森の中の女の子
一筋の光さえ差すことのない、何処とも知れない闇の中。
身動き一つとれない王子さまは薄れゆく意識の中、微かに聞こえる声に耳を傾けていました。
――好き……大好き、……あなたが好き。
とても愛しげで優しく柔らかい――それはそんな声でした。
◇
広くて深くて暗い森の奥、そこに一人の女の子が暮らしていました。
女の子はいつも一人ぼっち。寂しくて悲しくて心細くてたまりません。
森で暮らす住人たちは女の子を嫌っていて、近づこうとするとすぐに逃げてしまいます。だから女の子には友達もいません。
だけど女の子は森から出ることもできません。
もう亡くなってしまったお母さんから言われていたのです。
――いいかい、森の外には怖い怪物がたくさんいるの。だから森から出てはいけないよ。
素直な女の子はお母さんの言い付けを今でも固く守っています。
だけどやっぱり寂しくて、たまに森と外との境目に様子を見に行っていました。
そんなある日、いつものように森の端へと足を運んだ女の子は、いつもと違うものを見つけました。
それは一人の男の子でした。
その男の子は、女の子が森の中で初めて見る相手でした。
男の子は傷だらけで意識を失っているようです。
――たいへん!
心優しい女の子は、男の子を自分の住処へと連れて帰りました。
そして傷の手当てをして一生懸命看病します。男の子が熱を出せば解熱の薬草を探し、喉が渇くようなら水を与え、汗をかけばすぐに拭き、夜も寝ないで頑張りました。
そんな女の子の介抱の甲斐もあって、男の子は眼を覚ましました。
――助けてくれてありがとう。だけど僕は国に帰らなければなりません。此処が何処なのか教えてくれませんか?
男の子は女の子にお礼を言うと、頭を下げてそんなお願いをします。
けれどそんな男の子に女の子は困った顔をしました。
――ごめんなさい。わたしは森の中から出たことがないから貴方の国のことは分かりません。それに今の貴方が森から出るのは危ないと思います。
女の言葉に男の子は悔しげに俯きました。その両目は固く閉じられています。
怪我はある程度治ったものの、男の子は目が見えなかったのです。
それから男の子は女の子に自分の身元を説明しました。なんと男の子はある国の王子さまだったのです。
そしてこれは王子さまも知らない事ですが、彼をこんな酷い目に遭わせたのは王妃さまでした。
王子さまは第一子ですが側室の息子、そして王妃さまの子供は第二子の上に娘だったのです。
王子さまの存在を疎ましく思った王妃さまは、人を雇って王子様を痛めつけた上に立ち入り禁止の森に捨ててくるように命じました。万が一命が助かっても戻って来られないように、特別な薬で目の光を奪う念の入れようです。
そんな自分の境遇を知らない王子さまでしたが、今の状態で国に戻ることが難しいことは理解出来ます。
なので心配する女の子の目の前で王子さまはガックリと肩を落とすのでした。
◇
王子さまは傷が癒えるまで女の子の住処に滞在することになりました。
初めは少し怖かった女の子でしたが、しばらくすると王子さまとの生活をとても心地良く感じるようになります。
お母さんが亡くなって以来ずっと独りぼっちだった女の子にとって、話しかければ答えてくれる相手がいるというのは温かく嬉しい事だったのです。
女の子は王子様のために花を摘んできました。
唄を歌いました。
ご飯を捕ってきました。
王子さまは女の子に大変感謝して、代わりに女の子に知らない外の世界の事を語りました。
住んでいる城の話をしました。
自分に甘える可愛い妹の話をしました。
年に一度のお祭りの話をしました。
そんな日々の中で二人はとても仲良くなりました。
だけど同時に王子さまは少しずつ元気をなくしていきました。
身体の傷は癒えても心の傷はそうではありません。
国元から離れて見知らぬ森の中、目は見えず満足に動くことも出来ない。
どうしようもない現実は王子様の心を鑢のように削っていったのです。
――此処で待っていて。もしかしたら貴方の目を治すことが出来るかもしれないから。
そんな王子さまの姿を見ていられなくなった女の子は、そう言い残して森の更なる奥へと向かいました。
滅多なことでは近づくことのない深くて暗い森の奥、底の見えない濁った沼地の畔。
其処にはあまりに場違いな立派な一軒家が建っていました。
――ヒッヒッヒ。そら、お望みの薬だよ。
そう言って女の子に薬の入った瓶を放ったのは長い鷲鼻が印象的な皺くちゃのお婆さんでした。
お婆さんは女の子のお母さん、そのまたお母さんよりずっと前からこの森の奥の一軒家に住んでいるのです。
とても物知りな人なのですが、凄く意地悪な人なので女の子はあまりお婆さんに会いに来ることはありませんでした。
――お礼? ヒヒッ、そんなものはいらないさ。……だがまぁ、そうさね。後でもう一度うちに来てどうなったか教えておくれ。お礼はそれで十分さ。
だけど今回のお婆さんは気味が悪いくらいに親切でした。
最初のうちはあからさまに面倒くさがっている様子だったのですが、女の子が事情を話すとニンマリと笑って目を治すための薬を作ってくれたのです。
女の子はお婆さんにお礼を言うと、踵を返して王子様の待つ住処へと帰りました。
目が見えるようになったら何をしよう、どんな事を話そう、帰る道すがらそんなことを考えると女の子の心はドキドキと弾みました。
――この薬を塗れば目が見えるようになるのですか?
