2話
馬車に揺られながら、スフェンになった女は僅かな疲労感と苛立ちを抱えた眼差しで異世界の町並みを眺めていた。
〝チェンジリング〟という魔法を使い、異世界にいる人間同士の魂を入れ替えた張本人——本物のスフェン。
彼女の目的が何かは不明だが、スフェンになった女は本来の居場所へ帰る方法を探すため、魔塔へ向かっていた。
(まずは魔法と妖精について調べないといけないわ)
魔塔——正式には浄罪の塔。
魔法使いが集まる建物のため魔塔と呼ばれるようになったという。この国の魔法使いは皆、この塔へ登録が必要であり、王城にいる者や街で働いている者たちもここに所属している。
塔の中は魔法研究に励む者や育成の場となっており、時に魔法使いが必要な依頼を管理、派遣するような場所でもある。
また、国一番の図書館でもあり、歴史書から魔法書まで保管されていた。
(公爵家の書庫に魔法書はないみたいだし、私が辿れる〝スフェン〟の記憶も虫食いでよく分からない……本当、厄介ね)
魔法がある世界だが、この世界で魔法使いの職はあまり人気ではない。
というのも、貴族や庶民に関わらず魔力は持っているが、〝魔石〟を加工した魔道具が溢れており、こちらは少しの魔力で誰でも扱えるため、わざわざ自身の魔力を大量に消費し、疲れてまで何かをしたいと考える者が少ないからだろう。
〝魔石〟は家畜や野生の動物とは異なる異形の怪物——魔物の核だ。それは強く膨大なエネルギーを内包し、少しの衝撃で奇跡が起きる。稀に地層からも発掘されるが、討伐された魔物が土砂に飲まれたのだろう。
かろうじて読み取れた本物のスフェンの記憶によると、昔王国にいた優秀な魔法使いが、魔法を使わなくても魔道具を作れる技術を編み出した。この国に魔道具師が多いのもその影響らしい。
「お、奥様、もうじき到着いたします……!」
「そう、ありがとう」
魔塔までおよそ一時間。連れてきてくれた御者は臆病そうな男だったが、急な願いを聞き入れてくれたあたり公爵家のメイドたちよりは優秀だった。
スフェンになった女が外出を決めた際、メイドたちはあまり良い顔をしなかった。
使用人たちは元々〝スフェン〟に対しては無関心で、ついに気が触れ入水自殺を図った女夫人へようやく多少の哀れみと罪悪感を持ったくらい。
彼、彼女たちも根は真面目だ。尊敬する主人に忠誠を誓い、忠義を尽くす。
だからこそ、後妻ながらお飾りでしかない女の扱いに困ったのだろう。前妻が誰からも愛される素晴らしい女性だったならば尚更。
「お湯を沸かしてください。出掛けるから夕食は要りません」
「……お湯浴みについてはかしこまりました。ですが、お夕食については難しいかと。公爵様より外出許可が下りていませんので……」
「私の行動に旦那様の許可は要りませんよ。確か、愛情を求めなければ他は好きにしても構わないと仰っていたので——もしかして、飾りの公爵夫人である私の命は聞く必要がないのでしょうか?」
「そ、そうではありませんが、奥様は一度も外出をされたことがありませんので、馬車の用意も……」
「なら、私が体を温めて身支度をしている間に用意すればいいだけでしょう? 移動できればどんなものでも構いません。それでも難しいと言うなら旦那様に伝えて頂戴。『お飾り公爵夫人が徒歩で外出するそうです』と」
「それは……」
「それとも、なぁに?」
スフェンになった女はにこにこと笑みを浮かべながらメイドに近付き、グッと顔を覗き込んだ。メイドは、初めて見る〝スフェン〟の笑顔に驚愕し、底知れぬ違和感と背筋を這う僅かな恐怖に唇を戦慄かせた。
「私を外に出さないのは旦那様の意思なのかと、直接聞きに行っても構わないのよ」
スフェンになった女の言葉にメイドは肩を跳ねさせた。
公爵のヴェントは〝スフェン〟に対し無関心で、厭悪すらしていたが、決して使用人たちに彼女を無視しろなどとは命じていない。忠誠心溢れる彼女からすれば、主人から下されたわけでもない命令を我が物顔で行うことの恐ろしさを漸く理解したのだろう。
青褪めた顔で、震える声音で「す、すぐに準備をさせます」と頭を下げたメイドを見下ろすスフェンになった女の表情は、ひたすらに無感情だった。
(拒絶の姿勢を押し通せないくらいなら最初からしなければいいのに)
そもそも〝スフェン〟は公爵家に嫁いでも問題のない伯爵家の令嬢であり、お飾りとはいえ公爵夫人だ。
例え夜の義務や愛がなかろうと、地位はある。寧ろ愛を求めぬことを条件に地位を得たのだ。前のスフェンは周囲の目が恐ろしく何も使えなかったのだろうが、充分な金銭に宝石だって与えられている恵まれた身。それらを使わない方が理解に苦しむというもの。
(奥様に、一体何があったの……?)
