01 蛇と少女
倒れ込んでいる。それは理解できた。
そして生きている。無論それも理解はできた。
ただ、感覚が定かではない。つい先刻まで無機質の極みに在ったハズなのに、今は妙に有機的な感覚に包まれていたからだ。
この違和感の原因を探るように、閉じていた目を解放する。
視界にまず飛び込んできたのは――黄金色。
「……え?」
おかしい。どう考えても。
数秒前まではあの研究室の床の上にいた。だが今こうして身を横たえているのは、クッション性の高い植物だった。あの研究所に植物など存在しなかったにも拘わらず。
これは――干し草だ。
(干し草? 何たってこんなモンが?)
身を起こし、立つ。次いで己が身を確認した。
手に銃がしっかりと握られたままの状態でそこにある。長年多くの鉄火場を共に切り抜けた相棒だ。服装も上下確認するが変わったところは見受けられない。9mm弾を装填したマガジンも五つ、ちゃんと懐に存在する。注射痕や何かされたという痕跡は発見出来なかった。
次に周囲を確認してみる。……途端、視線が固まった。
「……こんちはっす」
馬だ。
馬が大人しく草を食み、迅と目が合うと「ぶるるっ」とわなないたのだ。人慣れしているらしく、迅の存在を不快に思って騒ぎ立てる事も無い。
干し草、馬、それにごく小規模な木造建築。どうやらここは馬小屋らしい。
「何たって馬小屋なんかに……」
思考が混乱をきたす。明らかにロケーションが変更されている。
催眠ガスか無力化ライトか。いずれにせよ、自分はあの中央演算室で意識を失い、この身が移動された事だけは事実だ。研究所に馬小屋が存在しているとは思えない。「斑祈が趣味で研究所内にこういった一室を設えていた」という可能性も否定は出来ないが。
「と、……とにかく。最優先は現状把握だな。うん。そうだ」
頭を掻きながら、この小屋の出口へと向かう。
銃を手に出口横へ張り付いて、銃口を突き出し、警戒──。安心とわかると迅は外へと出た。
「……」
閉口する迅。外は目映い日差しが降り注いでいた。
太陽は頭上のほぼ真上に存在している。つまり今は正午。どうやら意識を喪失していた間にかなりの時間が経過していたらしい。
だが、迅が言葉を失ったのはそれが原因ではない。視界に入った「町並み」だ。
現代日本では到底見ることが出来ない、石造りの家々――。それが通りに面して幾つも建ち並んでいる。群生する植物や木々も日本では見ないものばかり。加えてその建物は何世紀も前のような造りばかりで、まるで中世ヨーロッパもかくやという装いだった。
そして、人々。彼らは誰一人として現代日本人らしき姿をしてはいなかった。
迅の脳が混乱でカクテルされる。
「て、テーマパーク? いや。にしても。なぁ? こんな。ところに?」
いや。本能では「断じてテーマパークなどでは無い」と理解している。してはいるが、認めたくないのだ。この自分の目覚めた世界が、まさか……――、
――と。前方から大勢の人の波がこちらへと向かってくるのが見えた。
自分に襲い掛かってくるつもりだろうか。警戒と共に銃を向けようとするが……すぐに違うと悟って銃を下ろした。彼らの表情が恐怖に覆われていたからだ。
あれは、何かから逃げている者の貌だ――。
彼らからせめて情報だけは得よう。そう思って迅は逃げてくる集団、その先頭を走る男に話しかける。だが。
「おい。ちょっといいか?」
「に、逃げろおおオオッ! 『スキュラ』だ!」
「は?」
彼らはそれだけ叫び、迅を置き去りにして通りの向こうへと走り抜けていった。
聞こえてきた言語が日本語だった事も忘れ、迅は彼らが走ってきた方向へ呆然と視線を差し向け続ける。
スキュラ。何だろうか。
覚えの無い語句だった。
しばらくそのままでいると、通りの向こうから様々な轟音が耳に届いた。石が崩れるような音、木々を破壊し薙ぎ倒す音。
そして……人々の悲鳴。迅は自身を取り巻く「鉄火場の臭い」を全身で嗅ぎ取りはじめていた。銃把を握る力が強まる。悲鳴の数も徐々に増えつつあった。
「に、逃げろ! 逃げろオっ!」
「巻き込まれるぞ! ソフィアもいつまで持ちこたえられるか分からん!」
「あぁ……俺の家が…………ぁ!」
恐らく彼らは「スキュラ」というものに追われているのだろう。
迅にとってそれが何かはどうでもいい。歩兵だろうが戦車だろうが戦闘ヘリだろうが、無力化する手段は無数に存在する。それだけの知識・実力が自分には有るのだから。
意識を新たに、迅は銃口を通りの前方に向ける。
しかし。次に目撃した光景は。そんな迅の覚悟を雲散霧消させた。
「は? …………はぁああああアアアアッ!?」
目を疑った。というより、自身の正気を疑った。
三つ首の蛇。
高にして建物二階分。
それが脇の家々を破壊しつつ、通りをこちらに向かって凄まじい速度で接近してきているのだから。
究極にベタではあるが、迅は試しに頬をつねってみる。
「っ! 痛って!」
夢ではないらしい。残念ながら。
つまり、要するに。導き出されるのは単純明快な一つの結論だけとなる。
あの三つ首の蛇は現実に存在する――!