お婆さんに作ってもらった薬を持ち帰り王子さまに説明すると、驚きつつも喜んでくれました。
このままずっと見えぬものと諦めていた目が治るのです、喜ぶのも無理がありません。
そんな王子さまの喜ぶ姿に女の子も嬉しくなりました。
――…………?
お婆さんの薬は効果覿面でした。
王子さまの綺麗な空色の瞳に薬を塗ると、闇に閉ざされていた視界に少しずつ光が射し、ぼやけた輪郭が形作られ、徐々に色彩も戻っていきました。
――何から何まで本当にありがとう。もしも貴女さえ良ければ僕と一緒に国に……
女の子が持ってきてくれた薬のおかげで光を取り戻した王子さまは、そう言ってぐるりと首を巡らすとピタリと動きを止めました。
――……?
王子さまの様子に首を傾げる女の子の前で、王子さまの表情はみるみると変わっていきます。
初めは息を呑み、それから徐々に顔色を悪くして、顔が強張っていきます。それは女の子が一度も見たことがない表情でした。
そして――
――うわぁああああああああああっ!?
喉が裂けんばかりの悲鳴を上げて、王子さまは女の子から逃げ出しました。
◇
王子さまは走ります。
一心不乱に暗くて深い森の中を。
草木をかき分け、木の根を踏みつけ、時折転んで泥だらけになり、体に傷を増やしながらも必死で逃げ続けます。
行く当てなんてありません、ただただこの場から逃げる為だけに走り続けます。
そんな王子さまの後ろを、
――……。
女の子は黙って追いかけます。
どうしてこうなったのか分かりません。
一度だけ後ろから王子さまに声をかけたのですが、王子さまはますます混乱したかのように叫び声を上げて速度を上げてしまいました。
だからその気になれば追いつけるものの、付かず離れずの距離を維持して追いかけています。
――だいじょうぶ、きっと何か誤解してるだけ。ちゃんと話せばまた一緒にいられるはず。
女の子は王子さまを追いかけながら、そう自分に言い聞かせます。
今は混乱しているだけ、ひょっとしたらお婆さんがなにか意地悪をしたのかもしれない。走り疲れて足を止めたらもう一度話しかけよう。
そんなふうに考える女の子でしたが、なかなか王子さまの足は止まりません。
それどころか、このままでは森と外の世界との境界までたどり着いてしまうかもしれません。
――いやだ、行かないで。お願い、傍にいて。
お母さんの言いつけで女の子は外の世界へは出られません。
王子さまが森から出てしまえばきっと二度と会えないでしょう。
そんな未来を想像してしまった女の子の胸は張り裂けそうに痛みました。
――どうしよう、どうしたらいい、どうしたら――――
寂しくて、悲しくて、悔しくて、どうしたらいいのか分からない女の子の脳裏を過ぎる記憶がありました。
――……あ、そっかぁ。
こういうときにどうすればいいのか、それを生前お母さんが言い残していたのを思い出したのです。
安心したように柔らかく微笑んだ女の子は、駆ける足に強く力を入れて思いっきり踏み出しました。
◇
一筋の光さえ差すことのない、何処とも知れない広くて深くて暗い森の中。
一人佇む女の子は呟きます。
――好き……大好き、……あなたが好き。
とても愛しげで優しく柔らかく……なによりどことなく満足げな――それはそんな声でした。
そして女の子の足元には――
王子さまの履いていた靴が片方……中身ごと落ちていました。