第26話「閉ざされた門の外で」
門前の騒ぎからどれくらい走ったのか、自分でもよく分からなかった。
エイラは息を切らしながら、ようやく足を止めた。
城壁から少し離れた岩場の陰。低い木が何本か寄り集まっていて、門の方からは見えにくい場所だった。
ライアスも立ち止まり、門の方を振り返る。
夕暮れはすでに終わりかけていて、中立都市の上には暗い藍色の空が広がっていた。城壁の上の灯りだけが、線のように並んで見える。
「……ここなら、少しはましだ」
そう言って、ライアスはようやくエイラの腕を離した。
エイラはその場に膝をついた。
呼吸が整わない。胸元のペンダントはさっきまでの強い光を失っていたが、それでもまだ微かに熱を持っていた。
風は落ち着いた。
けれど、胸の中は全然静かにならなかった。
さっきまで門の前にいた人たちの顔が、頭から離れない。
怒鳴る声。怯えた目。誰かを指さし、原因だと決めつける空気。
「……私が来たから」
思わず、口からこぼれた。
ライアスはすぐには返さなかった。
少し黙ってから、短く言う。
「そう単純でもない」
「でも、私が来て、あの光が出て……それで皆が」
エイラは途中で言葉を切った。
喉の奥が痛かった。
「私がいなければ、あんなふうにはならなかった」
ライアスは岩に手をつき、門の方を見たまま答えた。
「お前がいなくても、あの街はいずれ割れていただろう。
拒絶する連中と、受け容れようとする連中。門の前で見ただろ」
エイラは何も言えない。
確かに見た。
“入れるな”と叫ぶ声だけじゃなかった。
“待て”“決めつけるな”と言い返す声も、確かにあった。
「……でも、きっかけにはなったよ」
やっとのことでそれだけ言うと、ライアスは小さく息を吐いた。
「それはそうだな」
否定しない。
優しい嘘を言わない。
そこがライアスらしかった。
「だから余計に、今のまま正面から行くのは駄目だ」
「……うん」
「また同じことになる」
エイラは膝を抱えたまま俯いた。
草の匂いがした。土の匂いも。地上は慣れている。知らないわけじゃない。歩くことも、眠ることも、風の温度も。
それなのに今は、地面に足をつけていることが少し心細い。
王都から落ちてきたせいだろうか。
それとも、自分がもうただの旅人ではいられないと、どこかで分かってしまったからだろうか。
「焚き火は最小限でな。」
ライアスが言った。
「門から見られたくない。」
エイラは頷いた。
二人で乾いた枝を拾い、岩陰にごく小さな火を作る。赤い火は弱く揺れ、夜の中では頼りないくらい小さかったが、それでも何もないよりはよかった。
しばらくは、火の爆ぜる音しかしなかった。
やがて、エイラがぽつりと口を開く。
「ライアスは……どうしたいの?」
「何がだ」
「私のこと。
このまま一緒にいたら、巻き込まれるよ」
ライアスは焚き火を見たまま答えた。
「もう巻き込まれてる」
それはあまりにもあっさりしていて、エイラは顔を上げた。
「お前が湖に落ちてきた時点で、俺も、この辺りの連中も、無関係ではいられなくなった。
空が裂けて、王都が崩れたんだ。今さら一人だけ外に立ってるつもりにはなれない」
「……」
「でも、それと“無茶に付き合う”のは別だ」
ライアスはようやくエイラを見た。
「お前はすぐ先を見ようとする。
間違いじゃない。けど、今のまま門に戻っても、あの街の連中は話を聞かない」
「じゃあ、どうするの」
「中にいる、話を聞く気のあるやつを探す」
その言葉は、思っていたよりずっと具体的だった。
エイラは少し驚く。
「……いると思う?」
「いる」
ライアスは迷わなかった。
「門の前で声が割れてた。
中立都市ってのは、誰か一人の都合だけで動く街じゃない。商人も、兵も、評議の連中もいる。怖がるやつはいる。けど、決めつけるなって叫んでたやつもいた」
エイラは、その時の声を思い出した。
確かにあった。怒鳴り声に混ざるように、止めようとする声が。
「……でも、どうやって探すの」
「それを考えるのが今夜だ」
言ってから、ライアスは少しだけ表情を緩めた。
「正面から門を叩く以外にも、街に入る道はある」
「裏口ってこと?」
「裏口というか……使われなくなった通路とか、夜間の搬入口とか、外の人間が知らない道とかだな」
「随分詳しいんだね」
「詳しくなきゃ、この辺じゃ生きていけない」
少しだけ、空気が軽くなった。
けれど、その軽さは長くは続かなかった。
ライアスの表情が、ふいに変わる。
視線が森の暗がりへ向いた。
エイラも気づく。
風がまた、不自然に止まった。
「……まだいる」
ライアスの声が低くなる。
「さっきの影?」
「たぶん」
「見える?」
「いや。
でも、見られてる」
エイラの背中に、冷たいものが走った。
追ってくる。けれど襲ってはこない。
ただ距離を取り、こちらの動きをうかがっている。
