第23話「地に降りた巫女」
夜明けの風は、ひどく不安定だった。
風裂きの湖のほとり。
夜の混乱が嘘のように、水面は再び鏡の静けさを取り戻している。
だが、空気の奥にはまだ、星が焼け落ちた匂いが残っていた。
簡易的に張られた獣皮の天幕の中で、
エイラは静かに眠っていた。
胸は規則正しく上下し、呼吸は穏やかだ。
だが、彼女の翼は――まだ完全には戻っていない。
焦げた羽根の根元から、淡い白光が滲むように再生を続けていた。
「……普通じゃねえな」
焚き火のそばで、獣人の一人が低く呟く。
年嵩の斥候だった。
「回復魔法でも、薬でもねえ。
まるで……大地そのものが治してるみたいだ」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
ライアスは少し離れた場所で、湖を見つめていた。
夜通し眠っていない目は赤く、だが視線は揺れていない。
(空の巫女……)
そんな大仰な言葉で、彼女を呼ぶ気にはなれなかった。
ライアスにとって、エイラは――
空から落ちてきた、一人の少女だった。
だが同時に、
彼女が“世界の均衡”そのものを背負ってしまった存在だということも、
否定しようがなく理解していた。
「……なあ、ライアス」
仲間の一人が声をかける。
「正直に言ってくれ。
あの子は……災いなのか?」
ライアスは、しばらく黙ってから答えた。
「わからねえ。
でもな……」
焚き火の爆ぜる音が、言葉の間を埋める。
「少なくとも、あいつは“壊すため”に来たわけじゃない。
壊れた空を、必死で繋ごうとして……落ちてきた」
仲間たちは顔を見合わせ、やがて誰かが小さく息を吐いた。
「……星の子、か」
「昔話にあったな」
「大陸が軋む時、星に触れた者が現れるって……」
その言葉が、場の空気をさらに重くする。
その頃、エイラの意識は、浅い闇の中を漂っていた。
音も、形も、輪郭も曖昧な世界。
だが、ときおり鮮明な断片が、波紋のように浮かび上がる。
崩れ落ちる白い塔。
裂けた空。
セリスの、冷たい横顔。
――あなたが守るのね。私は、壊す役。
(……違う……)
エイラは、心の中で首を振る。
(壊すなんて……望んでない……)
次に見えたのは、地上だった。
広がる大地。
風に揺れる草原。
そして、自分を抱えて湖から引き上げた、獣人の青年。
(……ライアス……)
唇がわずかに動く。
「……行かなきゃ……」
誰に聞かせるでもない、掠れた声。
「……止めないと……」
その言葉を、ライアスは聞いていた。
焚き火のそばに戻った彼は、思わず膝をつく。
胸の奥が、ひどく締めつけられた。
(眠ってても……前を見てるのかよ)
ライアスは、エイラの手をそっと握る。
「……無茶しすぎだ」
そのときだった。
湖の向こう、森の縁で――
風の流れが、明らかに歪んだ。
獣人の斥候が、即座に立ち上がる。
「……見られてる」
「敵か?」
「断定できねえ。
だが……ただの獣じゃない」
気配は近づいてこない。
攻撃もない。
ただ、“こちらを測る”ような視線だけが、風に混じって残る。
ライアスは、ゆっくりと立ち上がった。
「ここには、いられないな」
仲間が言う。
「村へ戻るか?」
「いや……」
ライアスは首を振る。
「この子は、もう“どこかの村”に隠せる存在じゃない」
視線を、眠るエイラへ向ける。
「星が落ちた。
王都が崩れた。
風が狂い始めてる」
彼は、はっきりと言った。
「このままじゃ、世界が先にこの子を見つける」
沈黙。
そして、ライアスは決断する。
「中立都市へ向かう。
古い記録と、他種族が集まる場所だ。
そこでなら……この子の正体と、次に進む道が見えるかもしれない」
仲間たちは迷った末、頷いた。
誰もが理解していたのだ。
もう、元の生活には戻れないことを。
夜が完全に明ける。
ライアスはエイラを背に負った。
軽い――だが、不思議な温かさがある。
その瞬間、
エイラの翼が、微かに風に反応して揺れた。
胸元のペンダントが、一度だけ、はっきりと光る。
それは、
空が彼女を手放した合図であり、
大地が彼女を受け入れた証でもあった。
ライアスは、前を向く。
「行こう」
空の巫女は、まだ空へは戻らない。
だが――
アヴィア大陸は、確かに彼女を選び始めていた。




