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11話



 スモークの意識が浮上する。


「此処は……まだ、記憶の中か……?」


 周囲に視線を向けると先程までの穏やかな空間ではなかった。

 古くはないが空気が悪く、どこか悪寒を呼ぶ、暗く狭い部屋。カーテンは閉め切られ外は見えないが、隙間から覗く光は明るい。悪い視界の端には二人分のテーブルと椅子。

 卓上には何も置かれていない。水回りらしき場所はあるものの食器の類はない。

 壁には時計が一つだけ。


(なんだこの部屋……)


 人が住む空間というにはあまりにも寂しい。人が住んでいる気配がしない場所だった。

 時計とカーテン、テーブルと椅子以外、何もない。

 雨風凌げれば充分生活できるかもしれないが、〝彼女〟の住んでいた家を見た後ではあまりにも味気ない。

 暖かさの欠片もなく、息が詰まる心地がした。

 部屋には扉が二つ。

 一つは扉の一部がくり抜かれ、嵌まっている硝子から見えた奥には廊下に続いている。

 なんとなしにもう一つの扉のドアノブにスモークは手をかける。

 何故かは説明できないが、そこに〝彼女〟が居るのだと理解していた。

 ドアノブを下げながら、冷たい金属の感触に気が滅入った。ゆっくりと手前に引く。

 隙間からは対の壁しか見えなかった。

 それも、酷く暗い。

 今いる部屋よりもずっと暗く、闇があるようだったが、左の端に橙色の光が見えた。

 そこでスモークは、〝彼女〟が暗い部屋の、洋燈の灯りの下にいるのだと思った。

 スモークは安堵した。

 何か理由があって、一人暗い部屋で休んでいるか、勉強でもしているのだろうと思いたかったのかもしれない。

 一歩、片足を踏み入れる。

 一歩、両足を踏み入れる。

 パタン、扉が閉じる。

 体ごと左を見た。そして、絶句する。


「あ……え……?」


 ——そこに、〝彼女〟は居た。

 温かみのある橙色の洋燈の横、簡素な椅子に座る小さな少女が、虚空を見つめていた。

 スモークは慌てて少女に駆け寄り体に触れた。

 すり抜けはしなかったが、触れられている感覚と、眼の前に人がいることが認識できていないのだろう。

 少女は無反応だったが、記憶なのだから当然だ。

 それでもスモークは確かめずにはいられなかった。何故ならば、あまりに少女が〝人形〟であったから。

 胸元を見下ろし、顔前に手を翳し、ようやく少女が息をしていると分かった。

 スモークは、少女が動かぬものにしか見えなかった。

 〝人形〟——物言わぬ、死体に。


(生きてる、けど……心が、魂がない……?)


 少女の目は虚ろだった。

 今や見慣れた〝彼女〟の輝く黄金色の瞳は、何処にもない。

 正面の少し下を光のない瞳で見つめるばかり。体も随分と小さい。

 見たところ四、五歳。手足は栄養不足から細く、白い。これではまともに立つこともできないだろう。

 少女は硬い椅子の上で身じろぎもせず、行儀の良いお人形のように両手を膝上に乗せて座り続けている。

 部屋には、小窓もなかった。

 正確には細長い縦型の窓があるようだったが、木の板が雑に釘で打ち付けられており開閉は不可能。細い光すらも入らないようにされている。

 手前の部屋より光のない、暗闇。深淵。

 泣くことも喚くこともなく、少女はそこに居た。

 鍵のない扉から出ることもせず、座り続けていた。


(幽閉、されてんのか……? 一体誰が、なんの目的で……)


 咄嗟に思い浮かべた犯人は美しい兄姉の姿だったが、あまりにも暖かい空気と、姿を見ただけで涙を零したドールを思い出し咄嗟に首を振る。

 

