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雨が降っていて、くそみたいにぬれねずみになり、帰ってきた。帰りにスミノフアイスをまず一本買って、一気に飲み干し、乗り換えの駅にあるコンビニでもう一本買って飲んだ。嬉しいニュースがひとつ。ベースが近々帰ってくる。オレが生きていて欲しいと思う数少ない人間であり、嬉しく思う。明日は早番なので、ドウジマの話を練っていると寝坊する。しかし、何かを書きたいので、これを書いている。
他の話であげた通り、ノルウェイの森をかった。上下巻買った。まだ、読んでいない。三島ゆきおと村上龍(敬称略。理由は、リズムが悪くなるから。さん、さんなんて、ニンジャスレイヤーみたいだ。)のエッセイを二本ずつ買い、谷崎潤一郎という人の本も買った。一番最後か、谷崎さんの前になると思う。それで、いくつか感想をもらったのだが、オレが村上春樹を嫌いな理由が少しわかった。これは感想を書いた人を批判するわけではない。オレは、何も行動を起こさない人間が一番嫌いだ。だから、冷笑し、おお、またムラカミ(何故か、オレの嫌いなスノッブ連中は、作家を呼び捨てにする。)のミリキをわからん繊細でないバカがいるのか、みたいな奴らよりは好感が持てるし、立派だと思う。ただ、オレの好みでないだけで、オレ自身に何か価値があるわけでもないので、気にする事はないと思う。
それは村上春樹の文体を真似て書いたものだったのだが、そこで気づいた。オレは一つの何かを話題や共通性にして、確認しあう奴らが嫌いなのだ。
あいつらは、基本的に、モノを確認しあう。皆がイイモノだという。だから、イイ。ワルイというから、ワルイ。それで、わかるやつは、わかる。みたいな暗号を楽しむ。それで、自分たちは特別な共同体の一部だと確認しあい、安心する。それが、気持ち悪いのだ。
はっきり言うが、その共同体の中で特別な人間というのは、村上春樹本人しか居ない。オレはまだ読んでいないが、それだけの人に受け入れられる力があるからだ。
しかし、何故か村上春樹は、その、同行の志を見つけては、ニヤニヤするような連中によく好かれる。何故かは知らないが、ちらと見た所サリンジャーに似た文体という記憶があり、それがなんだか、少年期の純粋性だとかをわかっている自分は特別だと思うようなクソ以下の連中にウケがいいのだろう。
まあ、だから、オレはライ麦畑は好きで、ナインストーリーズもフラニーとゾーイのあらすじを聞いた後は、ああ、結構面白いなあ、と思ったので、意外とハマるかもしれない。要するに、好きな連中を、嫌いなのだ。
オレはネットをやっている時期が長い。引きこもりをしていた時期が一年か二年あり、その時は特に、ネットスラングを共通の価値観として持つ共同体に居て、そこは心が安らげた。異常である自分が、社会の共同体に参加できている気がしたからだと思う。(これって上にあげたニンジャスレイヤーもそうだな。あいつらも嫌いだ。)
人生は長い。(短い奴も居るけど)歩き続けていると、疲れる。その時、そういうところに腰掛ける事は、間違ってはいないし、大事だと思う。問題はその後で、そこに腰掛けているばっかりで、まったく的外れな、いうなら、自分が居る事を証明するためだけに椅子をギシギシ揺らすような事は、まったく意味がない。そんな事を続けていたら、ダウナー系のジャンキーみたいに、内臓が体と同化して、不健康になる。そのまま年をとった後、ふと、椅子から立ち上がってみる気になった時、自分が走れなくなっている事に気づいて、失敗したなぁ、と思うだけだと思う。
オレは別に、座っている連中の事はどうでもいい。ただ、そういう連中がオレの歩く道の目の前に居て、オレは、邪魔だし、醜いから、消えてくれと思う。同じ空気を吸っている事が我慢できない。それだけの事だ。それで、あ、これって、ナチスの妄信的なユダヤへの嫌悪に似ているな、とおかしくなって、あの話を書いた。
ハルキスト共を、収容所に叩き込め!
