日進月歩
同じ掃除場所を担当している萩原は、今日も一人で会話をしている。
「うわっ、めっちゃ汚ねえ〜……そういえばここは昨日手ぇつけなかったのかー……うわあ埃すっご、」
萩原のおしゃべりが止まった、と思って顔を上げると、萩原は四回も連続で大きなくしゃみをした。
「萩原、だいじょぶ?」
「おー、だいじょーぶ、はっくし! やべー……埃やばいから、桧垣はあんま近付くなよ」
へっくしょい、と今度は間抜けなくしゃみをしている。
「私も手伝うよ」
「いいよいいよ。桧垣は埃とか相当だめなタイプっしょ? たまに埃まみれのところ掃除して鼻ぐずぐずにしてるときあんじゃん」
「萩原もつらそうだよ」
「いーから! 萩原様に任せといて」
彼は近寄ろうとする私を手のひらで制して、作業に戻った。本当にひとりでやってしまうつもりらしい。
萩原とは、今年初めて同じクラスになった。去年は隣のクラスだったので、選択授業の音楽は一緒に受けていたことがある。
彼はとても明るくて元気で、いつもにかにか笑っていて、太陽のひかりそのものみたいな人だ。みんなが自然と萩原のもとに集まってくる。
廊下を歩いていれば誰かに声をかけられて、萩原の机は年じゅう友だちに囲まれている。男子も女子も関係なく人気があるのだから、彼はすごい人だと思う。
そんなふうに人気があるのに、ガキ大将のような傲慢さや嫌味な感じはなくて、つねに、誰に対しても平等で、分け隔てなくやさしく接している。萩原と話している人はみんなにこにこしているし、萩原自身もそうだ。人を笑顔にさせながら、それに喜びを感じているように見える。
そういう彼だから、萩原がそういう人だから、好きになってしまったのは、仕方のないことだと思う。この恋は、不可抗力によって導かれたようなものなのだ。
うそだ。たぶん、それとはちがう。「仕方なく」落ちた、ようなものではない。私が萩原のことを知って、知るたびに好きになった。落ちるべくして、萩原に落ちたのだ。
せっせと机を拭き上げながら、彼のことを考える。
一年生のころからずっと彼のことが気になっていた。
萩原の身長は男子の平均を超えない程度で、それを気にしているのか、黒くて短い髪をつんつんと逆立てている。話すときの声は少しだけ掠れていて、だけど笑い声は他の男子よりも少しだけ高い音がする。真剣な顔はきりっとしてるのに、笑うといたずらっぽく目尻がふにゃふにゃになって、それがかわいい。
上履きを蹴って遊ぶせいか少し汚れていて、そこに乱雑な文字で『はぎ原』と書かれているのを見たとき、なぜだか胸がきゅんと鳴った。『萩』は面倒くさがるのに『原』はちゃんと漢字で書くところとか、『はぎ』という字のヘニョヘニョした線に、どうしようもなく惹かれた。
そのときはそう感じていなかったけれど、色が淡かっただけで、私はずっと彼に恋をしていたのだろう。でも、見つめるだけだった。それ以上を望むのもおこがましく思えるくらい、彼は私の世界でいっとう輝く人だった。
萩原と接点を持つことができればいいのに、と思っていたけれど、彼と私の世界は悲しいくらいに交わらなかった。私は友だちがいると言っても女子ばかりで男子との接点がほとんどないし、そもそも萩原は別のクラスだったからだ。じりじりと見つめているだけで、何もできずに一年が終わった。
学年が一つ上がって、萩原と同じクラスになった。『萩原』と『桧垣』。これほどまでに名字に感謝したことはないだろう。
一学期の最初から席が前後だったこと、週番が毎回ペアであること、掃除場所として二人だけで化学実験室を指定されたことで、萩原との距離は自然と縮まっていった。
萩原から話しかけられた一言目が「桧垣って授業中寝ないタイプ? もし俺が寝てたらそのあとノート見せて」だったので、驚いた記憶がある。彼は、はじめましてとかこれからよろしくねとか、そういうのをぶっ飛ばして相手の懐にするりと入りこめる人なのだ。いっそのこと才能だと思う。
「はー、終わった終わった、きれいんなった!」
萩原は立ち上がって、うんと伸びをした。
「ありがとー。あとは床の掃除だけだね」
「今日はどっちが箒だっけ?」
「木曜だから、萩原かな」
「じゃ、桧垣さんはぞうきんおねがいしゃーすっ」
「はいよー」
冬の雑巾がけはしんどいけれど、じゃんけんで決めたことなのだから仕方がない。萩原は私にじゃんけんで負けたので、週三回の雑巾がけを担ってくれている。
