前編
夢ならばどれほどよかったでしょう。
この俺が、小型扇風機の姿で、看護師達の詰めるナースステーションに晒されようとは。
そして、約5分後には術が解け、彼女らにフルチンを晒す運命にあろうとは。
それもこれも、横暴かつ暴力的な兄上と、獰猛かつ専制的な姉上の所為だ。
早く……早く何とかしなければ……
事の発端は、ケガをして入院中の兄上からの呼び出しであった。
「ちょっと手伝って欲しいことがあるから、30分以内に俺の病室へ来い」
片道40分かかる病院に、兄上は毎日のように俺を呼びつける。俺は貴重な高校2年の夏休みに炎天下のなか日参させられ、兄上の戦闘訓練に付き合わされているのだ。一族に伝わる、変化術を使った戦闘訓練に。
俺の一族は妖狐や化け狸と混血を繰り返してきた特殊な家系で、数十年に一度、様々な能力を持った妖術使いが生まれる。今は、俺たち三姉弟と他数人が妖術使いだ。
兄上は体を部分的に強靭化したり、武器や重機に変化させたりする術を使う。この能力を使って方々で派手に戦い、挙句大怪我をして入院した。だが、安静にしていれば良いのに、身体が鈍ってはいけないからと、辛うじて無事な左腕で俺に戦いを挑んで来る。
俺は戦いが得意でないので、正直勘弁願いたい。しかし断ったら後が怖いので、大人しく言いなりになっているのだ。
汗だくになって兄上の病室に辿り着き、ドアを開けた俺はギョッとした。一昨日まで満杯だった部屋は、嘘のようにガラガラになっていた。たった一人で残された兄上は、その引き締まった巨体には窮屈そうなベッドで、仰向けになってスマホを弄っていた。
「兄上、調子はどうです」
「おい、遅ぇじゃねぇか……最悪だよ」
兄上はノロノロと気だるげに言った。こんなに元気の無い兄上も珍しい。日に焼けた赤銅色の肌も、心なしかハリが無くなったように見える。
「大学の期末テスト中みたいな顔しちゃって。何かあったんですか」
「……お前、ここに来た時に何か感じなかったか?」
そう言えば、エントランスに比べて、この部屋周辺は異常に暑い。
「この暑さ……空調、壊れてません?」
「昨夜からさ。体力のない爺さんとチビッ子は、空調が無事な他の病室に移ったんだけど、俺は比較的体力があるのを理由に残されたんだ」
「そりゃあ難儀ですね。他の患者さんを優先的に移動させたら、移れる部屋がなくなったんでしょうけど」
「いいや、断じて違う!」
唐突に兄上は、左腕を振り回して喚いた。
「絶対、姉貴の差し金だ!俺が注意されても組手をやめなかったからって、懲罰でこんな事をしやがるんだ。横暴だぜ、横暴!」
姉上は、この外科病棟に勤務する看護師で、兄上の看護を担当しているのだ。
「一族会の中ならともかく、病院での姉上にそんな権力あるかなぁ。そもそも、言う事を聞いて大人しくしない兄上が悪いんでしょ」
「うるせぇッ!……叫んだら余計に暑くなったわ。おい、風を送って涼しくしてくれ」
「そんなこと言っても、ここには扇風機も何も有りませんよ」
「お前が扇風機になるんだよ!」
「えぇ……」
なるほど、俺を呼んだのはこの為か。
俺は、妖術を使って様々な物に擬態できる。知っている物体であれば何にでも、脳内でイメージした通りに姿を変えられるし、機械などの動きある物なら、メカニズムが分からなくても、イメージした通りにそれっぽく動くことができる。
ただし欠点が3つある。術が1時間後に自動で解けることと、体に触れられると術の発動も解除もきかないこと。そして服ごと擬態はできないので、術が解けるとフルチンになることだ。
自分では使いどころが分からない能力だが、兄上はこれに目をつけたらしい。
「嫌ですよ、外で素っ裸になるなんて。それに、みだりに術を使ったら姉上に叱られます」
「周りに誰も居ないし、こっそりやれば大丈夫だろ」
「……もし断ったら?」
「退院してから、俺の特大キ〇タマ袋でシバき倒す」
