彼女の姿に、スピネルは少しだけ片眉を上げる。


「なんだ、記憶が戻ってたのか」


 スピネルの鮮やかな瞳に興味の色が滲む。


「ふむ、強い魔法耐性があったのか? 本来なら入れ替わったあと一切の記憶が消え、戻らない筈だったんだがなぁ。俺と〝スフェン〟との会話も覚えているのか?」

「は……?」

 

 続けられた言葉に反応したのはスモークだった。彼の暗紅色の瞳が、師であるスピネルと女を交互に映す。

 スフェンではない女が動揺を見せた青年へ口を開く。


「ほらね。『彼女に何をした』と貴方は聞いて、『何かされたのは私』だと答えたでしょう? そして今、貴方の師が自白した通りよ」

「何を、言ってるんだ? 師匠も、なんとか言ってください!」

「なんとかと言っても、すべてお嬢様の言う通りだからなあ」

 

 スモークは目を見開いてスピネルを見つめた。己の師と、見知らぬ魂の女のどちらに信用があるかなど火を見るより明らかだ。

 しかし、信用や信頼を塗り潰せるほどの発言をスピネルはしたのだ。


「この男は〝スフェン〟に他人との魂の入れ替え方を教え、手伝ったのよ。そして見事に成功し、入れ替わりで新たに目覚めた者が騒ぎ出さないよう、〝私〟に忘却の魔法を掛けたのもこの男」

「大正解! さすがの俺も失敗に終わるとは思ってなかったがな。一応魔法使いの中で一番優秀だから魔塔主やってるんだけどな」

「つ、まり、このおん……彼女が何かをしたわけではなく、本当のスフェンが師匠と手を組んで〝禁忌の魔法〟に手を出したと……!?」

「そういうことよ」

「何故っ!?」


 スモークは吠えた。悲哀と混乱に汚れた瞳はぐらりと暗く、絶望に差し掛かっているようだった。


「未だ未知の存在である妖精を召喚し行う〝禁忌の魔法〟は……禁書に書かれているものはすべて、契約者に寿命や血、肉といった何らかの対価が要求される! 彼女に身を削らせたのですか!?」

「彼女がそれを望んだのだから、当然だろう?」

「そんな……」

 

 スピネルは〝スフェン〟に優しかった。とても懇意にしていたという記憶が今のスフェンの中にもある。それを間近で見ていた弟子であり義理の息子であるスモークの疑問はもっともだろう。


「彼女は己の寿命半分を差し出して、誰も自分を知らない世界へ行くことを願った。だから方法を伝授し、彼女が願いを叶えただけ」

 

 それだけだよ、とスピネルが笑う。

 貼り付けられたような笑みのまま、言い訳もしなかったが、それすらも今のスフェンでない女にはどうでもいいことだった。


「私たちの魂を、元に戻す方法を知っている? 本には書かれていなかったの」


 淡々と、己の聞きたいことだけを尋ねるスフェンになった女の背筋はピンと伸びていた。不思議と威厳に近いものすらあった。確固たる信念、曲がらぬ自分を持っているのだろう。

 

「ああ、知っているとも。簡単だ、入れ替えられた二人が共に〝戻りたい〟や〝帰りたい〟という本心から出た感情を吐露すればいい。強く願えばいい。君たちは妖精に好かれているから、それだけで充分な筈だ」

「私が元いた世界や家族に干渉できる?」

「〝スフェン〟が一度繋げているから、条件次第では可能だろうな。例えば血縁者と白昼夢で会話するとか」


 できるか否かには答えず、可能か不可能かを返すスピネルに女は目を細めた。随分と意地が悪く、難しい方法なのだろう。

 