雑巾がけ、と言っても、ワイパーのように挟んで立ったまま雑巾がけができる優れものを学校が用意してくれているので、膝をついて手で押さえる必要がないぶん、楽ではある。雑巾を絞るのが冷たくてつらいだけで、それを我慢すればなんとかなる。
そもそも、だ。
「ねー、やっぱりこんなに広い化学実験室を二人だけでって、おかしいと思わない?」
「それは俺も思う。でもまあ、化学実験室って普段使わねーし、せんせーもいつも『テキトーでいいよ』って言ってたよ。だから二人でいいんじゃね?」
化学の教科担任は、私たちのクラスの担任だ。掃除時間中、先生は準備室にこもっているのではなく、いろんな場所を見回りよろしく転々と練り歩いている。だから私たちはこうしてぺちゃくちゃ会話をしながら掃除ができるのだ。
本来であれば、この部屋はほとんど使われないし少しくらい埃を被せておいてもいいのだけれど、まったく掃除をしないのもよくなさそうだから、という理由で割り振られているらしい。
「じゃあ、私たちはやってもやらなくてもいいのにこんなにまじめに掃除してるってこと?」
「まあ、そうなるな! わはは! 俺たちえらいえらい!」
萩原は床を掃く手を止めて笑った。こちらも思わず笑いがこみ上げる。
萩原が掃き終えたところから、私も雑巾がけをスタートさせた。
「桧垣が同じ掃除場所でよかったわー。気ぃ合うし、掃除上手いし、しゃべったらおもしれーし」
「萩原なら誰と一緒でも仲良くできると思うよ?」
「ん? 俺、桧垣以外の女子とあんま喋ったことないよ」
ええ、うそお? と素っ頓狂な声が出る。萩原は男子にも女子にも友だちが多いと思っていたからだ。
萩原をちらりと見ると、彼は完全に手を止め、箒の棒の先に顎を乗せて少しだけ唇を尖らせていた。表情が子どもっぽくてかわいらしい。
「教室で話してるとき、女の子もいない?」
「あれは俺の友だちが喋ってるだけで、俺は全然」
萩原が「座って話そうぜ」と言うので、椅子を引き出して彼の隣に座る。床掃除はまだ途中なのに。まあ、一日くらいならおサボりをしても先生には叱られまい。
萩原は腕を組んでむずかしそうな顔をした。心なしか、この一瞬でげっそりと痩せこけたようにも見える。
「俺さー……上に姉ちゃんが二人いて、しかも双子で息ぴったりの。どっちの姉ちゃんも超こええの。俺のこと下僕としか思ってねえみたいにえらそうでさあ。で、そういう刷り込みがあるせいで、女子には偏見があるというか……いや、桧垣に言うべきことではないな」
「ききたい」
「え〜……女子はみんな裏表あんのかなーとか、家では誰かを虐げてんのかなー、とか。でも、桧垣がそうじゃないことを証明してくれたから前よりはよくなったけど」
「証明?」
「だって桧垣、クラスで友だちとしゃべってるときと俺もいるときと、なんも変わんねえじゃん。麻緒くんとしゃべってるところも見たことあるけど、いつもとおんなじ雰囲気だったし。ふざけて言い合いしてるのもか……」
麻緒、というのは私の一つ年上の兄だ。兄と話しているところを見られていたのか、恥ずかしい。少々派手な人なので学校では喋りかけてくるなと言ってあるのだけれど、兄はそんなのおかまいなしに、わざわざ教室まで来てどうでもいいことを話してくるのだ。
彼がちらりとこちらを見た瞬間と、私が彼の顔を窺った瞬間がぴったりと重なって、ばちっと音がするくらい綺麗に目が合った。挑むように萩原を見つめると、彼のほうが先にふいと逸らした。
「か?」
「……変わらないんだなあ、と、思って」
「……よくわかんないけど、まあ、女の子全員が兄弟を虐げるわけじゃないと思うよ」
「だから桧垣と仲良くなれてよかったなーって」
心臓が高鳴っている。これは自意識過剰の音だ。はやく鳴りやめ、と机の下で両指をきつく組む。
彼のなかの私は、唯一と言っていいくらいの女友だち、であることは事実だろう。そのことで萩原の偏見を取り払うことができたわけだけれど、特別なことは何もしていないし、萩原の特別になれたわけでもない。
「萩原は、じゃあ好きな人はいないんだ」
萩原が「友だちと遊ぶのが楽しいから今は彼女とかはいいっすわ」と話していたことも知っているし、たった今、女子に苦手意識があると知ったばかりだ。好きな人も、いないに決まって――
「い、ない? いや、いるかな。どっちだろ」