入浴の支度をしながら、メイドは混乱していた。
(まるで以前とは別人みたい……)
今までは使用人にすら怯えていた後妻に、今度は自分たちが怯えている。あんなに無邪気な話し方をする人だったろうか。あんなに皮肉めいた言葉を吐く人だったろうか。
無関心な金色の目が、酷く恐ろしくて堪らなかった。
(……金色の目?)
ふと、メイドの一人が瞠目する。
(奥様の目は、金色だったかしら……?)
五年間世話をしていた夫人の表情、目の色、言葉遣い。そのどれもが記憶に薄いことを自覚したメイドの背を冷や汗が伝う。無関心だった対象のことなど誰もまともに覚えていないだろう。
結果、スフェンになった女を、公爵家は〝スフェン〟として再認知したのだ。
「くだらない」
邸宅前に用意された馬車へ乗り込み、街へ向かわせる。屋敷に残された侍従たちは、それはもう酷い顔で、事情を知らない者たちにはすぐさま情報が知れ渡った。
——お飾り夫人が別人のようになった。
——自殺を図ってから、人が変わられたようだ。
それらの噂は当然、使用人の間には留まらず広がっていく。
「…………そうか」
「あの人が、外に……?」
公爵のヴェントと息子ルークの耳に届いたのはその日の内だった。
「あちらが魔塔——浄罪の塔です!」
王城とは正反対の位置に存在する石造りの建物は円柱状で、雲を穿くほどに高い。
前のスフェンの記憶にも歴史の一環で出てきたが、実物は予想よりも高く、少しだけ目を見張る。魔法使い集まる場所なのに浄罪とつくのかは不明だが、御者が説明を始めてくれる。
「昔は大罪人を収容する監獄でしたが、いつからか建物自体に価値があるとされ、また中は物質の時間を止める魔法が掛かっているとかで経年劣化の激しい古書や国宝の一部も置かれているそうです」
「意外と出入りが少ないのね」
「こ、国宝や禁書がある上階は王族と王族に認められた方のみで、それより階下であれば公・侯・伯の爵位の方はいつでも、子爵・男爵様、魔法使いの方は紹介があれば入れる筈です……! 平民で入れるのは、魔道具師か魔法使い見習いくらいですね」
「ふぅん……」
期待半分、絶望半分。期待しすぎてはなんの収穫もなかった時に辛くなるからと、既に絶望しきっていればどんな結果でもダメージは少なくて済むからと卑屈だった。
すんなりと入れた塔を中から見上げても逸る心はなかった。貴族の殆どが出入り自由とはいえ、流行りを追いかける彼らが過去を集めた場所に興味などある筈がない。
ふと、スフェンになった女の脳裏を過ぎったのは美しい金色の髪の女性だった。
(こんなに沢山の本……姉さんが喜びそう)
彼女の視線は延々続く書架とその前に立ち尽くす者、下の方に座り込む者や学習コーナーのような場所で筆を走らせる者たち。
彼らなど知らぬように、スフェンの偽物は恋しい一人を映していた。
また、どの魔法使いの周囲にもふよふよと本が浮き、勝手にページが捲れ、まるでそういう鳥かのように動いている。それらを見て浮かぶのはもう一人。
(兄さんなら、目をキラキラさせて飛ぶ本に近付くだろうな——)
ようやくスフェンになった女の口元には穏やかな笑みが浮かんだ。別の世界に来て初めての、幸福に浸る笑みだった。
(そうだ、姉さんは本が好きだった……兄さんは、珍しいものに興味が尽きない人だった……)
些細なきっかけで鮮明になった元の世界の記憶。
——兄は美しい人だった。黒髪で、深く輝く青い目の人。好奇心旺盛、常に溌剌とした笑みを浮かべ、好きなものには一等愛情深く接することができた。
家の長子としても誇り高い人だった。
——姉も美しい人だった。長く柔らかな金髪で、春の若芽色の目をした人。冷静沈着、常に穏やかな笑みを浮かべながら、愛情を惜しまず、嫌いなものには徹底した無関心を穿ける強さがあった。
兄を支えながら家族を一番に思う人だった。
(じゃあ、私は——……?)