「ふうん、ならいいわ」

「おや」


 あっさりと引いたスフェンでない女に驚いたのはスモークだけでなくスピネルも同様だった。


「もしかして、お嬢様は現状が気に入ってるのか?」

「入れ替わりのことを言っているのなら黙りなさい。気に入っているわけないでしょう」

「しかし、随分と簡単に引くじゃないか」

「だって単純なことでしょう?」


 スフェンになった女はくつりと皮肉げに喉を鳴らした。直後、正しく花が綻ぶような笑みを浮かべて彼女は言った。


「〝私〟に成り代わった〝スフェン〟が、ただ帰りたいと願えばいいだけじゃない」


 さも当然だと言わんばかりの女に、何故かスモークは焦った。飲んでいた紅茶のカップが音を立ててソーサーに戻される。

 見ていたスモークが怪訝な表情で女へ声をかけた。


「本当のスフェンは命を懸けてまで世界を渡ったんだぞ。それだけこの世界に絶望してたってことだ。ただでさえ頑固だったあの意思が、そう簡単に変わるものか」

「それは俺も同意見だな。この世界は地獄だと言って消えた女がどうしてまた地獄に戻りたがる? 縋りついて同情を誘って責め立てて、入れ替わりをやめろと懇願でもするのか?」


 スモークとスピネルは疲弊しきっていた元のスフェンを知っているからこそ、あり得ないと肩を竦める。強固な拒絶、頑固な悲哀、それを砕くのは難しいぞと上から目線で今のスフェンに諭している。

 ——どいつもこいつも、本当に不愉快だわ。

 けれど、問題はそこではない。

 

「知ってる。〝スフェン〟は今までずっと耐えてきたのでしょう? そして、耐え切れなく鳴って、実の両親や弟、知人、嫁いだ公爵家の人間から今回、初めて逃げ出した」

「ああ……そうだ」

「我慢して成長して、初めて逃げた奴は、また逃げるわよ」

 

 ——楽をする術を知ってしまったんだもの。

 くすくすと子供のように笑う黄金色の瞳は侮蔑と慈しみを器用に両立させて溶けている。ありとあらゆる相悪を塗り潰して、美しく笑える女がそこに居た。

 女は、抑圧されて過ごしてきた者が開放された後の末路を知っている。


「なら今度は、どこの地獄よりも〝私〟が怖いと思わせればいいだけじゃない」

 

 スモークはヒュッと呼吸を詰めた。

 本当のスフェンの覚悟を知らないからこそ言える言葉であり、知らないからこそ客観的に下せる分析にスピネルは舌を巻いた。

 そして、逃げていったスフェンに同情する。

 

「……入れ替わる相手を間違えたな」


 スピネルの小さく呟いた声は部屋の床に転がり消えた。

 元の世界に戻る手段が例えどんなに難しかろうと、できないことであろうと、彼女は諦めないのだろう。可能にする、それだけの為に動けるほど、金色の瞳は怒っている。

 要件は済んだと言ってスフェンでない女は執務室を出ていった。階を下りながら浄罪の塔を見て回る。これから彼女は魔法について調べなくてはならない。

 

「……悪かった」

 

 読みたい本、必要な本を幾つか持って、本棚に目を滑らせていると、隣から落ち込んだ声が落とされた。ちらりと横を見れば顔を伏せたスモークがいて、顔色が悪い。心底反省しているようだった。


「なんの謝罪?」

「……師匠たちの行いを知らずに、あんたを勝手に責めたことだ」

「仲間外れにされてた貴方を責めるほど狭量じゃないわ」

「…………悪い」


 スモークは暗紅色の瞳に影を落としたまま顔を上げようとしない。一方でスフェンになった女もそれ以上責めることや慰めることもなく手元の本を増やしていく。

 一瞥もくれない女にスモークはローブの中から肩幅ほどの杖を出し、軽量と浮遊の魔法を同時に放った。手の中の重量がなくなったことにスフェンでない女は礼を返さない。これはスモークの償いであり詫びなのだから当然だった。

 

「この軽量化魔法は対象に触れれば解け、もう一度浮かせる時は〝浮け〟と言えばいい。この塔の中では有効だ」

「どうして私についてくるの。監視のつもり?」

「そういうのじゃない……ただ、本当に違う人間なんだと思って……」

「いない人間と重ねられても困るのよ」

「それは……」

 