「!」


 扉の奥の奥。廊下へ続く扉の方から音が聞こえた。すぐに足音が聞こえ、迷いなくこちらへ来る気配に家主だと分かった。

 これは夢だ。

 記憶の世界だ。

 既に起こった出来事だと分かっていても、スモークは杖を構え少女の前に立った。


「——いい子にしていた?」


 逆光で、一瞬顔が真っ黒に見えた。

 数秒で光に慣れ目視できた姿は、見知らぬ女性。少女の兄でも姉でもないが、少女に似た面影の女性だった。

 女性は無表情で、きつい印象があった。

 衣服は整っていて汚れもない。

 迷いない足取りで、スモークなど見えていない目で少女の前に立ち、数秒見つめていた。


(母親、なのか……?)

 

 母と娘の対面というにはあまりにも温度がない。

 娘は一言も喋らず、視線も母親を見ていない。母親は娘を見ていたが、それは視界に映しているだけ、という表現が正しいように思えた。

 寧ろ、少女が動いていないか監視している目にも見えた。

 暫く見つめて満足したのか、母親は徐ろに少女を抱き上げた。少女は抵抗しなかった。


「おい……!」


 スモークの声など聞こえない。

 沸々と怒りが湧き、さっさと部屋を出ていく背を追いかけた。


「ご飯の前にトイレとお風呂に行きましょうね」


 少女は喋らない。

 廊下の片側にある扉に少女と入り、便座に座らせる。下着を下ろそうとする光景にスモークは顔を背けた。

 羞恥心ではなく、言いしれぬ不快感から目を閉じ、耳を塞いで数十秒。用を済ませた少女と母親は手を洗い、風呂場に移動していく。

 暫くは水音が小さく響いていて、止んだかと思えば風を出す道具で髪を乾かしているようだった。髪を乾かし終えると、バスローブ姿の少女はリビングの椅子に座らされた。


「ご飯にしましょう」

 

 少女の前にはテーブルがある。テーブルの上には何も無い。

 母親は床に置いていた鞄から手のひらサイズの袋を取り出した。

 そして、部屋の隅にひっそりと横たわっていた鉄の棒——例えるなら支えの杖か、縦長のハンガーラックのようなもの——を起こし、袋を取り付けた。

 袋の端には長く細い管がついており、その先端には針が見えた。

 スモークにはそれが何か分からなかった。

 ただ、袖を捲られた少女の腕に無数の赤い痕があることから、あの針を刺すのだろうと理解できた。

 止めるように叫んでも、手を掴んでも、母親は止まらない。

 そうしてあっさりと針は少女の腕に刺された。袋の中の液体を流し込んでいるのだろう。


(食事……? あの液体が?)


 スモークが知る知識の中にこのような食事方法は存在しない。

 ドールからもそんな話を聞いたことはない。唯一近しいと思い浮かんだのは、毒物の解毒処置。液状の解毒薬を血管を通して体内に流し込むことで毒の効果を早く薄める外国の技術だ。

 解毒薬ではなく、食事の栄養素を液体として流し込んでいるのだとしたら、母親の言葉は偽りではないだろう。

 だが、少女は毒に参っている様子も病気に臥せっている様子も見られない。


(理由もなく、ただ子供の食事を液体にしているのだとしたら……?)

 

