06 「居間で寝なさい」
レイルが出て行った。
入れ替わりにマチスがやってきた。
最後はマチスも出て行った――否、逃げていった。
客が入れ替わり立ち替わり、忙しくしていたこの家で。ソフィアと迅は食事の後片付けを今し方完了させた所だった。
カシャン、と。最後の食器を収納する音が鳴る。
「お手伝いありがとう、ジン」
ソフィアのはにかむような笑顔。
薄暗い室内であるせいか、必要以上に彼女の表情が輝いて見えた。
「べ、別に気にするなよ。あんな美味いメシを食わせてもらったんだ。これ位しねぇと」
「ふふっ。美味しかったでしょ。レイルの料理」
迅は無言で頷いた。
「調理風景を見ていても相当手慣れている感じがしたな……ありゃプロレベルだ」
「時々、町の料理屋さんで働いてるからね。町のみんなにも評判いいのよ」
「なるほど。既に『半プロ』みたいなもんって事か」
「将来をあの子なりに考えて……料理も学んでるんでしょうね」
そう零したソフィアの表情は曇って見えた。
レイルの何が気懸かりなのか、訊きたいところではあった。が、当のレイル本人が居ない状況で姉に問い質すのは、何か卑怯だ……と迅は遠慮してしまう。
とにかく。明日になればレイルは戻ってくるだろう。話はそれからだ。
疲れもいい加減感じ始めた頃なので、今日はもう休みたかった。
「――っ、し! んじゃアレだな。夜も遅いし。寝るか、ソフィア!」
「寝る? …………あっ」
「……あ」
「寝る」。
その言葉に、一人の少年と一人の少女。両者の眼差しが衝突し、硬直する。
事ここに至り、ようやく二人は気付いたのだ。
「今この家には自分たち二人しか居ない」という事実に。
「……ね、寝る、な。うん!」
「……そ、そう。寝る、ね?」
――だらだら。
迅とソフィア両名とも頭部、頬、頸部を伝い、滝のような汗が流れ出ている。
考えもしなかった。こんな状況になっていたとは。
迅とて女子と二人、同じ部屋で睡眠を取った経験ならば何度もある。が、総じて任務中の仮眠レベルであったし、そもそも「女子」というのも半ば腐れ縁と化している幼馴染だ。「仕事」にばかりかまけ、かような緊急事態への対処が疎かになっているのだ。
滝汗による脱水症状すら危ぶまれる状態で、迅はふと「ソフィアはどうなのだろうか」と気に掛かり、彼女を確認する。
……ソフィアの視線は泳ぎに泳ぎ、時々白目まで剥いていた。
訊く必要などない、この反応を見ただけで分かる。迅の状況とさほど変わりないだろう。否、それ以下ではなかろうか?
――膠着状態は続く。
無駄に、無為に。
こんな阿呆極まる状況は即座に打破しなくてはならない――。二人ともそう頭で理解はしているが、一言目を口に出来ないのだ。
「……」
数秒か数分か数十分かの後、やがて。
ようやく「無駄に元気の良い」ソフィアの一声を機に、時間は動き始めた。
「…………ね、ねぇ! ジン!」
「お、おおう!? 何だソフィア!?」
「念のため、念のため言っておくわね?! 念のためよ!?」
「おうイイぜー、何でも言えや何でも来いや!」
「居間で寝なさい! 分かった!?」
「あ、当たり前だろうが! どこで寝ると思ってたんだよ、お前の部屋か!?」
「えっ?? ……ち、違うの?」
「違うわアホッ!」
「だ、だって! あなた初対面で押し倒してきたじゃない!」
「不可抗力だアレは! わざとあの体勢に持ち込む方が難易度高いっての!」
「ハッ、どうだか! 随分と手慣れた感じでしたけどぉ!?」
「ほーん、じゃあ今ここで再現してやろうか!?」
「嫌。やめて。叫ぶわよ」
「…………」
「……もう一度繰り返すわ。居間で寝なさい」
「だっ、だから当たり前――!、」
「当然だの理解してるだの、そんな返答はいりません。ただ一言『はい』。そう口にするだけでいいの。居間で寝なさい。分かった?」
「……はい」
返答を得た途端、身体を両腕で抱くようにするソフィア。
……まさか。自分が「ソフィアとの同衾を狙っている」と警戒しているのだろうか?
手を振って必死に否定する迅。だが、行動が必死すぎて、彼女の警戒心を逆に強めているらしい。
呆れと怯えを放ちつつソフィアは身を翻した。
「……変な事しないでね。絶対しないでね。したら攻撃魔術が迸るわよ!」
「お、おい!? 誤解したまんま寝るつもりかよ!?」
迅の制止にも応えない。ソフィアはそのまま自分の部屋へと向かう。
と突然。迅の顔つきからコミカルさが消失した。
「――なぁソフィア」
「な、何よ!?」
「立ち去ったさっきの奴、マチスって名前だったよな。お前とどういう関係なんだ?」
「あぁもう五月蠅いわね……! アイツは私の婚約者よ! おやすみっ!」
「は、はあああああアッ!?」
絶叫する異世界のエージェントを放置し。
魔術師の少女は自分の部屋へと入ってしまった。
「婚約者? ……マジかよ」
リビングに一人残される迅。
溜息を付き、寝床と定めたソファに身を沈めた。
そのまま仰向けになって天井を睨みながら、今日の大盛りすぎる出来事を反芻してみる。
――物理学者・斑祈の策略により飛ばされた異世界。
――動物園でも見ないような大蛇の化け物。
――家に招かれた自分を妙に敵視する弟。
――下卑た感情を迸らせる貴族の息子。
そして、……魔術を操り、異世界の水先案内人となりつつある美少女。
様々な出来事に遭遇し、多くの人々と出会ったが……一番の衝撃だったのは先刻告げられた「マチスがソフィアの婚約者」という事実だった。思わず変な笑いが口を突いて出る。
ふと、迅はソフィアの年齢を聞いていない事に気付いた。
自分より同じか、少し年下程度だろう。いずれにせよ二十代ではないハズだ。
にも拘わらず「許嫁」という運命をその若さで背負っているのは、どういう事だ。自分の理解が及ばぬ程、領主の権力とは強大なものなのだろうか。
「……世界が変わっても、色んな問題ってのはあるんだな」
どうやらソフィアとレイルの兄妹は、面倒事を抱えているようだ。
迅が思う以上に、知る以上に。
しばらくすると、迅の瞼は落ちた。
疲れが呼び水となり、心地よい眠りへと誘ってゆくのが分かった――。