オレが話を書く理由。
オレは正直なところ、純文学と呼ばれるやつらと、そうでもないやつらの違いがわからない。ラノベはわかる。スニーカー文庫とか、そういうところから出ていて、乳を出した女が表紙の本。
まあああいうものは嫌いだけども、オレが話を書く理由というのは、自己表現としてもっとも楽だからだ。
昔からオレはアホな話が好きだった。たとえばレストランに行って、コロッケばっかり食べてる奴が居るとする。そしたらオレは友達にこういう。おい、あの人たぶん、故郷にジャガイモしかないんだよ。そういう星から来たんだ。仲良くなれる奴というのはこう返す。よっぽど寒いか、貧乏な星だったんだろうな。そうして、ありもしないジャガイモ星の話で、一時間ほど盛り上がる。そういうものが、好きだった。
しかし、そういう話は、シリアスなものには出来ない。理由は簡単、笑えないからだ。例えば、故郷が貧農で、過去母親との唯一の接点が馬鈴薯だけだったから……という具合。オレはそういう話もすると、楽しくなるだろうと思っていた。しかし、笑えないから、出来ない。でもオレはそういう自己表現が得意で、好きだった。
曲や絵は、難しい。忍耐がいるし、技量の良し悪しがはっきり出る。文は、面白ければそれで許される。だから、楽なのだ。じゃあパンクロックは? という話になるが、パンクロック風の曲を作っても、アレッ、どこかで聞いた事あるぞ、というフレーズによくなる。文は細部をかえるとまったく違ったものになる事がよくあるし、頭の中で人と人が会話してるだけである程度は成立するので、簡単だ。
だからこういうバカバカしい話を書いてる
なぜ、醜い豚のような女ほど、ハイヒールをはくのだろう?
オレは女の脚が好きで、キレイな女が黒いストッキングをはいて、ハイヒールをはいていると、オッ、と思って、興奮する。
豚のような太った醜い女は別だ。ああいう女がハイヒールを履いていると、豚の蹄にしか見えないので、気持ちが悪くて、仕方がない。
じゃあオレはそれをいえるほどハイセンスか、美しいのか? と聞かれると、そういうわけではない。オレは第一にめちゃくちゃに醜いし、服のセンスは悪い。よく、おっさんくさいと言われる。
オレがなぜそれを嫌いなのかというと、醜い上に、似合ってない上に、自分で好き好んで選んだ服装には見えないからだ。
太った醜い女でも好感をもてる女は多い。そういう女は大抵それをわかっていて、変に背伸びをした格好はしない。いつも朗らかで、笑っている。性的な興奮はしないが、恋人になって欲しいとは感じる。(そういう感情の方が美しい、と感じる。)
逆に死んでほしいと思う女は、どこかのファッション誌からそのまま盗んできたような格好を、今の自分の体をそれに合わせる努力もせず、ただ着ている。それが、嫌で嫌で仕方がない。
オレはファッションセンスは悪い。でも、オレはしたい格好をしている。好きな古着屋に行って、ワオ、こいつはトラヴィス・ビックルみたいだ。みたいな服を適当に買って、好きなように着ている。だから、オレは別に誰になんと言われようと気にしない。
死んで欲しいと思っている女は、気にするだろう。何が言いたいのかうまくわからないな。つまり、そういう事。
最近、みしまゆきおと村上龍の本を読んでいて気づいた事がある。
現代は、巧妙に、残酷さを隠す事に重点が置かれている。
失敗したらホームレスになるよ、というぐらいの事しかない。それは、ホームレスと自分の居る世界をまったく分けてしまっていて、表明や、身近な話とはいえない。明日自分がホームレスになるかもしれない、という話ではない。
上にあげた人たちは、もう単純、シンプルに、クズはクズだ。努力をしない奴はクズだ。と言う。それがオレにとっては、嬉しい。それが違う時代の違う思想の人が違う風に言う事によって、それは多角的で、普遍的なものだと感じ、ウソではなく、点と点がつながり線になって、そこにオレが加わって、面になった。
巧妙な偽善に、平成の時代は常にあてられている。毒気と言ってもいい。濃いマスタードガスではない。巧妙に、死んでいくような、体にまとわりついて離れない、まさしく、極厚コンドームのようなもの。好きな映画に、未来世紀ブラジルというのがあって、そのワンシーンに、自爆テロが上流階級が入り浸るレストランで爆発テロがあり、レストラン側が最初にした対応は、その爆心地に屏風をはる事。そういうものだな。(以前同じ事を書いた気がする。デジャヴュか、そうでないかはわからない。)あのシーンは、涙が出るほど笑った。それで、それに違和感を感じながらも、どういう事なのか教えられてないので、わからない。現実にイライラして、疎外感を感じ、一人になってきた。
それを、そういう感情は、こういう事である、と明確に指摘し、なおかつ、オレは何にも特別な存在ではなく、普通の人であるという事を教えてくれた。それが、とても、嬉しいのだ。
あるいはその感情は、一種の共同体に属するような感情と似ているのかもしれない。なので、オレもまだ、全然、超人にはなれていないのかも。
なんだか、電車の中で書きたい事を考えていたのだが、酔いが回ってきて、わからなくなってきた。
サントリー・オールドを飲んで、風呂に入って、寝ます。それじゃあ、また……