 ゾッとした恐怖がスモークを襲う。

 もし彼の想像が間違っていないとしたら、栄養が足りない子供の体は充分に成長せず、一人で歩くことも困難になるのではない。

 血の気が引いていく。

 ぽたり、ぽたりと落ちていく液体。時計の音。会話のない食卓。

 少女は、針が刺されても眉一つ動かさなかった。悲鳴の少しも上げなかった。

 それからどれほど時間が過ぎたのか。

 袋の中の液体が余すことなく少女の体に取り込まれたことで、永遠にも思える時間が終わった。


「さぁ、戻りましょうね」


 母親は娘の腕から針を外すと、もう一つの鞄から服を取り出した。

 フリルが多くあしらわれたワンピースは貴族令嬢が着るドレスを少しだけ簡素にしたものにも、人形の衣装にも見えた。恐らく後者だろう。

 物言わぬ娘の着ているバスローブを脱がせ、新しい服に袖を通させると、もう一度小さな体を抱き上げ隣の部屋へ運んでいった。

 呆然とした表情でもスモークはその後をついて行くことしかできず唇を噛んだ。

 少女は元いた椅子へ座らされ、母親は娘の頭を撫でることもなくそのまま部屋を出ていった。


「は?」


 スモークの喉は無意識の内に声を発していた。

 母親は部屋へ戻ることなく、廊下を過ぎ玄関から外へ出て行ったようだった。

 スモークは慌てて部屋を出てカーテンを開け放つ。透明度の高い窓硝子の向こうは見慣れぬ景色だったが、バルコニーに似た外側へせり出した空間に出て下を見る。

 大人の顔が辛うじて出せる手すり壁の向こう、人が歩いている地上を見下ろすと建物から母親が出て行くのが見えた。

 そうして振り返ることもなく歩いていき、背中は消えた。

 ——あれが、母親なんだろうか?

 貴族や平民に関わらず親の手が必要な年頃の子供を、まるで人形遊びのように扱い、帰っていく存在が母親だという。

 娘の名前を一度も呼ばず、液状の食事を与えるのが母親だと、スモークは知らなかった。

 少なくとも彼の母親は頭の回転が遅く打算と欲に満ちてはいたが、自分の子供にも金をかけられる人間だった。

 少女の母親——母親と呼ぶにも悍ましい存在は、何かが可笑しかった。到底子供を育てられる人間には思えなかった。


(……よく生きてたな)


 記憶の世界の時計が回る。

 それから景色が巡り続け、母親は三日に一度やってきた。その時だけ少女に排泄を許し、風呂に入れ、服を替え、食事を与えて帰っていく。

 命だけは繋ぎ止められる範囲で放置し、ごっこ遊びを続けていたようだ。

 数ヶ月ほどの映像が過ぎ、窓の外は冬になった。

 雪は見えないが部屋は寒く、服だけでは到底耐えきれそうにない冷気にすら、少女は震えもしなかった。


「……寒くないか?」


 少女は答えない。


「……寒いよな。暖炉もないんだし、当然だ」


 少女は答えないが、スモークは声をかけ続けた。


「せめて洋燈を手に持たねぇか? 無いよりはマシだろ」


 スモークは自身が着ていたローブを少女の肩に預けていたが、夢の世界では意味をなさないだろう。

 洋燈だけが、橙色の光で少女を照らしている。


「なぁ」


 スモークは小さな手に触れた。

 冷たかった。なのに氷のように冷え切って、震えもしない指が悲しかった。


「逃げてもいいんだぞ」


 逃げてくれ、とスモークは涙を零した。

 夢が終わる気配はない。

 もうじき母親がやってくる。決まった時間に現れる女の顔に向けて魔法を放とうとしても無意味だった。

 これが、少女の身に実際に起こったことだという事実がスモークを震撼させた。

 ——どうか、逃げてくれ。

 ——お前は何をしたんだ。

 ——お前は、罪人だったのか?

 尋ねても返らない答えを待っていた。


「…………起きてくれ、ドール」

 

