本を読んだ方がいい理由
本を読んだ方が良い理由
を書く。今日は酒がべろべろに回っている。躁状態がひどく、そういう時は死ぬか人を殺したくなるからだ。躁というのは気分が上がる病気だ。え、ならいいじゃない。と思うのだが、例えばアッパー系の薬を使った時にも症状はわかれる。ひたすら楽しい社交的な気分になる奴と思考だけがとめどなく溢れ疲れる奴だ。オレは後者だ。ただただ疲れる。例えばこういう症状がある。金はなく給料日までは三週間あるが3000円ぶん宝くじを買えばどうせ当たるのだから何も心配せずに1200円のステーキを食おう。どうせこの先生きていても良い事はないのだから死んで楽になろう。そういう風に脳味噌は思考する。多分無理にそういう物質だけは出ているのにそれまでの経験は変わっていないからそういう結論になるのだ。
オレは死だとか自殺を逃げだと思っている。世間はそうでない。死を選んだ人間は尊厳溢れ生前の罪は全て解消されると思っている。自殺は救いだと発言するバカもいる。当たり前だろ、逃げた先に怖いものがあるわけがない。ただ肉体が恥にまみれるだけだ。
当たり前の事だが、死んだ所で罪は消えない。
死ぬ前の人間なりの評価が下されるだけだ。
その評価は別に死後の世界を左右するとかそういう事ではない。
そもそも死後の世界なんて存在しない。当たり前の事だが、誰も見た事もないものをそういう風に信じられる脳味噌はどうかしている。
オレは少なくとも見なかった。
何故こういう無駄なことをだらだらと書いているのかというと本題に入る前に軽くウォームアップしていたいからである。格好の良い言い方をするなら、ロックバンドがアルバム収録をする前即興でやるインプロのようなものである。(あ、よく言いすぎた。正直たぶん誰かに話を聞いてもらいたいだけの寂しい人間なのだろう。)
こんな事をしている場合でないのは重々承知している。
何故本を読んだ方がいいのか?
単純な話コストパフォーマンスが良いからである。
それ以外の理由は一切ない。
エンターテイメントとしては絶対に映画や漫画の方がいい。
文"学"だなんて気取った言い方をしているが、所詮は娯楽の一種だ。
それをわからないようなくだらない人間がつまらん袴を羽織ってクソみたいな純文学を量産している。
じゃあ今から本でも読んでみようと思って本を手にとり夏目漱石の"こころ"なんかを渡された時には多分ほとんどの人間はショックで卒倒してしまうだろう。
泡もふいてしまうかもしれない。
でもまあ、純文学の方がいい。
理由は簡単な話で、ライトノベルや漫画には情報量が少ないからだ。
ああいうのは気取った言い回しやカッコよく見える必殺技の演出の仕方ぐらいしか見るものはない。
あ、でもほとんどの、特に日本の純文学と海外の現代文学にもそれはない。
ほとんどは設定が先行しただけのクソみたいな話ばかりだ。
例えばライトノベルでいうところのツンデレだとか特殊能力を苦悩だとか自殺に変えればほとんど純文学のそれになる。
え、じゃあそれでもどうして純文学の方がいいかって?
文字の数が多い事と、大人を気取った人間が読むことからあの手この手でなんとかかんとかプロットをこねくり回すからだ。
そういう人間はプロットの抜け穴を見つけるとまんこを見つけた知的障害者のように躍起になって肉棒をつっこむからだ。そういう風にレイプされる事はさすがの純文学作家達も望んでいないので、あの手この手を使うというわけだ。
オレはライトノベルを少し読んだ。
クソだったね。
ああいうものを見て喜んでいる人間というのは本当に宇宙人だ。
とはいえオレの方が多数派というか、人間からは宇宙人のような扱いを受けているので、そうヘコむ事はない。
クソのライトノベルとクソの純文学に共通する点は何か?
