1.軌国の弟子
遥か遠景を見渡す丘。
その上に立つ桑の木の葉がさわさわとそよめき、優しい風が辺りを撫でる。
木の下で静かに書を読む黒髪の少年のすぐそばを、枯れた葉が舞い落ちた。
「もうこんな時間か」
紐で束ねた長い黒髪が風にたなびく。
ふと頭をあげると早くも日は傾きかけていた。
目を細めて、暮れゆく橙の空を見つめたとき。
「亂夜!」
その声は頭上から降ってきた。
「ぎゃっ!」
いや、声ばかりではない。
声の主まで共に落ちてきた。
手加減のない重力が、少年の腹にぎゅっとくいこむ。
「どう?気配消すの、だいぶ上手になったでしょう?」
「いってててて!相変わらずだなっ、猿かよお前は!」
「おやおや?年長者に向かって何よ、その言い草は」
猿と呼ばれた娘が、少年の腹からゆっくりと腰を上げた。続いて頭をくいと上げ、髪を風の流れに委ねる。色素の薄い長い髪が、すらりと夕空を泳いだ。
「人を突然押しつぶす奴に年長者も何もあるか!この猿!猿人!」
「おのれ亂夜め、言わせておけば!」
娘は落ちていた二本の小枝をすぐさま拾い上げると、亂夜に向けて構えた。
さながら双剣をもって戦おうとするかのような格好を見せ、娘がキッと亂夜を睨む。
「得意の武器はここにはあらず!槍の亂夜、敗れたりいっ」
「痛、痛、いてえって!」
かつんかつんと枝が幾度か頭に当たったところで、二人を呼ぶ者の声がした。
「おーい。朝欄、亂夜。日が暮れるから戻れ。狼に食われるぞ」
「蝋昼!」
「兄貴!」
丘をゆっくりと登ってくる偉丈夫の姿を見るや否や、二人は一目散にそちらへと駆け出した。
高い背丈とがっしりとした体躯。髪をまとめた団子のそばからは、髪留めの細長い紐が風に乗ってたなびいている。
男の逞しい腕が近寄ったふたりの頭を捉え、ぎゅっぎゅと擦るように撫でまわした。
「いってててて!」
「痛い、痛いよ蝋昼!」
「オイ?二人とも。日暮れまでに玄関を掃き清めておけって言ってたこと、忘れたのか?」
蝋昼が不穏な笑みを浮かべるのを見るや、朝欄と亂夜がおずおずと顔を見合わせた。
「ご…ごめんなさい」
「…で、でも、別にじい様がお帰りになるわけでもないし…」
「何言ってんだ。もうお帰りになるぞ」
「えっ?」
「あ、本当だ!導師様の気配がする!」
言葉に反応して勢いよく顔を上げたふたりの顔は、豆鉄砲を食らった鳩のような表情をしている。
その様子を満足げに眺めたのち、蝋昼は自身の登ってきた丘の麓を指差した。
やや急な丘陵線の向こうから、線の細い老人がゆったりとした足取りでこちらに近づいてくるのが見える。
目を輝かせて駆け出そうとした朝欄と亂夜だったが、二人の頭は蝋昼に強引にひっ摑まれたままだ。
「さぁ、ここで大人しく導師様にご指導いただくとしようか。朝欄、亂夜」
「いってててて」
「いったたたたたぁ」
ギリギリという音まで聞こえてきそうなほどの握力。
その大きな掌に捕らえられた二人の子どもの身体は、老人が丘の上までやってきた時には既に魂の抜け殻のようになっていた。
ぱっと手を離すと、二人はくらくらとした千鳥足でその場を回った。
全てを見通すかのような優しい笑みを浮かべると、老人の白く長い髭が口元でゆらりと動いた。
「ーーおや。蝋昼、折檻はほどほどにせよと言うておるだろう」
「はい。ですから、ひと月前に導師様がお出になられてから、手を出したのは今日が初めてにございます」
「お前の力は強いからな。これ、大丈夫か二人とも」
ようやく解放された二人は、暫くの間足をしどろもどろに動かした後、漸く老人の顔に焦点を当てて挨拶をした。
「おおおおかえりなさいませ、導師様」
「じっじっじい様、お久しぶりです」
若干呂律の回らぬ言葉を聞いて、蝋昼が僅かに苦笑いした。