 みっともなく溢れていく青年の涙が、少女の手の甲に落ち、洋燈の灯りで煌めいた。


「——、」


 少女の指が、ぴくりと跳ねる。

 初めて見せる反応にスモークは勢いよく顔を上げると、光のない双眸と視線が交わった。交わったと思い込みたかっただけかもしれない。

 しかし、少女は確かに反応を示した。

 夢の世界、記憶の核となっている〝彼女〟——ドールの意識が戻りつつあるのだろう。

 スモークはもう一度、懇願した。


「起きろ……お前は、元の世界に帰るんだろ」


 青年の声に背を押されるように、少女はゆっくりと立ち上がった。

 弱った両足では満足に体のバランスを保てず、一歩踏み出すごとに体が傾いた。スモークは支えようとしたが、先程まで触れていた手がすり抜けた。

 ばたばたと床に体を打ちつけ痣を作る幼子の後ろ姿を、奥歯を噛み締め見守ることしかできない。

 隣の部屋に辿り着いた少女は熱いカーテンを開き、背伸びをして窓の鍵を解錠する。全体重でゆっくりと窓を開けると、少女はバルコニーに出た。

 手すり壁は少女の背丈より高く地上は見えないが、手すり子になっている部分からは下が覗けた。


「は!? おい、何してんだ!」


 焦りから静止をかけるスモークなど知らぬと、少女は手すり子を必死で登っていった。

 力ない体では何度もずり落ちていたが、諦めることなく壁の上へ辿り着く。

 一寸先は宙。姿勢を崩せば忽ち数メートル先の地面に落下し、柔い果物のように潰えるだろう。

 その時だった。玄関の開く音が母親の来訪を報せ、少女の体が僅かに硬直したように見えた。

 トン、トン、と後ろから廊下を歩く音がする。近づいてきていた。あと一つの扉を開ければ、母親は開いた窓と手すり壁の上に座る娘を見つけるだろう。スモークの背に冷や汗が流れる。

 ——大丈夫。

 〝彼女〟の声が聞こえ、スモークは息を呑んだ。少女の唇は結ばれていた。助けを求めもしない。

 ——もう、過ぎたことだから。

 やめろ、と手を伸ばした。扉が開く。母親の大きく見開かれた目。叫び声を確認した少女は薄い笑みを浮かべ、体が傾いた。


「ドール!」


 落ちていく少女を追ってスモークは飛び降りた。

 ——夢の世界だ。分かっている。終わった時間だ。理解している。

 彼にも、誰にも、どうにもできないことだ。

 それでもスモークは追いかけずにはいられなかった。罪悪感や同情ではなく、もっと単純な理由——目の前で、子供が自死する姿を見たくない、それだけ。

 視界が縦にブレる凄まじい浮遊感の中でも、少女の姿だけははっきりと目視できた。

 地面はすぐそこにある。落ちていく。落ちれば潰れる。硬い地面に叩きつけられて壊れるだろう。人間は呆気なく死ぬ。

 ——魔法は使えない。

 ——魔法は意味をなさない。

 ——魔法は、〝彼女〟を救わない。

 だから、〝彼女〟は魔法を使えないのだとスモークは理解した。イマジネーションが最も重要とされる奇跡の所為で、〝彼女〟はそれが不可能だった。


「〝   〟」


 その時、空気を裂くような音がした。

 破裂せんと言わんばかりに大きくも、甲高くもない。妙に聞き馴染みのいい鐘の音ような、穏やかな知らぬ声が、やけに脳へ響いたのだ。

 それは名前のようだった。

 誰かの名前だと納得できても、どうしてか理解できず、歯痒い感情に襲われる。スモークが瞬きをすると、声の主は現れた。いや、そこに居た。

 落下した底に、地上で、少女を受け止めたのだ。


「あ……」


 勢いよく落ちてきた小さな体を捕まえたのは、〝彼女〟の兄だった。兄の表情は驚きと安堵に染まり、側には姉の姿もある。

 ——ああ、逃げ切れたのか。


「ええ、私は逃げたの」

 

 聞こえた声にスモークは脱力し、哄笑したい気持ちを必死で抑えた。

 これまで見た光景が過去に本当にあった出来事の再現だとしたら、少女は自らの意思で〝人形〟を脱し、母親の手から逃れ、兄姉の元へ飛び込んだということ。

 〝彼女〟は運命を切り開くことができる運と、魂を持っている。

 