それが余計に気味が悪い。
「私を、見てるのかな」
「お前だけじゃないかもしれない」
「え?」
「門が閉じたあと、街の中も動いてる。
あいつらは、門前の混乱ごと見てたはずだ」
エイラは焚き火の向こうに揺れる影を見つめた。
自分一人の問題じゃない。
そう分かっていても、原因の中心に自分がいる感覚は消えない。
「……ごめん」
今度は、ほとんど反射で口に出た。
ライアスは眉を寄せた。
「またそれか」
「だって」
「だってじゃない」
声は強くない。けれど、はっきりしていた。
「謝って軽くなるなら、いくらでも謝ればいい。
でも今は違うだろ」
エイラは口を閉ざす。
「必要なのは、次にどう動くか考えることだ」
ライアスは立ち上がり、城壁の方を見た。
「謝るのは、全部終わってからでいい」
その言葉に、エイラは少しだけ救われる自分がいた。
甘やかされているわけではない。ただ、前を見るように言われている。
それが、今の自分には必要だった。
夜が深くなる。
中立都市の上には、いくつもの灯りが浮かんでいた。
城壁の上を見張りが動く。門の内側でも何かが行き来しているのが分かる。完全に眠る気配はない。
「……まだ揉めてるのかな」
エイラが小さく言うと、ライアスは頷いた。
「たぶんな」
「私を入れるかどうかで?」
「それだけじゃない。
星の異変をどう見るか。空の崩壊をどう受け取るか。お前を災いと見るか、手がかりと見るか」
エイラは膝の上で手を握った。
自分の知らないところで、自分のことが議論されている。
変な感じだった。けれど、それが現実なんだと分かる。
その時だった。
城壁の下、外壁沿いの暗がりに、小さな灯りが揺れた。
火ではない。
布で覆ったランタンのような、抑えた光。
ライアスがすぐに身を低くする。
「動くな」
エイラも息を止めた。
灯りは一度消え、また点く。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
敵か。
それとも――
やがて暗がりから、何者かが現れた。
兵ではない。
重い鎧の音がしない。外套を深く被り、顔は半分ほどしか見えない。
その人物は一定の距離で止まり、低い声で言った。
「……門前にいたアヴィアンの娘と、付き添いの獣人だな」
ライアスはすぐに答えない。
「誰だ」
「名乗る前に、一つだけ伝える」
その人物は、周囲を警戒するように一度振り返った。
「街の中には、お前たちの事をただ恐怖し拒絶しようとする者だけでは無く、理解し受け容れようとする者もいる。」
エイラが思わず身を乗り出す。
「本当に?」
「だが、今はまだ正面から入れない。恐怖が先に立っている」
ライアスが一歩だけ前に出る。
「なら、何のために来た」
「道を教えに来た」
灯りが少し上がる。
その人物の指が、城壁の西側を示した。
「明日の夜。月が半分ほど上がった頃、外壁西端の古い水路に来い。
使われなくなった搬入口がある」
「罠かもしれない」
ライアスは即座に言う。
「疑うのは当然だ」
相手は少しだけ頷いた。
「だから来なくてもいい。
だが――街の中にも、まだ灯は残っている。それだけは覚えておけ」
短い沈黙。
風が、三人のあいだを抜ける。
エイラはその人影を見た。顔は見えない。敵か味方かも、まだ分からない。
それでも、その言葉だけは嘘ではない気がした。
「……どうして、助けようとするの」
思わず尋ねると、相手は少し間を置いて答えた。
「コチラにはこっちの思惑があるんでね……
だが助けるかどうかは、まだ決めていない。
まぁ…お前達次第だな。」
それだけ言うと、その人物は灯りを伏せた。
「明日の夜だ」
そして、来た時と同じように、暗がりへ消えていった。
静けさが戻る。
エイラはしばらく、その人が消えた方向を見つめていた。
「……どうする?」
ライアスが訊く。
エイラはすぐには答えなかった。
胸元のペンダントに手を当てる。熱はもう引いていた。
「行きたい」
やがて、そう言った。
「でも、怖い」
「だろうな」
「ライアスは?」
「俺も怖い」
あまりにあっさり言われて、エイラは少しだけ目を見開いた。
「でも、このままって訳にはいかないだろ?」
ライアスは岩に寄りかかる。
「選ぶしかない。
閉じた門の外で立ち止まるか、危なくても中へ入る道を探すか」
エイラは頷いた。
それしかない。
ここで止まれば、何も分からないままだ。
城壁の向こうには、まだ話を聞こうとする者がいる。
その事実が、細い糸のように希望をつないでいた。
「……じゃあ、明日の夜」
「うん」
それだけで、今夜の答えとしては十分だった。
門は閉ざされたままだった。
けれど、壁の向こうにも、まだ消えていない灯があった。
その小さな光を、エイラは信じてみようと思った。
夜の風は冷たい。
それでも、さっきまでより少しだけ、まっすぐに流れていた。




