逃亡劇Ⅱ
「はぁ……はぁ……。すぅ……はぁ……」
乱れた呼吸が治まり、土埃を払いながら立ち上がる。
早くこの場所を立ち去ろう。いつか見つかるかもしれない。
そう思い、この場所を立ち去ろうとした時だった。
「……!」
チャリン、と慎ましい鎖の音が聞こえた。勿論、私から発した音ではない。
まさかと思った。アイツがやって来たのか?
背中が摩る様な悪寒が走り、恐る恐る後ろを振り向いた。
そこに、ひとりの少女が立っていた。年かさは、私より少し上ぐらいだ。
睨みつけた青藍な瞳で、妖艶のようにまろやかな体つきと白い肌に、私と同じように薄汚れたワンピースのような服を着こなしており、嫌にも目に付く両足に括りつけた足枷。
まさしく奴隷内で聞く噂の奴だった。
逃げた奴隷を抹殺する人間兵器が、ここに降臨してきた。
「……ハ……ハクア……!」
唇を震えながら、そうつぶやいた。
――ハクア。この国の少数民族・夜狐の血を引く少女。
夜狐は、一般の人間とは思えない能力を持っている。特に視力と嗅覚は、普通の人間の約五倍あると言われている。だが単純に、それだけではない。夜狐は、あの百獣の王ライオンや約一トンのある象さえ倒してしまう程怪力の民族である。
剣だろうとも、拳だろうとも、とにかく人と戦っても誰も勝てない。
「あ……あああ……」
……思わず腰が抜けてしまった。
彼女は、主人の命令に従って逃げた奴隷を殺す任務を遂行している。
見つかったら最後。確実にミンチされるまで逃げられない。
そして、彼女から逃げ切れた者は、噂として誰一人居ない。
「殺す……ソレが命令」
国の東方部に住む異邦人の訛りみたいな声が、耳に響かせる。
死ぬのは覚悟していた。でも、こんなにも死の間近はおぞましいとは、思ってもいなかった。
「ぐ……う……」
落ち着け……落ち着け……。こういう時こそ冷静になれ……。この場を切り抜ける方法は……。ぐるりと目を回す。起死回生のチャンスを探していた。
「はっ……」
私は屋根に目をつけた。……これなら行けるかもしれない。
にやついた顔をしながら、ゆっくり腰を上げる。
「ドウした? 血迷ったカ?」
彼女からおぞましい殺気が漂わせて、いつでも襲いかかる体勢を取っていた。
正面からぶつけてもこちらが不利になる。なら、逃げるしかない。
――たとえ無理だとしても、それが最後の選択肢だ!
「すぅ~~」
大きく深呼吸し、一八〇度回転する。そして、全速力で逃げた。
「待てっ! 絶対逃がさない」
一瞬遅れて、ハクアは睨みながら追いかけた。
相手を目晦ましながら路地の裏角を曲がり続けて、あるものを探していた。
とりあえず、あるものが見つかったので一先息を整えていた。
「はぁ……」
その正体は、目の前にゴミの木箱がある。それを使って屋根に上って逃げる寸法だ。
さっき居た場所は、屋根に登れる土台が無かった。あえて逃げるフリをして、土台を探して――――見つけた。
「――よし」
見た所敵はいない。
だが、まだ居るかもと思ってしまうから、ドクドクと心臓の鼓動の早まりが収まらない。
木箱に上り、更に屋根の上によじ登る。そこには誰もいない。少しばかり心臓の鼓動が正常に戻ってきた。屋根上を走り、少なくともここから離れようと考えた。
――しかし、走って数メートル先に先客が待っていた。
「見つけた」
やはりハクアであった。私より先回りされて、待ち構えていた。
思わず冷や汗をかく。まさか先読みされているとは、予想外だった。
「――うう」
恐れて、声さえ出ない。まさしく人間兵器と呼ばれる理由が、改めて感じさせる。
ある意味直感が鋭すぎる。私とほぼ同じぐらい道を知り尽くしているな。
「アナタは、ここで死ね」
彼女は、冷血させる言葉を吐き捨てた。
そう言うと、屋根瓦が抉れ取れるほど強く踏みつけて、徹甲弾のような拳を放つ。
しかし少女は僅かに遅れて避ける。すれ違いざまに起こった風は、耳の鼓膜を破く程の威力をだしていた。
大胆に仰け反って、体がよろけて滑り転んでしまった。
「うう……」
腰を打ち付けたが、大した痛みではなく良かった。
すると彼女は転んだ私の元を影で覆って近づくと、見据えながら諦め口を言った。
「諦めろ。もうお前に逃げる術はない」
――分かっている。分かっていたさ。
――でも、これでいいのか?