「本当に、凄いやつだな」

「別に……必死だっただけ」


 スモークの隣に立ったドールを横目で窺う。

 少女とドールは違う肉体であったが、その金色の双眸だけは同じ色に輝いている。


「あの二人がいるって分かってて落ちたのか? それとも、死ぬつもりだったのか?」

「分からない。無我夢中だったし、あの場所には居たくなかったけど、外に出たら死んでしまうとも教えられてたから、死にたかったのかも」

「……洗脳か」

「外で生きていけるのは、靴を履いてる人だけなのよ」


 グッとスモークの表情が怒りに歪む。

 ——靴は人間の為のものだと、母親は言った。少女は外を歩く為の靴を持っていなかったから、人形として生活していた。


「母は、私を外に出すことを嫌がっていたから」

「なんでなんだ?」

「私を兄さんと姉さんに会わせたくなかったんだと思う」


 ドールが指を向けた先には記憶の続きがあった。

 少女を保護した兄と姉に、刃物を向ける母親の姿。その取り乱しようは凄まじく、般若の形相で浅い呼吸を繰り返している。

 唇からは聞き取れない言葉が発せられていたが、表情から罵詈雑言だと分かる。次第に絶叫へ代わり、衆目が集まる。

 野次馬をしていた周囲の人々は青褪めながら板状の機械で誰かと会話をし始めた。数分もすれば治安維持を担う者たちが現れ母親を連れて行った。


「家族じゃねぇのか」

「腹違いだから」

「父親だけ同じか……前妻と後妻で一悶着でも?」

 

 ドールは首を横に振って否定する。

 視界が切り替わり、少女は病室で眠っていた。側には姉が座っており、少女の髪を優しく梳いている。


「お母さんは、お父さんを襲って私を孕んだの」

「は?」

 

 少女の母親は病院で働いおり、入院してきた父に睡眠薬を盛った。その時に父の尊厳を凌辱したのだ。当然同意はなく、睡眠薬のせいで抵抗もできず犯行は終わってしまった。


「お母さんと、姉さんのお母さんは姉妹。あちらが伯母さんだね」

「待て、情報量が多い。つまり、お前の母親は自分の姉の旦那に懸想して、勝手に子供を生んで妻の立場に成り代わろうとしたってことか?」

「概ね正解」


 概ねかよ、とスモークは呆然とした。これ以上の地獄があるものかと蟀谷が引き攣る。

 

「兄さん曰く、お父さんが手に入らないからお父さんに似た子供が欲しかっただけ、なんだと思う」

「……お前、父親似なのか?」

「私? 母親似だし、どちらかと言うと私は伯母さん似だね……似てなかったとしても、男の子だったら、もう少しマシな扱いをされたと思うけど」


 淡々と進む会話にスモークは絶句した。

 到底理解できる思考回路ではなく間抜け顔を晒してしまう。

 夢の空間の少女は、頭を撫でられる感覚に目を覚ましたようだった。けれど長い睫毛を震わせ見つけた美しい存在を凝視するだけで、少女は何も話さない。


「おはようございます。よく眠れましたか?」

「二週間くらい寝たきりだったけど、良い夢は見れた?」


 美しい人たちは、〝彼女〟の兄と姉は、優しく微笑んでいた。


「綺麗な人たちだな」

「でしょう? 自慢の家族なの」


 スモークは眇めた目で兄と姉なる人物の横顔と少女を交互見る。

 兄は太陽のように晴れやかな笑顔で、生気に満ち溢れたハリのある声を少女の為に潜めていた。目が眩むような美形。

 他人の不幸を知らぬような、圧倒的な陽気を持ちながらも弱者を掬い上げられる眼差しを持っていた。

 姉はたおやかで柔らかな雰囲気だ。

 ひだまりのような暖かさを纏い、虫の一匹も殺せぬような可憐で麗しい人。

 少女が母親似であれば、似ても似つかない姉はきっと父親似なのだろう。

 

「……その分、変わってるけどな」

 