髪は、長かったように思う。姉とお揃いの髪型にしたいのだと伸ばしたような気がするのだが、色はどうだったかと考えて、女は硬直する。
色は、そう、兄と同じ黒色だった筈。
なら、目の色はと考えて、スフェンではない女は僅かに唇を戦慄かせた。
脳裏で硝子が罅割れていくような音が聞こえ始める。それは何かが壊れていく音で、偽物と本物を決する証明だった。
——目の色が気に入らない?
——……うん。
かつて兄なる人物が青い目を丸めて問いかけたのだ。そして妹だった少女は俯きながら肯定した。
——どうしてですか? こんなに綺麗な色をしているのに。
姉の鮮やかな若芽色が少女を映していた。それがあまりにも美しくて、少女は泣きたい気持ちになったのだ。
——兄さんの青とも、姉さんの緑とも違うから……。
そう言って顔を上げなくなった少女に、兄と姉はなんと言ってくれたのか。どうしても思い出せない。
(いや……っ!)
忘れたくないのに、忘れていく。崩れていく。呑まれていくような感覚にスフェンではない女は、少女だった女は目眩を起こして壁に寄りかかった。
呼吸が浅くなって視界が霞む。暑くなどないのに冷や汗が背筋を伝う。まともに立つことも難しい状態だというのに彼女は少しの声も上げなかった。
ただ身を守るように胸元を押さえ必死に呼吸を整えようと目を閉じたのは、助けなどないと理解していたからだ。独り耐え忍ぶしかないことを身に沁みていた。
「おい、大丈夫か?」
「、」
しかし、突如降って落ちた誰かの声にスフェンでない女はビクリと肩を跳ねさせて、後退するように身を引いた。
後ろは壁。これ以上逃げることもできず、斜めに体をズラすと床に手をつき、しかも体重を支えることができず伏せる形になってしまう。
「落ち着け、呼吸を深くしろ」
「っ、ぅ……、」
上半身を支えるように起こしてくれたのは一人の青年だった。黒いローブ、学園の校章で魔法学園の関係者だと分かる。
容姿だけ見れば成人しているようなので、恐らく卒業生か教師。具合の悪そうな令嬢を放置したとなれば外聞が悪いので来てくれたのだろう。
けれどスフェンの体は依然として落ち着いてはくれなかった。心臓の音がうるさい。頭が痛い。
そうして、いつの間にか青年に握られていた手から黄金色の粒子が集まって、光を放つ。
(魔法……?)
青年が治癒か何かの魔法を使用したのだろう。柔らかで温かい、春の日だまりにいるような心地が、乱れた心音を戻してくれるようだった。
数分、青年はそのまま魔法を掛け続け、その頃にはようやくスフェンでない女の呼吸と意識は元に戻っていた。
「気分はどうだ? ——〝スフェン〟」
男が名を呼んだ瞬間、靄がかかっていたような記憶が鮮明になり、女は気付く。
「………………ああ、なるほどね」
調子を取り戻したスフェンでない女は背筋をピンと伸ばし、眼の前の男を嘲るように見上げた。
(この男を、〝私〟は知ってる)
青年は灰色の髪を持ち、暗紅色の瞳は鋭く険悪で、人相も悪いが顔立ちは整っている。
知っていると宣いながら、スフェンでない女はこの青年と会ったことはない。
(そうだった、ここにも、何度も来ていた……〝喚ばれて〟いた)
つまり、スフェンになった女ではない、入れ替わる前の〝スフェン〟の記憶が、青年を知っているのだ。
「あいにくだけど、もう貴方の知ってるスフェン・ヴォルフェルム公爵夫人はいないわよ」
「何……?」
訝しげな視線を向けていた青年はスフェンの瞳を見てハッと息を詰めた。そして怒りの表情を浮かべ、スフェンになった女の肩を棚へと押し付けた。
肉体と魂が異なることに気付いたのだろう。
「彼女に何をした!?」
「何かされたのは私の方よ!」
青年の責めるような声に、スフェンではない女は真っ向から歯向かった。謂われのない罪を背負ってやる気はなかった。押し付けられた肩が痛い。掴まれた部分が燃えるように熱い。
自身をスフェンではないと告げる女の声は憤怒に震えながら、悲しいまでの切実さを帯びて、青年の二の句を奪い去る。
「連れて行きなさい、〝魔法使い〟スモーク・ノヴァ。貴方の父であり師匠である男の元へ」
——〝スフェン〟に会いたいのなら。
続いた言葉に、青年は両目を見開いていた。