 スフェンでない女の一言一言はとても鋭く痛かった。

 しかし、彼女は被害者。それも本来であれば反抗する術を全く持たない無力な者。〝スフェン〟は人より多くの魔力を持ち魔法を扱えた。このスモークがたった今発動した魔法も彼女は覚えていた。だが、今目の前にいる入れ替えられた女の様子から見て、どうやったら魔法が使えるのかも分かっていない。

 勝ち気な態度は心を折らないための防衛本能。現状はどうにか堪えているものの、いつ絶望したとて不思議ではない。


(いや、もしかしたら、もう既に……)


 スモークの心は暗くなる一方だった。本当のスフェンを思い項垂れる。

 ある日スピネルに紹介された不遇の公爵夫人。魔法の才がありながら活躍の場を奪われ、愛に飢えた女にスピネルとスモークは様々な知識を与えてきた。

 ——いつか、少しでもこの可哀想な、幼子のような女性が幸せになればいい。

 そう思っていた。願っていた。その思いが被害者を生み、加害者となった彼女に再度地獄を見せようとしているなどと、信じたくなかった。


「あんたはスフェンを……」

「文脈で分かるけれど、同じ名前はいい加減不愉快ね……」


 金色の瞳をした少女が呟き、数秒何かを思案したかと思うともう一度形のいい唇が音を紡いだ。


「私のことは〝ドール〟と呼んで」

「……人形?」

「ええ。スフェンの遊び相手よ、皮肉がきいているでしょう?」

 

 スフェンになった女——改め、ドールが、定められたように美しいだけの笑みを浮かべて見せる。スモークは僅かに体を硬直させた。

 本当の名前とはきっと似ても似つかぬ名前なのだろう。愛着も何もない、ただスフェンと同じ名前への嫌悪のみで新たにつけられた記号。今後暫く、少女は誰からも本当の名前を呼ばれることなくこの世界で生きていかなくてはならない。その事実がスモークの心を蝕んだ。

 

「……スフェンを……その体の持ち主を、憎んでいるか?」

「当然でしょう」


 きっぱりと返された言葉にスモークは資格がないと知りつつ顔を歪めた。資格も権利も、思うことさえ許されない共犯者が一等哀れだった。


「私から家族を、私の居場所を奪った存在を、どうして憎まずにいられるの?」

 

 ドールは誰一人許すつもりはないようで、けれどそれも当然のこと。無数の本に圧迫される細い通路で、黄金色の瞳がスモークの暗紅色をまっすぐ見つめて、逃さない。


「貴方たちの大好きなスフェンは、とっても可哀想な女だったから、私への仕打ちを許せとでも言うの?」

「そうじゃない……例えどんな理由であれ、彼女の行為は許されないことだ」

「なら、可哀想なスフェンを止められなかった、支えになれなかったことを後悔してるのね」

「……そう、かもしれない。もっと早く俺たちが手を差し伸べてやれば、こんなことには——」

「無駄よ」


 言い切ったドールを見下ろして、スモークは瞠目する。ふつりと腹の底が煮えたのは、ドールがあまりにも苛烈な意思を持っているからだった。持つ者側の無遠慮にも見えるその言動が、持たざる者側の彼には癪なのだろう。


