ふうとはぐれ陰陽師
お山の麓には濃い霧が立ち込めて、一寸先も見えない白の世界が広がっている。
そんな中を、不機嫌そうな顔をした狩衣の男がまっすぐに歩いていた。歳の頃は、紗夜より少し上といったところか。お供に連れているのは、犬、猿、雉の形をした三体の式神だ。
「濃霧か……賀茂の鬼姫め。まさか、このお山のヌシを味方につけたのではあるまいな」
実は昨日も彼はこの場を訪れていた。しかし、黄昏時のお山は妙に薄暗く、何度か道に迷ったため一度出直すことにしたのだ。
付近の村落でボロ家を間借りし、夜明けとともに再びこの山を訪れたのだが、今度は濃い霧に邪魔をされて思うように進めない。男は次第に苛立ちを隠せなくなっていった。
――と、ここまでは私の仕掛けた罠に嵌ってくれている。
私たちは大岩の上に座り、男の苛ついている様子を眺めていた。
「紗夜。あの男で間違いないんだね」
「うん。流川桃生……一時は式神使いの天才とまで言われた男だよ。父の弟子だった。昔はもっと穏やかな人だったのに」
「よく知った仲だったの?」
「うん。幼友達でね、兄みたいに思ってた。でもある日、私のことを無理やり手込めにしようとしてね……。雨音と水雲が守ってくれて、大事には至らなかったんだけど」
紗夜が後方にちらりと視線を向けると、二人の鬼少女は小さく頭を下げる。物心ついた時にはもう彼女らを使役していたみたいで、何度も助けてもらったらしい。
「詳しくは知らないけどね。流川は裏で、何やら悪どいことをやらかしてたみたい。それが賀茂の本家の耳にも入って……」
「破門された?」
「うん。身柄を拘束されて、処分されるはずだった。でもいつの間にか逃げ出して――それから、私の前に何度も現れるようになった。妻になれって迫られてさ」
何度返り討ちにしても、男は諦めなかったらしい。そして、長らく紗夜に付き纏った挙げ句、彼女の暮らす屋敷を襲撃するに至り、今回の事態に発展したのだという。
紗夜の父親には既に救援を要請しているから、おそらくはそう時間も掛からずに、何人かの手練を連れて流川を捕らえにくるだろう。
だから私たちは、幻術を使ってなるべく長く流川を足止めするつもりだった。
とはいえ、相手は陰陽の術を使う者。
いつまでも素直に騙されてはくれないだろう。
「戦う準備もしておかなきゃね」
「……恩に着るよ、お山のヌシ殿」
「もう、堅っ苦しいのは無しだよ紗夜。これまで通り、ふうって呼んで。それに、私も昔はぐれ陰陽師に迷惑をかけられたクチだからね」
あの時は大変だったなぁ。
まぁ、そのおかげでお父ちゃんとお母ちゃんが出会うことになったわけだし、嫌なことばかりだったわけじゃないけど。
「ふうも大変だったんだねぇ……全部終わったら、お酒でも飲もうか。一緒に」
「えー、紗夜の絡み酒に付き合うのは勘弁だよ。それにお酒なんて、これまで飲んだことないし」
「へぇ。それは良いことを聞いた。これは極上の一杯を振る舞わなきゃ――」
そんな話をしている時だった。
霧の中から、一羽の雉が空に飛び出してくる。それはくるりと空を旋回しながら、私たちのいる大岩の方をぎろりと覗いてきた。
「ふう! あれは流川の式神だ!」
紗夜の言葉と同時に、私は雉に向かって青白い火球を放つ。それは空中で弾けると、式神を跡形もなく消し去った。
「おー、さすがヌシだね」
「油断しないで、紗夜。たぶん見つかった。こっちに来るよ」
今ので足止めの幻術は破られただろう。
見れば、男はニタァとした笑みを浮かべ、犬型の式神に跨がろうとしている。まぁ、予想はしていた事態だけどね。動くのなら今だ。
私たちのそばで、びゅんと風が吹く。
「ふう姉ちゃん! さよさん! 乗って」
そう言って現れたのは、狼の姿になった銀次郎だ。私たちは揃ってその背に跨がると、打ち合わせしていた迎撃場所へと向かっていったのだった。
切り立った崖に挟まれた、細い上り坂。
流川は懐から次々と紙を取り出し、呪を唱えてはそれらを式神に変えていく。数十を超える犬、猿、雉の軍勢が整然と並び、地面を揺らしていた。
並の陰陽師には、これほど多くの式神を使役することなどできないだろう。確かにこの男は、術に関しては天才と呼ぶべき素質を持っている。
私は幻術で大人の体を形作り、坂の上に仁王立ちして軍勢を見下ろした。
「ヒトの術者よ。ずいぶんと張り切っている様子だが、このお山にいったい何の用だい」
「妖孤……年若いが、お山のヌシか。なあに、妻になる女を迎えに来たのよ。大人しく渡しちゃあくれねえか。あんたの後ろにいる、鬼姫をな」
流川は式神の軍勢を静止し、声を張り上げる。