ジャンル区分を受け入れている事だ。
要するにそれそのものではなく、それっぽいものだけを追い求めているのだ。
音楽でもそういう事が現代には特に、言える。ヘヴィメタルなんかは今はほとんど、特にニューメタル連中は、同じ展開の曲ばかり、臭いイントロ、激しいディストーションパート、泣きのクリーンパート、ディストーション、クリーン、ディストーション、クリーン、クリーン。オルタナティヴロックなんかもそうで、更にポップでティーン向けのロックなんかは更に酷い。
マルーン5なんてアイドルバンドを聞いていると頭がおかしくなる。
そういう脳がおかしくなった奴がバンプオブザチキンなんかを深いと言って、それと似たような詩を書き続け、芸術性のかけらもない、深く見えるだけの写真を一緒に撮り、自分は繊細な思考を持つ特別な人間だと誤解するわけだが、オレが今ネタにしているように、そういう人間は掃いて捨てるほど居る。
現代には時間がない。
実際にはあるが、皆あると思いたくはない。
時間があると思うという事は、終わりがあると意識する事だからだ。
何故なら有限な資源であれば人はそれをどうにか有用に使いたいと思うが、無限であるならどう適当に扱ってもいいと思えるからだ。
生の反対は死ではなく、好きの反対が嫌いでなく無関心であるように、生の反対は、安定であり、金太郎飴だ。終わりを意識するから、今を生きられる。
皆死なないと思っている。実際には死ぬ。具体的には頚動脈を約三分弱締めるだけで人は死ぬ。体の血液の20%を抜き取られただけで人は死ぬ。致死量の薬を飲んだだけで人は死ぬ。3階のベランダから飛び降りただけで人は死ぬ。
知りたくない人間は一生知る事はない。
死ぬ寸前に知らされる事になる。
時間がないのであれば、"それ"よりも、製造が安易なそれっぽいものに流れ、そうしてニーズがあるから安易なそれっぽいものを作れる人間が重宝され、大量生産の出来ないそれを作る人間は追いやられる。
そうして下らないポップソングと箸にもつかない小説とテレビに世界は支配される。テレビはその最右翼だった。今その瞬間しかないものだから、質は重視されない。ただ人目を引くもののみが用いられる。それは恐ろしい事だ。ただ単純に瞬間的な興奮が高いものが使われるのだ。それははっきり言ってコカインを打つ事とかわりはない。コカイン中毒者よりひどい。ジャンキーは打つ前に、耳掻きの先の耳クソ一杯ほどは、罪悪感だとか後悔を感じる。テレビやポップソングやクソ小説はそうでない。視聴する方は自分が悪であると感じた事は一度もない。ただ何もしない平穏な軽いうつ状態のブロイラーだと信じて疑わない。いや、それすらも知らない。ただ生きている、それを認識しているだけの人間だとしか思わない。
テレビが衰退し、発信が一般人の側に映ったネットはもっと酷い。
こんな事をしている場合ではない。
やめちまおう。
オレは村上龍の本が好きだ。
それを電車の中で真剣になぜかという事を考えた。
離人症の症状が恐ろしく酷い。
自分の人生が他人の人生のように感じられる。
死の間際自分の体を動かす時戦略ゲーム、ギレンの野望をプレイしている時のウィンドウが頭の中に浮かび上がって、オレはプレステ2のコントローラーを握っていて、戦略、を選ぶと自分の体が動いて水道まで行って蛇口を捻り水を飲んだ。
生産、を選ぶとトイレまで行って吐いた。
意思の決定をした後は体が自然に動いた。
そこまで酷いものではないのだが、まったく自分が本当に感じられない。
オレはアッパー系の薬を限界まで飲んで意識が途切れ途切れになった時ですら人を殴れなかった。根本的にどうしようもない人間だ。
仕事をしている時、何もかもをしている時でも取り留めのない意味のない空白としか言い様のない思考が浮かび上がりまともに物事を行う事ができない。
痛みも痒みも病気になる前とてつもなく眠い時、そのものとの間に何か壁があるように感じられる時、あれがずっと続いている。
村上龍の小説を読んでいるときだけ、その壁がなくなる。
めちゃくちゃに水虫が痒くなる。頭がガンガン痛くなる。すっきりした状態で本気で死にたいと思える。やっと頭脳が明晰になる。この間同居人の眼鏡を借りて鏡を見ると不細工が映っていた。はっきりと映っていたので感動した。そういう状態になる。
本当にこんなことをしている場合ではない。
やめよう。
緩やかな下らない繋がりを断ち切らなければ、オレは何もできない。
どうしても救えない人間というのは山ほどいる。
神だとかいう居ないものを信じて、それに奉仕すればと思っているやつ。
おまんこが出来ない事にあると信じ、くだらない女、そいつは大体自分のありもしない傷を癒したりもてはやされるためにおまんこを売り物にしていて、そういう奴ら同士で付き合うやつ。
何の意味もない自分のルールを守ればと思っているやつ。
何もかもを諦め、妥協し、ただ消費し、その消費のやり方を知的にするかばかげたやり方にするかとか、そういう低い低い狭い狭い枠組みの中で自分だけの小さな幸せを探して生きているやつ。
全てただ代謝物質を得るためだけの行為で、麻薬を打つ事となんにも変わらない。
うんざりしたし、オレ自身、決して余裕があるわけでもない。
オレもお前も特別な存在ではない。猿から進化しただけの毛のない猿だ。自意識に答えを求めるのは、止せ。
生きろ、そう言って、心臓はビートを刻んでいる。
最近、夢をよく見るようになった。あんまり、共通点はないし、良い夢でもない事が多いのだけど、空を飛ぶ夢、というのは、共通している。