 しかし、容姿と中身は随分と異なっているようだと青年は苦笑する他ない。

 兄と姉は、少女が眠っていた間にすべての事実を聞いていた。叔母の不祥事に己らの異母妹の存在、その妹が受けてきた虐待の数々。

 兄と姉の両親は既に亡くなっている。

 つまり、少女にとっての父と伯母も亡き人だった。

 彼らにとって少女の母は叔母だ。

 両親が亡くなった以上、助け合い生きていくのも不思議ではない縁の元で、叔母は甥と姪の信頼を裏切った。

 妻が死に、絶望に打ちひしがれながら自身の終わりも享受するしかなかった男を騙し、欲望に心を染めた。

 その罪悪の結晶が少女の命、存在そのものである。


(子供に罪はないとしても、よく素知らぬ顔で笑えるもんだ。かなり変わってる——いや、疎いのか?)


 それらの暗い過去を知りながら、叔母から罵声を浴びせられながらも、兄と姉は美しい微笑みを絶やすことはなかった。怒ることも、裏切りを悲しむこともない。

 そして、一等愛おしい者を愛でるような目で少女を映し、慈愛を注ぐように触れている。

 気まずさや哀れみすらもなく、少なくとも見た目通りの端麗で繊細そうな人間の心を持ち得ていないことだけは確かだった。

 己の分析にこめかみを痛めるスモークを一瞥し、ドールはふっと笑みを零した。


「兄さんと姉さんのことを理解するのは難しいと思う。私も、未だに分からなくなるから。でも、いい人たち」

「虐待されてきた妹に同情して、正式な妹に認めたとしても、その妹に酷いことをしてきた最低な伯母に対して憤りも悲哀も見せないのは、いい人とは言わねぇだろ……」

「いい人よ」


 有無を言わさないドールの声にスモークは片眉を上げた。

 どうして言い切るのかと問うたのは、彼では一生答えに辿り着けそうになかったからだ。

 

「——お母さんのことを、二人だけは悪く言わなかったから」


 スモークの体が硬直する。

 数秒前に彼女の母親のことを最低と称してしまったからだ。

 加えて、ドールにも違和感を覚えた。彼女は自分を虐待してきた母親に対し、これまで一度も怒りを見せていないのだ。

 人形部屋から逃げた、意思に背き飛び降りた、警察に連れられていく姿を見つめていた、母親の罪を知った——母の罪を理解できる年になった頃、少女は母の代わりに兄と姉へ謝罪した。

 転化した景色は、あの温かな家だった。

 少女は先程より少し成長した姿で、涙ながらに頭を下げ、母が引き起こした事件の損害による罰を受けると申し出ていた。

 兄と姉には、少女を罰する資格があると。

 それでも、一度としても、彼女は己の母を口汚く罵ることはしなかった。

 兄と姉は、そんな彼女を許したのだ。


「叔母さまの件は仕方がないことだった。それくらいお父様は魅力的だったからね。君の気にすることじゃない」

「どうしようもなかったんです。お父さまはお母さまを愛していましたから、叔母さまの思いには答えられなかった。けれど、叔母さまもお父さまを愛していたので、止まれなかった」

「母親の罪は、母親の罪でしかないよ。君が背負う必要はないし、意味もない」

「もしも、他の誰かが貴方を罪人扱いしたとしても、そもそもその誰かは他人です。私でも、兄さんでも、血縁者の誰でもありません」

「なんの関係もない誰かの言葉なんて無視していい。現に法だって君を裁かず、保護すべきだと判断した。君が傷つくのは、君がお母さまにされて悲しかったことだけでいい」


 ——それは、君だけが分かっていればいいことだよ。

 少女は、生まれながらに自分が愛されていないことを知っていた。

 母親が彼女を通して別の人物を見ていることに気付いていた。母親の肚に居た時ですら、それは変わらない。

 だからこそ、少女は自分を暖かい家に引き取ってくれた兄と姉の手を信じ切れずにいた。二人の機嫌を窺い、捨てられないように、母の罪を背負うつもりでいた。

 自分の為に、加害者になろうとしていた——そう言わなくては、誰もが母だけを責めたから。

 罪の結晶である自分ではなく母親だけが責められる世界が、少女は恐ろしかった。

 しかし、二人はそんな少女の判断を無意味だと言った。

 少女の母親への感情は、雛の刷り込みやストックホルム症候群と呼ばれるものに近い。洗脳だとスモークが感じたのも致し方ないことで、こちらの世界の法も少女の心理をそう判断した。