事を荒立てるつもりはない。自分がほしいのは、紗夜ただ一人のみ。部外者に邪魔立てされる筋合いはない。ざっくり言えば、そんな内容だ。
「そうかい。まあいいだろう。あんたの願い、考えてやらんこともない」
「ほぅ。それはまことか?」
「あぁ。あんたが、私より強かったらね」
視線が交差する。
刹那、流川は腕を振り上げた。
それを合図に、彼の式神たちは一斉に動き出した。犬と猿が地を蹴って進み、雉が空に飛び上がろうと羽ばたく。
「ギン、今だ!」
私がそう叫ぶ。
すると、崖の上から式神に向け、大きな岩がいくつも転げ落ちてきた。それは犬共の横腹を打ち、雉を跳ね飛ばし、猿を押しつぶしていく。
轟音が鳴り、土煙が上がる。
多くの式神が紙に戻って千切れ舞う。
「くっ……小癪なっ」
「畳み掛けるよ、ギン!」
先手必勝。
私は青白い火球をいくつも宙に浮かべると、順に射出して雉を一羽ずつ落として行く。
一方の銀次郎は、大斧を構えて崖から飛び降りると、流川の鼻先にそれをぶんと振り下ろした。地面が割れ、瓦礫が飛び散る。
「狼風情がっ!」
「――討つ」
流川は犬を呼び寄せ、自分を守らせる。
対する銀次郎は大斧で犬を薙ぎ払うが、奴はその隙に距離を取って新たな式神を次々と生み出していった。流川の式神と銀次郎の体力、どちらが先に尽きるかの勝負といったところだ。
一方で、猿と雉は銀次郎を無視して私たちのもとへと近づいてくる。
「紗夜、下がってて」
「ううん。私にも戦わせて」
紗夜はそう言って、両手で印を結ぶ。
すると周囲の気が揺れ動き、彼女を守る二人の鬼少女が顕現した。雨音の手には薙刀が、水雲の手には長弓が握られている。
「ふうに頼りきりじゃ、私自身が納得できない」
「分かったよ、紗夜。一緒にやろう」
迫りくる猿と雉の群れに、私は特大の火球を撃ち放つ。そしてその後ろを、雨音と水雲が意気揚々と追いかけて行くのだった。
私の火球が最後の猿の首を弾けさせると、あたりには静寂が漂っていた。犬も猿も雉も、式神はすべて紙に還っている。残るは、はぐれ陰陽師ただ一人だった。
銀次郎のそばへとたどり着けば、すでに勝負の趨勢は決していた。
青い顔をしてへたりこんでいるのは、はぐれ陰陽師の流川。その首にピタリと大斧を当て、銀次郎は涼しい顔で私を見返してきた。
「ふう姉ちゃん。こっちは終わったよ」
「ありがとう、ギン。あとは拘束して、紗夜の父親が来るのを待ってればいいかな」
「殺さなくていいの?」
「うん。生け捕りにしておこうと思って」
何かに執着している人間というのは、けっこう厄介なんだよね。特に生前から力を持っているヒトは、死後に特別な怨念を残し、そこから新たな鬼が生まれることもある。
可能なら、そのあたりの処理は紗夜の実家の方で引き受けてもらいたいからね。
私の後ろにいた紗夜が、一歩前に進む。
「流川……。ううん。桃兄ちゃん」
「……紗夜」
「ねぇ、どうしてこんなことをするの。昔はもっと、優しい人だったのに……。鬼の使役の仕方も、式神の作り方だって、私は全部桃兄ちゃんから教えてもらって……」
「あぁ、そうだったな」
流川はなんだか気の抜けた表情で、優しげな微笑みを浮かべる。ふっと息を吐きながら、紗夜のことをまっすぐに見つめた。
「紗夜。俺はさ、幼い頃からお前に優しくしておけば……簡単に喰えると思ってたんだよなぁ」
「桃兄ちゃん……?」
「ヒヒヒ……あてが外れたなぁ……ヒヒヒヒヒ……」
そんな声に、背筋がぞっとする。
見れば、流川は小さく肩を震わせながら、ニンマリと口角を上げて中空を眺めていた。なんだか嫌な予感がする。
「ギン、首を落として」
「ふう姉ちゃん?」
「早く!」
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
慌てた銀次郎が大斧を振るうと、流川は人ならざる動きでそれを避け、大きく下がる。そして、懐から取り出したのは……。
「団子?」
「キヒヒヒ……鬼備団子。幾人もの幼子を生きたまま煮詰めて煮詰めて、鍋底の一番濃い血溜まりを捏ねてこさえた団子さぁ……」
「なっ……」
「鬼姫の肝を先に喰らっておきたかったが、そうも言ってられないからなあ」
止める間もなく、流川はその団子を口に放り込む。
その瞬間、彼の体は変化を始めた。
バキバキと鳴る体のあちこちから、大きな骨が突き出る。そして、この世のモノとは思えない痛々しい叫び声を上げながら、そこに肉が盛り上がっていく。あたりに漂う臭気に、草木さえ萎れた。
「――おオおオおおおオおおオオおおオオオ」
雄叫びを上げるのは、一体の大鬼だった。
身の丈は元の体の四、五倍ほどはあるだろう。赤黒い肌と頭の一本角は、彼が既に人を逸脱した存在であることを告げていた。