「なにそのあいまいな表現」
「じゃあ桧垣は? いるの? 好きな人」
いきなり矛先がこっちに向いて、ぎくりとする。というか、萩原には、気になっている人がいるらしい。
好きな人が誰かを気になっている場合、どう答えるのが正解なのだろう。私は頭をぐるぐると高速で回転させて考える。
いない、と言ってしまえばこの会話も終了して掃除が再開されるだろう。
いる、と言って、身代わりを立ててうそをつくのは私がいやだ。好きな人を誤魔化すようなことは、好きな人相手だとしてもぜったいしちゃいけない。
ここは、勇気を振りしぼって、正直に話してみるべきところか。
「いるよ」
そう言った瞬間、萩原の顔がぱあっと輝いて――好奇心と喜色に満ちあふれたような表情に変わった。これをどう取ったらよいのだろう。単純に、友だちに好きな人がいると聞いてうれしくなったのだろうか。
それとも、私から恋の話を聞けそうだからわくわくしているのか。
「えっ、当てていい!?」
そうくるか。予想していたことだが、ぜんぜん脈はないらしい。少しだけ胸が痛んだ。それでも、くよくよしていられない。萩原の「気になる人」はまだ「気になる」程度のものなのだから、私は萩原のことが好きなのだとちょっとだけ匂わせて、どぎまぎさせてみるしかない。
脈がないのなら、つぎの手を打つまでだ。何もせずに待っていたって、萩原がこちらを向いてくれるわけじゃない。
「いいよ? 当てられるものなら」
「超難題みたいに言うじゃん。まってよ、俺も心構えするわ」
もしかしたら気まずくなるかもしれないが、萩原ならきっと、私の好意に気づいても仲良くしてくれるだろう。
好きな人に好きだとばれることなんて、少し痒いくらいで痛いわけじゃない。それに、打算と欲にまみれた私の思考を見抜いて笑う人など、ここには誰もいない。
「男? 女?」
「だ、男子」
「同じ学年?」
「うん」
「もしや……同じクラス!?」
「うん」
「やべー、俺がどきどきしてきた! あ、いやになったらストップって言ってよ!?」
私のどきどきは彼の比じゃないだろう。今にも心臓を口から吐き出しそうだ。
わかった、の意味をこめて、こくこく頷く。萩原は顎に手をやってなにやら考え込んでいる。
「出席番号早い? 遅い?」
私が二十九番なので、萩原は一つ前の二十八番だ。
「どっちかって言ったら遅い、かなあ」
それを聞いた彼は、ええっ!? と大きな声を上げたあと、興奮したように言った。
「それ、俺も含まれてんじゃん! もしや……俺!?」
びく、と肩が跳ねる。彼の声色には、完全に冗談の気がある。ここで「そうだよ」と言ってしまえばどうなるのだろう。
ちょっと、言ってみたい、かもしれない。
やけくそとも言える。この半年間一緒に掃除をしてきたのに、ここまできても私の気持ちに気づく気配もない目の前の男をちょっとだけ困らせてやりたい、と思ったのも、あながち間違いではない。
一番は、私がそう言ったときの彼の反応を見たかった。
萩原がじっとこちらを見つめている。瞳の奥に期待がある、と感じたのは、きっと私の取り違えだ。
耳が熱い。心臓がひっくり返りそうなくらい音を立てていた。
「そ、そうだよ」
しん、とその場が静まり返った。目を合わせていることに耐えられず、とっさに萩原から目を背けて、五秒経ってもこの空気だったら撤回しようと決める。いち、にい、さ――
「……って、冗談やめろよな! はあ、どきどきしたー。桧垣の好きな人、美坂だろー? 美坂、いい奴だしかっこいいし学年イチレベルでモテてるし、まあ桧垣みたいにかわいい子が好きになっても仕方ないかあ」
「え?」
「……え?」
俯かせていた頭をがばりと上げると、萩原が大袈裟に私から視線を逸らした。明らかに動揺している。
かわいい。かわいい、とは、どういう意味だったか。
「ねえ、萩原」
「あっ、……えーっと、いや、待て待て、まちがえたわ。はは、あー、早く掃除終わらせて帰ろ!」
萩原はがたがたと席を立って、うそみたいなスピードで箒を動かし始めた。私は咄嗟に萩原のあとをついて回る。全然ごみを払えていないと思うのは気のせいだろうか。
「萩原右京くーん?」
「な、何ですか桧垣綾さん!? 俺、今はなに聞かれても答えないよ!」
こっちを向かずに答える萩原に、いたずら心が沸き立つ。
「今日の朝ごはん、白ごはんだった?」
「へ? うん。二杯食った」