 ——貴方は悪くないのよ。

 ——この子には心の療養が必要です。

 そうではないと、それは要らないという小さな声はかき消された。偽りの擁護だと、洗脳の名残だと切り捨てられた。

 

「君は、叔母さま……母親のことが大好きなんだね」

「法がある以上彼女は裁かれなくてはいけませんが、貴方はお母さまのことを愛していてもいいんですよ」

「大丈夫、間違ってない」

「歪んでいたとしても、不正解ではありません」


 他者の雑音を切り捨て、母親を愛していてもいいと認めてくれた兄と姉は、少女の目にどう映ったのだろう。

 少なくとも、彼らの言葉を聞いた少女は罪悪感以外の感情で涙を流した。

 歓喜の涙だった。

 ——愛していてもいいんだ。

 初めて、少女は自分という存在を認められたように感じた。壊れた少女のありのままを受け入れてくれたのだと。

 

「あのね、兄さんが靴をくれたの」

「靴?」

「うん。人形の私は靴がないから外に出られないって言ったら、兄さんが用意してくれたの。何処にでも行ける気がした……その勇気をくれたの」

「……そうか」

「あとね、あの日、二人が部屋の近くを通ったのは偶然じゃなかったんだって」

「え……?」


 さらりと出された情報にスモークは困惑する。

 よく考えれば確かに可笑しい。少女が逃げ出した日、飛び降りた直下に二人が居たことも。

 落ちてきた少女を無事に受け止めたことすら、奇跡に近い。


「姉さんは、お母さんが私を身籠ったことに気付いてたの」

「知らないフリをしてたのか?」

「ううん。お父さんを襲った後、お母さんは病院を止めて行方不明だったから、気付く機会もなかったと思う……でも、なんとなく〝自分に妹ができた〟って感じてたんだって。それで、お母さんをずっと探してたって」

「……この世界に、魔法はないんだよな?」

「ないよ」

「じゃあ可笑しいだろ……勘がいいどころの話じゃない。裏で監視してたとか、何か——」

 

 預言者じみた姉に、スモークは身震いする。

 行方不明の人間の捜索が可能だとしても、話してもいない叔母が身籠った事実とその子供が〝妹〟だと断定できている理由が説明できない。都合が良すぎる。

 まるですべてを知っているような、人間の範疇では当てはまらない言動である。

 生憎とその異常さも、少女にとっては慣れたもの。姉は時折どころか頻繁にそういう一面を見せた。言ったことが本当になる。

 ——そうなることが分かっているように。

 

「でも、それは兄さんもだから」

「兄の方も預言者だってのか?」

「あまりにも当たるものだから、二人には特別な力があるんじゃないかなってずっと思ってたの。妄想だけどね」

「妄想……」

「異世界があって、魂を入れ替える魔法があったんだもの。二人が特別な存在だったとしても可笑しくないわ」

 

 兄と姉がどんな人物であろうと、〝彼女〟は二人に恩を感じていた。二人が、〝彼女〟を見つけ、救ってくれたことに変わりはない。


「二人に会うまで私は夢を見たことがなかったの。起きていても眠っていても真っ暗なだけ」


 兄と姉に挟まれ初めてソファで眠ってしまった時、少女はあまりにも明るく穏やかで幸せな夢を見た。

 兄のくれた靴を履き野原を駆ける夢だ。

 一人走り疲れて途方に暮れていると姉が迎えに来てくれるのだ。そうして優しく手を取ってくれて、兄の居る家へ帰っていく。


「でも〝想い人を見つける魔法〟なら、夢の世界なら、〝私〟でも想像できると思ったから」

「……イレギュラーはあったが、そのお陰で成功したな」

 