「や、やべえぇ……っ!」
ようやく現実感を取り戻した迅。
無駄な現実確認をしていたせいで、三つ首の蛇はさらにこちらへと接近を果たしていた。
あれが『スキュラ』なのだろう。人々が騒ぎ立てる訳だ。常軌を逸したあんな生物、とてもじゃないが手に負えない。
だが――そうも言っていられない現実が在った。
三つ首の蛇スキュラは人々片っ端から跳ね飛ばし、脇の家を破壊し続けている。数秒後にはその「災害」が自分の下へと到達するのだ。
放置していたら自分も巻き込まれる。ならば、執るべき行動はひとつ。
「……やるしか、ないのか」
一言だけ呟いて銃を握る。
本体はどれだ。銃は通用するのだろうか。そもそも残りの弾丸は――。対峙した経験の無い敵を前に、余計な懸想ばかりが迅の脳裏を過ぎる。
――と。迅の視界に気になるものが映り込んだ。
「ん……? お、女の子!?」
走るスキュラの下。一人の少女が疾駆しつつ、攻撃を加えているのだ。
手に持っているショートソード一本、それで本体を斬り付けている。
見た目は小柄なのに意外と力があるらしい。だが、スキュラの方は少女の攻撃を意に介していなかった。進行速度は尚も低下する様子を見せない。
痺れを切らしたか、少女は舌打ち一つ。剣を左手に預け空になった右手を開いて、スキュラの尾へと向ける。途端その右手が紅く発光した。
そして、火弾を放った。
見間違いではない。少女は、その開いた手から火炎を撃ちはなったのだ。
炎の着弾先であるスキュラの尾で衝撃を伴う爆発が発生した。
さしもの巨大蛇もこれは耐えられなかったのだろう、進行を停止して叫びと思しき咆哮をあげた。
「ま、魔術? ナパームとかじゃあ、……ねーよな……」
もはや自分の数メートル先にまで怪物が迫っているにも拘わらず。迅の意識は別の場所へと置き去りにされていた。
魔術――。明らかに現実ではありえない現象だった。
VFXや、ましてや火炎放射器などでは断じてない。正真正銘、その手から発生し放たれた炎だった。そもそもあの怪物は何なのか理解が出来ない。遺伝子操作で生まれたキメラか、それとも。
……駄目だ、考えが何一つとしてまとまらない。
ならば考えるのは止めだ。とにかく「危機が迫っている」それは事実なのだから。
「っ、きゃッ! ……――や、ヤバっ!」
決意とほぼ同時、先刻の少女がスキュラの尾に弾き飛ばされるのが見えた。
少女は地面に膝をついて体勢を立て直そうとする。
が、あの怪物は彼女へと更なる追撃を放とうと首の一つを持ち上げた。通常サイズの蛇が攻撃時に見せる、あの「鎌首をもたげる」という動作だ。今の彼女に、それを受ける準備は出来ていない。
正に思考している時間など無かった。
気がつくと、迅は手元の拳銃を向けていた。そして――。
「どいてろッ!」
ドォン! ドォン! ドォン!