「あんたは強いから、そう言えるんだ」

「なら、強くなろうとしない弱者は永遠に黙っていればいい。誰かが事情を聞いてくれるのを待つことしかできないのなら、そこまで重要な言葉じゃないのよ」

「だから、あんたみたいな高圧的な人間の態度が、スフェンのようなやつを萎縮させるんだろ」

「はあ……頭痛い。どうしてさっき、私が無駄って言ったのか分かる?」

「知るか」


 荒ぶった口調のスモークは警戒する猫のように毛を逆立たせてドールを睨んでいた。ドールはこめかみの辺りを数度押すと、明らかな侮蔑の目でスモークを見上げる。


「私には入れ替わる前の〝この体の記憶〟がある。彼女……〝スフェン〟の幼少期の愉しい思い出から辛い思い出まで、すべてね」

「だから?」


 スモークは苛立っていた。いくら被害者とはいえ、本当のスフェンの不幸にどうしようもなかったのだと理解せず、悲しみを許容しない黄金色の双眸が憎らしかったのだ。


「だから、知っているのよ、私だけは」


 ドールは己の手の平を胸に当てた。そうしてゆっくりと話し始める。


「——貴方たちが優しくする度に彼女の心は依存していった。手を差し伸べられていると知りながらも、嫌われるのが怖くて逃げた。禁忌を犯す自分を止めてくれると甘えていた。貴方たちがこの地獄から助けてくれると期待していた。自ら手を伸ばさずとも許されると信じていた。変わらなくてもいいのだと、ありのままの自分でもいいのだと安堵し、勘違いしていたこと………………全部、知ってるわ」

 

 金色の瞳は、絶対に屈しない。冷静に怒りを飲み下し、その上で真実のみを伝えようと真摯であった。

 どれほど悲惨な運命でも、憎悪を抱いていたとしても、ドールだけはスフェンから目を逸らさない。同情から得られる関心は依存か執着、愛玩に過ぎないのだ。

 

「依存が悪いこととは言わない。それこそ他人の人生だもの、勝手にすればいい。けれど彼女は既に〝手助けをしてもらっている〟と理解しながら、我が身可愛さに拒んだ。知らないフリをしていた。貴方たちが勝手に助けてくれるのを待っていた」

「やめろ、」

「可哀想にねって言われるのが好きだった。その瞬間だけ、相手は自分を見てくれている……まるで看病されたいから風邪を引きたがる子供みたいに。それが、〝スフェン〟の本当の気持ち」

「やめろよ……!」

「それでもよかったのに」

「——は?」


 突如柔らかみを帯びたドールの声にスモークは困惑する。先程までの鋭利な刃が消え失せて、嘘のように空気が弛緩した。

 まるで、見知らぬ迷子の子供を憂うような穏やかさが、恐ろしいと思った。


「私を巻き込みさえしなければ、なんでもよかったの」

 

 結局のところ、誰も彼もが自分勝手なのだとドールは笑う。

 周囲を浮遊する本の背を撫で、無重力下の紙束がパラリぱらりと翻っていく様は、まるで審判者のよう。


「私は私の幸せの為なら平気で他人を傷付けられる。だって、幸せになりたいんだもの。その所為で引き起こされた悲劇があったとしても、後悔や、自分以外の意思はない」

「それは……」

「だから、同じだけの覚悟が無いやつに私の幸福を邪魔されるなんて、まっぴらごめんなの」


 あまりにも鮮烈で、強烈で、苛烈な光だ。いっそ暴力的な強い感情を宿すドールの瞳は、太陽の贈り物とされる宝石と同じ色を孕んで輝いている。


(——〝ヘリオドール〟……いや、〝ゴールデンベリル〟だったのか……)

 

 なんて皮肉だろう。奇しくもドールの瞳に心を奪われていたスモークは本日幾度目かの泣きたい気持ちになった。

 ドールとは決して人形の意味ではなく、黄色に輝く鉱石——ヘリオドールを指していたのだ。しかし彼女の双眸は濃く、深みで名を変えるゴールデンベリルと同じ光に満ちている。

 それは、名に負けていると落ち込んでいたスフェンとは比べ物にならない鮮やかさだった。


「私のせいで、地獄に戻されたのだと。失意のまま強制送還される可哀想なスフェンに教えてあげたらいいわ。そうして弱った彼女を慰めて、貴方たちも罪悪感を緩和して、細々と息をしていればいいのよ」

 

 ——だから、私に関わらないで。

 それはスフェンの肉体を与えられた女からの明確な拒絶。そして、人形が元の玩具箱を求めて動き出す始まりでもあった。



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