頭が錯乱し、ふと額に手をあてる。私は、広い世界で生きたい。
――なのに、ここで道を閉ざされようとしている。
「…………」
暫しの沈黙が流れ、少女は唇を噛みしめた。
――別に負けを認めたわけではない。
ただ、こんな奴に塞がれるなんて、嫌で睨んでいるだけだ。
「だったら、ひたすら逃げてやる」
反逆者のように抗う答えを発した。
すると、ハクアは唇を綻ませながら――
「面白い。どこまで逃げ切るか、試そうか?」
兵器である彼女らしくもない挑発の言葉を発していた。
いつもならすぐ殺す兵器が、こんな挑戦をする筈無いのに、珍しい光景だ。
――挑戦しているのか? 面白い。やってやろうじゃない!
「分かった」
「1分、待つ。その間に逃げ切れるのが先か、それとも追いつかれ私に殺されるのが先か」
「当然、逃げ切れる方!」
痺れる足を立ち上げて、屋根上を駆け抜けた。
屋根はメシメシと不気味な音を響かせ、今にも崩壊の危険性がある感じだった。
下手をすれば、崩れて骨を折れるかもしれない。でも、それならまだ逃げていたほうがいい。
「うそっ……」
目の前に道を塞ぐ障害があった。それは、2メートルぐらい路地で空いた屋根を三つ続けで翔ばなければならないのだ。
最初は、恐れなしにはい、はい、はいとリズムを合わせるやり方で飛ぶ。
(――よし)
3つに連なる家の屋根を軽々と飛び越えた。
でも、これはまだ序盤に過ぎない。次が勝負時になる。
この次にある、およそ5メートル離れている屋根に飛び乗る事だ。
あのハクアなら、楽に飛べる事だが、一般な私が飛べるだろうか。
しかも足枷しているので、足幅を広げるのも限度がある。
――これは、運に賭けるしかない。
「どりゃあああああああっ」
無我夢中に跳んだ。羽があるように見せつけるみたいに私は、空を舞った。
だが、羽は簡単に千切れ落ちてしまった――。
「ひゃぁ……?」
やはり、足枷のせいで跳力が足りなかったのだろうか?
そのまま飛べずに、体が重力に引き寄せられた。
「ひゃああああああああ~~」
――何でこうなってしまったのだろう。
私が、世界を見たいからこんな事になった訳?
――ああ、馬鹿だった。甘く見ていた。
そもそも、奴隷が脱走するなんて普通無理がある。
だって、逃げた時点で反逆者扱いされるんだから。
「――あっ」
何で、とずっと頭の中で反芻しながら呟き続けた。
お母さんから聞いた話だけど、昔は栄えていたのに、何故こんな事になってしまたんだろうか?
この国が、いけないから? この国で生まれた私がいけなかったから?
(もう、いいや……)
こんな腐った国で生きるなら、もう死ぬしかないのか――。
真っ青な空を見上げながら錆び付いた地面に叩きつけられ――る筈だった。
「はっ……、やべっ……」
私の方へ向けての声だろうか、こちらの方へ走る音が聞こえる。
――もしかして、私を助けてくれるのかな?
勇敢にも私を助けようとした人がいるとは思ってもいなかったから、少しばかり困惑するが、私はその人の顔を見ようと目を背けた。
黒々とした長い髪に、男みたいな鋭い目付き、この国にある服装とは明らかに異色の服を纏っていた。
一体誰だろうか? 何故、私を助けるのだろう。だって、私はもう死ぬのに……。
だけど、あの人から伝わる視線が痛いほど優しく感じる。
まるで、空の上から見守り続ける亡きお母さんのような温かい抱擁感。
……もしかしたら、私。この人と一緒にやり直せるかな……?
なるべく、その人に私の体を受け止めやすくする為に動かした。
「がっ……」
しかし、その人の頭に私の足枷が直撃して下敷きになり、私は体を強く打った。