「大食いだね」
「俺の取り柄」
「三限の体育のとき、サッカーたのしそうにしてたよね」
「うん。久しぶりにサッカーしたから」
萩原は質問の意図がわからないとでも言うように、立ち止まって不思議そうにこちらを向いた。
目が合った瞬間を逃してはいけない。幸い、今は二人っきりだ。今を逃してしまったら、次がいつになるかはわからない。
「萩原、私のことかわいいと思ってくれてるの?」
「うん。……ハッ! ゆ、誘導尋問だ! 今のナシ!! 法廷じゃ注意されるよ!」
「ふふ。ここは法廷じゃないよ」
私たちの掃除場所である化学実験室だし、ついでに言えば、これは誘導尋問でもないだろう。
萩原の耳が赤く染まっている。焦りからではない、と思い込みたい自分と、きっとそうだよ、と背中を押す自分の両方が心のうちに存在している。
「たしかにそれもそうだ……」
「ねえねえ萩原」
「は、ハイ?」
じりじりと下がってゆく萩原を、真正面から追い詰める。とん、と萩原が壁に背中をつけたとき、思いきって萩原の目を見つめて言う。
「私は萩原のことかっこいいなと思ってるんだけど、それについてはどう思う?」
「えっ、……う、嬉しいと、思う」
「これを踏まえて、私は誰のことが好きだと予想する? 美坂くん?」
美坂くんと私は一言も話したことがないことを、萩原は知っているんだろうか。
「お、俺?」
「そうだよって、さっきも言ったのに」
「えー……ちょっと、待って」
壁にもたれたまま、萩原はずるずるとしゃがみこんだ。私も萩原の前で膝を抱えてしゃがんだ。彼は私より一回り大きな手で自分の顔を隠しているが、覗く頬が赤い。
「桧垣、ずるい……」
「ずるくないよ」
「俺が桧垣のこと気になってるって知ってて言ったの?」
「え、そうだったの? 脈なしかと思ってた」
「……桧垣がたまにあざといって言われてる理由が、いまわかった」
「私、あざといって言われてるの?」
それは初耳だった。友だちには……言われたことがあるかもしれないが、萩原が話すのは基本的に男子だ。そちらの世界での評判はよくわからない。
それよりも。
「萩原、私のこと気になってたの?」
「気になってたっつーか……。気ぃ合うし、しゃべったらおもしれーし、裏表ないし、俺の話によく笑ってくれるし、……かわいいし」
好きにならねえほうが無理、と言われて、急速に顔に熱が集まる。お互いに顔を赤くして教室の隅でしゃがみこんでいるなんて、側から見たらおかしな光景だ。
「桧垣、俺と付き合って。好きだ、よ」
「私も萩原が好きだよ」
彼にぎゅっと手を握られて、二人で立ち上がる。あー、あっつ、などと言いながら萩原がカッターシャツの襟元をぱたぱた仰いでいる。きっと照れ隠しだ。
掃除時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。箒も雑巾がけもまだ途中だというのに、萩原は「じゃ、帰るぞ帰るぞー!」と張り切っている。
「最後までしないの?」
「昨日したからいいっしょ」
「でも」
「明日まじめにして取り返そーぜ。……それで、桧垣は、俺と一緒に帰りたいとか、ない?」
萩原がいつのまにか私の手から奪っていた雑巾をじゃばじゃば洗いながら、ぽつりとこぼした。
「……ある! あります! 相当ある!!」
「……じゃ、そうしよ」
はい、と固く絞った雑巾を手渡される。ばれないように、彼の後ろをにまにま笑いながらついて歩き、雑巾がけに丁寧に干す。
箒と雑巾用ワイパーを棚に片づけ、化学実験室を二人で出た。
「桧垣はほんとに俺でいいの」
太陽みたいで、いつもきらきら輝いている萩原がなにを言っているのだろう。それは本来こっちの台詞のはずだ。
「私は、萩原がいい。萩原だけがいい」
「……あ、ありがとう?」
「どういたしまして?」
唐突に、恋が叶ってしまった。私の願いを叶えてくれたのは、隣にいるこの人で、運命の女神さまなんかではない。
萩原の空いている手を取って、恋人つなぎをした。年中冷えている私の手とは違い、彼の手は少しぬくぬくとしている。
「桧垣! みんなにばれるよ! いいの!?」
「……萩原は私と付き合ってるってばれるのいやなんだ」
「いや、桧垣が俺の友だちとかにからかわれるのいやかなって」
「じゃあ離す?」
「やっぱやだ。桧垣は俺の恋人ですって自慢したい」
太陽は、私の手の中にある。なんちゃって。