 スモークとドールの表情が和らいだ。

 ——それから記憶の少女は勉学に励むようになった。

 学校に通い、習い事を始め、欠点を無くせるように努力を続けた。勉強以外にも己を磨き、常識とマナーを身に着けた。

 その内少女は母親の為ではなく、自らの為に生きるようになった。自分の為に、兄と姉に恥じない人間へとなれるよう研鑽を重ねていった。

 幸せな時間は、冷たく暗い部屋の隣にある、砂上の楼閣。

 少女が何か一つでも間違えば崩れ消えるだろう幸福だった。幸福のお城。

 そこで永遠に住み続ける為であれば、少女はどんな努力も苦痛ではなかった————それが、他者によって踏み躙られたのだ。


「何もなかったの。でも、やっと手に入れた。それが、奪われた」


 どうして許せるのだろうかとドールは呟く。

 彼女は感情を消し去った顔で拳を握り締めていた。視界の先には、公爵家の一室で目覚めた女。

 夢ではありえない生々しい感覚に混乱し、平静さを保とう状況を整理していたが、数日かけて分かったのは夢を見ているわけではないという現実。

 ——帰れないかもしれないという恐怖。

 溢れる感情が夢の空間に滲み、スモークの内側へ直接注ぎ込まれていく。

 宥めることも同意を示すことも、スモークには許されていなかった。

 ドールが湖へ向けて歩き出す。


「死んで戻れるなら、喜んで死ぬのに」


 そうして、ドールは湖へと身を投げたのだ。

 ——返して。帰して。

 記憶と同調して溺れていく隣りにいた手を、スモークは咄嗟に掴んだ。

 世界が水に代わり、浮上する気配はない。水中はあの部屋のように冷たく、底がない。重く引きずり込むような暗闇が待っている。

 スモークは掴んでいたドールの手を引き、自身の額へ押し当てた。

 祈るように、懇願するように、強く握る。


「……すまない、本当に、すまなかった」


 それは、心からの謝罪だった。

 ——スフェンの為に、少しでも体を貸してやれと考えたこと。

 ——スフェンのように、少しでも苦労を知れと思ったこと。

 ——スフェンだけを責めるなと、怒りを抱いたこと。

 ——俺たちの不幸を馬鹿にするなと、嘲笑ったこと。

 スモークはすべてに謝罪した。

 到底許されるものではないと理解していても、後悔を零す唇は止まらない。

 ドール——〝彼女〟は、決して気が強いだけの女性ではなかった。自分にできること、やるべきこと、やりたいことのすべてを公平に見つめ、苦痛を伴う努力すら受け入れ動くことができた。

 強い意志と覚悟があり、責任と理不尽から逃げなかった。

 

「もしも、今後も、お前が魔法を使えなくても、俺が絶対に元の世界へ戻してやる。約束する、必ず叶える」


 それが、ドールへの贖罪でありスフェンの友人としてできる最後の償いだった。

 言葉に魔力を込めてまで誓った言葉は、叶うまで永劫にスモークを縛るだろう。承知の上で彼は言葉を紡いだ。

 彼の真摯な覚悟を前に、ドールはくしゃりと顔を歪めた。


「帰りたい……」


 黄金色の瞳が、蕩ける蜂蜜のように涙で揺れる。


「兄さんと、姉さんに、会いたい……!」


 ドールは子供のように涙を零した。白い頬に滑り落ちていく涙は、真珠のように美しかった。



「あれ、もう寝るの? おやすみ」

「おやすみなさい、良い夢を」


 広いソファに腰掛け、のんびり続いていた談笑が止まる。美しい青年と女性が手を振った先、一人の少女が盛大に肩を震わせた。

 

「お、おやすみ、なさい……」

 

 怯えを含んだ声音は消え入りそうなほど小さい。

 そうして幽霊のようにそろりと自室へ消えていく少女——妹の後ろ姿を、兄と姉なる二人はじっと見つめていた。



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