血塗られた過去
二十七年前。一人の女児がこの世に生を授かった。日本有数の名家の娘。富や名声。彼女は人が羨むものを生まれたその日に手にしていた。父親譲りの聡明さと母親譲りの美貌を受け継ぎ、優しい姉にも恵まれた、順風満帆な人生を歩んでいくはずだった。
「先天性白皮症。あたしは太陽に嫌われて生まれた」
先天的なメラニンの欠乏により肌は白く、虹彩は血管の透過で血の色をそのまま映す。髪も白に近い金髪をしていた。その事実を目の当たりにした祖父はこれに激怒。生まれた孫娘を呪われし子だと忌み嫌い、両親共々一族から一方的に縁を絶たれてしまった。だが、両親は我が子を決して恨みはしなかった。寧ろ、この出来事が家族四人の絆をより強固なものにした。
「この子の白く美しい羽衣のような肌にちなんで、美紗という名はどうだろう?」
「まあ、素敵な名前。きっとこの子も喜ぶわ。私たちの新しい家族。今日からあなたは美紗よ」
父は東京にある中小企業でサラリーマンをし、母は家計の手助けをする為に家に近所の主婦たちを招いて製菓教室を開いていた。二つ上の姉は妹の美紗をとても可愛がり、遊び相手をしてくれた。お世辞にも大きいとは言い難い一軒家での慎ましい生活。裕福な暮らしには無い幸せがそこにはあった。それと同時に、多大な苦労もあった。
子育てで何より気を使うのは太陽の光。常人には何ともないものでも、美紗にとっては身を焼く炎。この地球上で生活している以上、ほぼ避けることの出来ない存在。故に、彼女は自分の目で青空というものを見たことがなかった。
外で友達を作って遊ぶ事も許されず、遮光カーテンで閉ざされた部屋でしか遊べない美紗に、両親はとても心を痛めていた。両親の希望で姉と同じく一般の公立小学校への入学を希望したが、どこの学校にも受け入れを断られ続けた。太陽アレルギーに等しい子供の面倒は見切れないと何処も口を揃えて言い放った。それでも両親は諦めず探した。小学校では友達をたくさん作らせてあげたいと懸命に訴えた。その想いが通じたのか一校だけ美紗の受け入れを許可した公立小学校が見つかり、美紗は無事入学式に間に合う事が出来た。
頭から全身を覆い隠す紫外線防護服とサングラスを着用しての登校は異様そのものだったが、美紗がクラスからいじめられることは無かった。初日の自己紹介で美紗はクラスの目の前で堂々と防護服とサングラスを外し、己の姿を皆の前に晒したのだ。
「滅多にお目にかかれるものじゃないから、今の内に焼きつけなさい。この神裏美紗の、宝石のような美貌を」
白金色の髪、緋色鉱石のような瞳、真珠色の肌、金剛石の気品。自らの病を宝石に例えて惜しげもなく見せつけたのだ。他を圧倒するほど自信に満ち溢れた美紗は、奇しくも絶縁された名家の気質を誰よりも濃く受け継いでいた。己の運命に決して屈せず、健気にすくすくと美紗は育っていった。
美紗が十七歳の夏。家族旅行でルーマニアを訪れた際に悲劇は起こった。
宿泊先のペンションに夜襲を仕掛けて来たのは、異形の神々を模った仮面を被った不気味な徒党。彼らはヨーロッパの片田舎を拠点にしていたとある邪教崇拝の信者たちだった。十数人の賊たちは美紗を取り押さえ、彼女の目の前で父と母の首を鉈のように厚い刃のナイフを何度も何度も首に叩きつけた。悲痛な悲鳴は声帯の切断と共に途絶え、夥しい出血と呼吸音が混じった身の毛もよだつ音を奏でていた。頭部を力任せに左右に捻りながら、更にククリナイフを振り下ろした賊の足元に転がる生首二つ。蹲っている姉も腹部を刺されているようで、三人分の血液が部屋一面に広がっていた。その狂気に満ちた光景が、美紗の正気を蝕んだ。
『きゃあああああああああ!』
如何に暴れようと大人数人に捕まっては逃げること叶わず。衣服を引き裂かれ、裸に剥かれた美紗が見たのは、血に濡れた鉈の赤い煌めき。後に知ったことだが、人間のアルビノの臓器は黒魔術や呪術で重宝されるらしく多くの先天性白皮症患。所謂、アルビノと呼ばれる人たちは誘拐や人身売買などで邪教団の元へと渡り、生贄と称され殺されたそうだ。
「我らが神にその命を差し出したまえ!」
仮面を被った男振り下ろした凶刃は、露わになっている美紗の左の乳房に突き刺さり、心臓を瓜の如くぱっくりと割った。
吹き出す血飛沫と共に奪われていく意識。体が冷たい。呼吸も出来ない。異国の地で、たった一夜にして何もかもを奪われた無念が少女の瞳から溢れ、頬を濡らした。美紗は呪った。家族を守れなかった非力な自分を。美紗は呪った。自分と家族をこんな目に合わせてくれた忌々しき連中を。美紗は呪った。こんな過酷な十字架を背負わせた神を。
「選ぶがいい」
薄れゆく意識の水底で、波紋のように広がる誰かの声。もう目は霞んでよく見えていないが、血に染まる室内に第三者が立っていた。声から察するに、男性だろうか。黒いシルエット。風に揺れ踊る炎のような赤く長い髪と双眸。人の形をしてはいるが、彼の者の放つ禍々しい存在感はおよそ人間のものとは思えなかった。汚らわしい邪教徒共の狂乱の中、彼らには一切目もくれずじっとこちらを見つめていた。自分と同じ赤い瞳の男が問う。
「最後まで人間として一生を終えるか。それとも、運命に抗って人ならざる者として生まれ変わるか。君の答えを聞こう」
