1話
氷のように冷たい水中を、一人沈んでいく。
——二人目の妻など必要ない。
走馬灯のように流れる記憶には、若くして妻に先立たれた哀れな男が映っていた。ヴェント・ヴォルフェルム公爵——彼は愛する妻に先立たれた後、後妻の座を狙う令嬢たちや、そんな令嬢たちを使い繋がりを持とうとする貴族たちに嫌気が差し、渋々一人の女を選んだ。
愛する前妻の残した子供が、母の居ない寂しさに慣れるまでの十年間。期間限定の契約結婚だと断言する瞳は凍てついていた。
——私に夫婦としての愛情を求めないように。
——……はい。
後妻として父親に売られた気弱な伯爵令嬢の立場はどこにもなかった。こちらをチラとも見ない夫の心無い言葉に頷くしかなかった。
公爵家の誰もが前妻と後妻を比較し肩を竦め、地位や権力に目が眩んだ父親からは子供はまだかと募られる日々。味方といえば夜だけだった。暗闇と、満天の星空と、甘い夢だけが彼女の心を癒してくれた。
こぽり、こぽりと水泡が増えては消えていく。
地上の光が遠くなり、浮き上がるつもりは毛頭ないようであった。
歯車がズレ始めたのは、嫁いで五年が経った頃のこと。
気弱だった後妻が、ある日を境に人が変わったように活発になり、公爵家に新たな風を吹き込んだのだ。そうして、誰もが遠巻きにしていた後妻はあっという間に華々しい公爵夫人へと変化した。
誰もが彼女に魅了されていた。不思議と目が離せなかったのだ。以前の姿もすっかり忘れてしまう程。
——スフェン……どうか、私と正式な夫婦になって欲しい。
そして、公爵の愛を得て、ハッピーエンド。
娘を後妻として公爵家に売った家族、後妻を見下していた者、侮っていた者たちを見返して、屈服させて、それで終わる——筈だったのだ。
走馬灯の映像と同じように、沈む女は笑っていた。
「謹んで、お断り申し上げますわ旦那様……いえ、公爵様」
女は至極楽しそうに笑っていた。楽しくて、嬉しくてたまらないのだと言いたげな表情だった。
公爵もとい、顛末を見届けるべく集まっていた者たちは瞳を絶望一色に染めていたが、それでも愛らしく微笑み続ける女から目を逸らせずにいた。
外に焦がれていた金糸雀が、漸く飛び立つ日が来たのだ。
※※※
目が覚めたら気弱な公爵夫人だった——なんてことが信じきれず、とある女は私有地の湖に身を投げた。
突飛な行動とはいえ、朝起きたら容姿どころか年齢、国すらも異なる場所に来ていたのだ。現実逃避をするなという方が難しい。
使う言語は同じだった。文字は見慣れた外国のものでなんとか読み取れた。鏡を見て記憶の混乱を把握した直後、この世界を知れる書物を読み、大陸の地図を見て異世界だと分かった上で——死ぬことでしか逃げられないと判断した。
それは強迫観念からくる狂乱状態だった。しかし、夢と疑うには噛み締めた唇が痛かった。
あわよくば神様とでも呼べる存在が元の世界に戻してはくれないかと望みを託したのだが、生憎と願いは聞き入れてもらえなかったらしく、翌日も豪華な部屋のベッドで目を覚ましてしまった。
そして、今は扉の向こうに見張りがいる中で絶望している。
「スフェン・ヴォルフェルム……ラストラス王国、元伯爵令嬢で、ヴォルフェルム公爵家の後妻として正式に嫁いだものの、お飾りでしかなく夫や使用人たちには遠巻きにされる存在が、私……」
女——スフェンという名の体を持たされた女は、流暢に己の立場を語りだした。体に根付く記憶なのだろうが、どういうわけか元の世界にいた頃の名前は思い出せなかった。思い出そうとすれば急激な頭痛と目眩に襲われた。故にくつりと皮肉げに笑ってしまったのは、どうしようもなく現実に打ちのめされたから。
己のものだった筈の顔と名前が曖昧で、いくら脳を回転させても正確なものが見当たらない。すべてが新たなスフェンの記憶と経験に塗り替えられており、明かりのない暗闇に放り込まれたような感覚に苛まれる。
しかし、唯一つ。
郷愁とでも言うべきか〝元の世界に帰りたい〟という思いがあった。それだけが、自分がこの世界の住人ではないという証明に他ならない。
「兄さん……姉さん…………っ、」
名前も、容姿も、声も覚えていないのに、口をついて出たのは最愛の存在への未練。決して、この世界のスフェンという女の家族ではない者たちだ。
真の家族を思って、スフェンとして生きることしか許されなくなった女は泣いていた。
前の世界を前世というのか、生前というのかすら彼女には分からなかった。せめてトラックに轢かれるなり、通り魔に刺されるなり、過労で倒れるなり、死んだと明言できればよかったが、本当に目が覚めたら別人の体に入っていただけなので、心の整理すらままならなかった。
「二人に、会いたい……」
この世界にスフェンの味方はいない。
彼女は王国に昔からあるキャロル伯爵家の生まれとはいえ、両親は古い考えに支配された貴族派。平民を大事に思う王子が即位すれば発言権が薄らぐような立場にあった。
だからこそ伯爵家の地位を確固たるものにすべく、妻に先立たれ、見せかけの後妻を求めていたヴェント・ヴォルフェルム公爵に娘を売ったのだ。伯爵家の後ろ盾になることを対価として。
また、スフェンには年の離れた弟がいた。よくある話だ。キャロル伯爵夫婦の間には息子が中々生まれず、本来長男が学ぶべき教養のすべてを長女スフェンに叩き込んだ。
しかし、待望の男児ガレンが生まれてからは勉学は水泡に帰し、スフェンはただの伯爵令嬢になった。
両親から愛されていないわけではなかったが、両親が一番に求めるのは貴族としての揺るがぬ地位で、スフェンは無償の愛を欲していた。期待に応えようと必死だった。権力と愛、一番遠くにあるものをお互いが求めていたが、両親は先にガレンを見つけ、スフェンは期待と愛を履き違えていたことに気付き心を閉ざした。
そして、厄介払いとして十六の時ヴォルフェレム公爵家に来た。公爵家は使用人も等しく亡くなった前妻を慕っており、その為公爵であるヴェントには今後も独り身を貫いて欲しいとすら考えていたが、願い虚しく押し付けられるようにやってきた厚かましい女に冷たかった。
決して料理が用意されなかっただとか、ドレスを買って貰えないだとか、無視されるとかではない。ただただ、目が、温度のない声が、後妻の意見を受け入れない態度が、如実にスフェンを公爵家の者として認めていなかったのだ。
本来公爵夫人に任せられる仕事は一切関わらせてもらえず、けれど外を歩こうものなら〝仕事もしないくせに〟といった視線が刺さっていた。
その上ヴェントには前妻との間に五歳の息子ルークがいて、そのルークもまた産みの母親を愛していたからこそ、新たな母親を認めなかった。
——おかあさまいがいの、おかあさまなんていらない!