冗談じゃない。米俵大に巨大化したアレの一撃を食らったら、心身ともに再起不能になる。
「わかりましたよ……その代わり、術が切れる時刻までに、俺自身で術を解いて服を着させて下さいね。あと、ベッドに人を近づけないで下さい」
「分かってるって。じゃ、頼むわ」
こうして、俺は電池式の卓上小型扇風機に擬態した。
それから、およそ50分が経った。
暑い暑いと言っていた兄上は、イビキをかいて昼寝を始め、一向に起きる気配がない。
もう術を解いてしまおうか、と思っていた時だった。
病室の扉が静かに開き、誰かが入って来た。
カーテンの僅かな隙間から目を凝らすと(形状的に目は無くなっているのにおかしな表現だが)病室の入口に若い女性看護師が立っていた。血管が透ける程に白く透き通った肌と、スラリと伸びた手足をしたその人は、ちょっと室内を見渡すと、艶然とした笑みを湛えてこちらへ近づいてきた。その美しい顔にはおよそ似つかわしくない、この部屋を覆いつくすほどの禍々しい妖気を放ちながら。
絶対強者たる、我らが姉上である。
姉上は13歳でその恐るべき能力の数々を開花させて以来、一族の首領として育てられた。その暴力と胆力を一族の皆が恐れており、俺も兄上も姉上には頭が上がらない。
全身が張り裂けるような痛みを一晩中流したり、無意識下に侵入して本来有りもしなかったトラウマを植え付けたりするような、エゲツナイ妖術を駆使して、時に脅し、時におだてて、俺達を良いようにこき使うのだ。そんな時は決まって、こんな妖気を発している。今だって、何か良からぬことを考えているに違いない。
(しかし何だ?今日の兄上は大人しいから、折檻の必要は無いだろうに)
姉上は兄上のベッドを囲むカーテンを開けて、寝ている兄上の様子を窺い、続いて俺の方を見た。
俺の擬態は姉上でも見破れない。見つかりたくないので、このままやり過ごそうとも思ったが、俺の術が解けるまでに時間があまり無いことを思い出した。もし姉上がこの場で何らかの処置を始め、さらに同僚の看護師を呼んで来たなら、かなり厄介なことになる。姉上一人しか居ないこの状況で術を解いた方が、他人の目に触れるよりマシだろう。俺は元の姿に戻ろうとした。
ところが姉上は、
「へぇ……ちょっと借りていこうかな」
と言ってニヤリと笑うと、俺の胴体を無造作に引っ掴み、病室から持ち去った。体を掴まれていては、うまく術を解くことが出来ない。俺は成すすべなくナースセンターに連れて行かれ、看護師達にお披露目されたのだった。
「みんなー!うちの弟が良い物持ってたから、借りて来たよッ!」
ナースステーションも空調が壊れていたそうで、看護師達は暑さに参っていたらしい。
「先輩、有難うございますー。これから蒸し暑い中で書類仕事しなきゃいけないから、憂鬱だったんですよー」
おっとりとした調子でそう言ったのは、姉上の後輩の大橋さんだ。彼女は近所の大学のミスコンで優勝したこともある美人さんで、俺は見舞いに来る度に彼女に会えないかと楽しみにしているのだ。
(よりにもよって、こんな形で会うだなんて……)
「じゃあ、まずは大橋ちゃんに貸してあげようね。他にも使いたい人いるだろうから、10分経ったら交代な」
「はーい」
(姉上、こっちはあと10分と持たないんですが)
なんとかして姉上と意思の疎通を図りたいが、生憎テレパシーは使えない。試しに声を発しようと気張ったところ、「ふおぉぉん」という間抜けな空気音がしただけだった。
助けになるアイテムは無いかと左右に首を振って見回したら、書類をあちこちに撒き散らして大橋さんを困らせてしまった。
そうこうする内、タイムリミットは3分を切った。いよいよ焦り始めたとき、大橋さんの背後の壁から不気味な声が聞こえた。
『ぬかるなよ、兄弟。確実に仕留めるんだぜ』
もう一つの声が答えた。
『勿論だぜ、兄弟。待ちに待った獲物だからな』
それらは、普通の人間には聞こえない、妖怪や霊の発する声だった。