微かに動く美紗の口が、言葉にならない言葉を紡ぐ。
男は死にかけの美紗を抱き寄せると、首筋にそっとくちづけをした。淫靡な愛撫のように優しく唇が触れた。直後、全身の神経を駆け巡る激しい熱と激痛。男の鋭い二本の牙が美紗の首筋に突き刺さっていた。夜に抱かれ、唇と牙で犯され、血を吸われる禁断の快楽と痛みにまどろむ処女。首から伝った血が指先から滴となって落ちる時、再誕の儀式は終わる。
「さあ、まずは復讐を。君の大切なものを奪った怨敵に一心不乱の報復を。今の君にはその資格と力がある。処刑の方法も君の勘が、ヴァンパイアとしての感性が全て教えてくれるだろう」
美紗は自分の足でしっかり立ち上がり、両の口角がつり上がるほど笑った。胸の傷は塞がっており、口元には二本の白い牙が覗いていた。
窓から差し込む月光が室内を照らした。部屋は赤く、どこまでも赤く。辺りは誰のものとも知れぬ肉塊でひどく散らかっていた。手にべっとりと付着した夥しい量の血液。我に返った美紗は震撼した。この舞台を鮮血と狂気で彩ったのは他でもない自分だということに。部屋の隅に転がっている両親の首が、虚ろな瞳でこちらを見ていた。
「やめて……。あたしを、こんなあたしを見ないで!」
穢れた体を隠すように、美紗はその場に崩れた。人を殺め、殺められ、魂を犯され、罪を犯す。終わってみれば虚しい一人芝居のようだった。
「これを着るといい。家族の眼前でいつまでも裸というわけにもいかないだろう?」
血塗れの舞台に立っていた一人の観客。赤い瞳の男は、身に纏っていた黒い外套を脱ぐと、それを美紗の肩にそっとかけた。恐怖と困惑、様々なものに震える美紗は男に問う。
「……愛する家族を失いました。人としての尊厳も命そのものも失いました。今のあたしにはもう、何も残っていません。どうか……どうか教えてください我が主。あたしはこれからどうしたらいいのでしょうか」
本能ではなく、体を流れる新たな血が教えている。彼の者こそ、お前が従うべき主人であると。血と魂の契約で結ばれた、決して切れぬ主従の絆。この身も心も自分の全てはもうこの男のものであると、それだけはわかった。だからもう、この男以外に美紗が頼っても良い存在など、この地球上何処にも存在しないのだ。
「大切なのは君の意思だよ。君はどうしたい?」
「愚かな娘とお笑いください。あたしは……まだ人間に未練があります。これは誰でもない自分が望んだ結果で、もう時間は戻らないということは重々承知しています。ですが……出来ることならせめて、心だけはまだ人間でありたいと思っています」
「それでいいさ。そんなヴァンパイアが一人くらいいてもいい。僕はそう思うけどね」
男は長い髪を掻き上げ、優しく微笑んだ。
「幸いと言うべきか、実を言うと君はまだ完全なヴァンパイアじゃないんだ。かといって人間でもない。生きてもいないし死んでもいない。君は今、非常に不安定で曖昧な存在と言っていい」
「それはつまり、どういうことですか?」
「血を吸う鬼だから吸血鬼。血を吸っていない君はまだ本当の吸血鬼ではないんだよ。人間の血こそ、我らを不死身の化け物たらしめる鍵。血を吸わなければ人間に戻ることは出来ないが、完全なヴァンパイアにならずにいることは出来る。但し、君の内に眠る血の渇き。生き血を求めるヴァンパイアの本能に抗うのは並大抵のことではない。だけど、僕なら抗う術を教えてあげられる。そう、僕の持つ全てを。君にはその資格と素質がある。何故なら君は――」
窓辺に立ち、月の光を背にして男は美紗に手を差し伸べた。
「あたしはその人その手を取った。ヴァンパイアの全てを教えてくれた師匠の手を」
何かを掴むように伸ばした右手を見つめるミーシャ。雨上がりの夜空に浮かぶ月を掴めないように、どんなに切望しても去りし日は戻らない。叶わぬ願いと知りながら、それでも手を伸ばさずにはいられない衝動とは、一体どれほどのものなのだろう。俺には想像もつかない。
「皮肉なものよね。不死身のヴァンパイア一歩手前まで生まれ変わっても、生前の病気はそのまま引き継ぐなんて。生まれても死んでも、どのみち太陽はあたしを拒み続ける」
頭より先に体が動いていた。俺はミーシャとの距離を三歩詰め、小さな背中をそっと抱く。
「きょ、京介? どうしたのよ、急に」
慌てふためくミーシャの肩は微かに震えていた。
「ごめんな。かける言葉が見つからないんだ」
「……なによ、同情でもしてるわけ?」
「目の前で親を殺されて、復讐の為に人を殺して、その上自分も殺されて。心が人間のままだってんなら、そんな深い悲しみ一人で耐えられるわけないだろ」
「あたしは人間なんかじゃない。血も涙も無い……化け物よ」
「お前は血も流すし涙も流す。何より化け物なんかじゃない。そんで、今は一人じゃないだろ」
ミーシャを背後から抱いた俺の手の甲に、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。
「……お願い、京介。もう少しだけ、もう少しだけこのままでいさせて」
今の俺には、ただミーシャを抱き締めてやることしか出来ない。止まない雨は無いと信じながら、共に雨に濡れてやるしか出来ないのだ。