誰も味方がいない家で、五年間。
スフェンは皆が寝静まった時間に書庫で本を読み、それ以外はずっと部屋に篭っていた。誰の視線も怖くて、言葉が痛くて、けれど死のうと首筋に当てたナイフはもっと鋭くてどうしようもなかった。
そんな日々に突如切り替わった女が今のスフェンである。つまり、彼女にも頼れる人間はいないということ。
「どうしたら、元の世界に帰れるんだろう」
スフェンではない女は金色の瞳からはらりはらりと涙を溢し、迷子のように呟いた。実際世界規模の迷子であったので間違いではないが、何処から手を付けていいものかも分からない始末。
ただ、入水自殺を図り目覚めてから、不思議なものが見えるようになっていた。
「……本当に、ファンタジーな世界ね」
視界にチラつく光の粒。綿毛のように柔らかく、まるで物語に出てくるケサランパサランのよう。スフェンではない女を慰めるかのように周囲をふわりふわりと漂っていたけれど、決して触れることは許されないように、一定の距離までしか近付いてこない。
しかし、恐らく入水自殺を阻んだのは彼らだ。使用人たちが救助に来る前、霞む視界には確かに光るものが集まってきていたのだから。
「魔法があって、妖精もいる世界、ねえ……」
光の毛玉は言葉を返さなかったが、肯定だと言わんばかりに上下に跳ねた。その可愛らしい仕草を追っていたスフェンではない女はある毛玉が乗った場所に目をやり、困惑する。
「……三日前には、なかったじゃない」
自殺を図る前にくまなく探し回ったスフェンの自室の、枕元のシーツに隠れるように置かれていた本を見つけ、彼女は眉を寄せた。
「〝妖精の召喚について〟……魔法書?」
どこから、誰が、など考えつつ手を伸ばす。手に取り、書物の内容を軽く読み込んで、スフェンではない女はスウッと表情を消した。
「……——〝チェンジリング〟のページに、栞がある……」
そこに書かれていたのは妖精を召喚する魔法について。
また、妖精を使って近しい魂を持つ者同士の中身を入れ替えるという禁術についてだった。
もしかすると本自体に、特定の人物以外には見つけられない魔法がかけられていたのだろう。
湖に落ちる前の彼女は妖精も視えなかったが、今では視え、本を見つけた——恐らく、彼女とスフェンの〝何か〟が見事に溶け合い、本を〝見つけられる者〟へと変わったのではないか。
前のスフェンは家門の長男が受けるべき教養を経ていたことから魔法の造詣も深く、偶然にも書庫で禁書を見つけてしまえたのだろう。
そして、妖精を召喚し、自分と異世界にいた女の魂を取り替えた。小癪なことに、入れ替わったことすら女には気付かれぬよう、その世界の記憶を消してまで。
けれども彼女は、入れ替えられた女は覚えていた。
愛すべき家族のこと——自分がいた、幸福な場所への思いを。
「許せない……」
スフェンとなった女は拳を握り締めた。あまりにも強い力だった所為で爪が手のひらの皮膚を破り血が滲んでいく。白いシーツにポツリと赤い染みが落ちて汚れていく度に、彼女の心もまた、暗く重たい感情に呑まれていった。
——分かることは、奪われたということ。
——分かることは、押し付けられたということ。
——分かることは、自分のふりをした女が、あの幸せな世界でのうのうと生きているということ。
それらを許せるほど、スフェンの中に入った女は優しくなかった。
「取り戻さなきゃ……体を、私の家族を……」
その為なら、この世界でだって生き抜いてみせると覚悟を決め、自身をこんな目に合わせたであろう妖精たちと禁書を見下ろしながら、女は——スフェンとして笑った。
「他人を巻き込む奴には、相応の報いを与えなくちゃ」
とりあえず動きやすくなるように、公爵家での立ち位置から塗り潰してしまおうかしら、と。強く、爛々と輝く金色の目に憎悪を潜ませて、スフェンになった女は部屋から出ていった。