繰り返し繰り返し、首の一つへと撃ち続ける。
装填された弾丸が数秒ですべて吐き出される。迅の放った銃弾、そのすべてが命中した。少女に襲い掛からんとした首はダラリとその身を垂らし、微動だにしなくなった。
「ッガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!」
地が割れんばかりの咆哮。残りの首二つが、沈黙した己の分身を嘆くかの如く叫んだ。
迅はマガジン交換をしようとする。が、件の少女の視線がこちらへと向けられている事に気付いた。
「だ……誰よあなた?」
「危ねぇぞ! ヘンな技を使えんのは分かったから、とにかく引っ込んでろ!」
「だ、だから誰なのよ、あなたはっ!? いきなり出てきて引っ込んでろ!?」
身を起こしつつ少女は迅へと誰何した。
「この町の人じゃないわよね? 『探索者』? 残念ながら倒しても報酬は出ないわよ」
「何言ってんのか全然分かんねぇ……」
「というか何その武器? 魔導の一つだとしても見たことすら……!」
「っ、危ねぇッ!」
「ドン」と少女を突き飛ばし、彼女を護るように覆い被さる迅。
途端、すぐ横から強い衝撃と土の礫が飛散してきた。
少女が数秒前まで立っていた地面は、スキュラによって深く抉り取られている。迅が飛び込んで来なければ……少女は挽肉と化していただろう。
「――ったく言わんこっちゃねぇ! 邪魔だからどいてろって! 何度も言わせんなよ!」
「ど……どくのはアンタでしょ変態ッ!」
「は?」
「いつまで私に覆い被さってんの!? 早くどいてよ変態ドエロ痴漢強要魔神!」
「え。あ、いや……!」
迅は自分の置かれている状況にようやく気がついた。
その両手は少女の頭部両脇に置かれ、まるで彼女に迫っているかのような姿勢となっている。少女の整った美しい表情は羞恥と憤怒に彩られており、こういった事態に不慣れな迅の鼓動を一際強くした。
「わ、悪かったよ! 悪かった!」
慌てて飛び退く迅。少女は自分の身を抱くようにしている。
「も、もう……っ! 余計な事しないで! どうせ今の攻撃だって防御魔術で防げたんだし!」
「い、いや。だって邪魔だったし」
「邪魔!? 町一番の魔術使いよ私!? 邪魔ってどういう事よ!」
禁句を口にしてしまったらしい。少女は修羅場にも拘わらず怒りをぶつけてくる。
にしても。この強気な彼女が町でトップの魔術師――。では今の攻撃でもし彼女が死んでいたら、誰がこのスキュラを殺せたのだろう。誰もこの魔物を止められないのではないか。
蠢く魔物を見上げて、迅は決意する。「面倒だからもうコイツは俺が片付ける」と。
迅は少女の腰に下げられていたもう一本の剣へと、やおら手を伸ばした。
「あっ! ちょっと何すんのよっ!? それ高かったのよ!?」
「借りるぞ!」
『弾丸の節約』。迅の脳裏に在ったのはそれだった。
ついさっき攻撃を加えながら理解した事柄が幾つかある。
まずこのスキュラ、攻撃動作は早いとは言えない。むしろ攻撃の瞬間に準備動作を見せるので回避は容易だ。
一方、耐久力は途方もない。弾丸十二発全てを撃ち込んでようやく首一本が沈黙したのだ。つまり殺し切るには単純計算でその三倍、計三十六発が必要になる。これでは弾丸消費が馬鹿にならない。
ならば、この剣で首を切り落とす方が早い――。迅はそう踏んのだ。
少女から拝借した剣を確認する。凝った模様などは見留られずシンプル極まる意匠だ。だが刀身は鏡のように磨き上げられており、歯に欠けたところも見当たらない。大蛇を「首二つ」狩るには十分すぎる得物といえる。
「さあ来い! こっちだ!」
「キシャァァァッ!」
スキュラの気を引くため、迅は剣を手に少女の反対方向へと駆ける。
目論み通り魔物は条件反射が如く迅の後を追ってきた。走りつつも、迅は後方を確認してスキュラが攻撃態勢に入る瞬間を待ち続ける。
機会はすぐに訪れた。
頭の一本が後方へと首を引き絞り、喰らいかかる準備動作を見せたのだ。
今だ――。
鋭利な双牙が己に到達する瞬間、迅はスッと横へと避けた。
途端、首は狙いを外して地面に激突、土や石を飛び散らせた。
この機を逃す迅ではない。
すぐに剣を振りかぶり、一閃――。
地に這い蹲った首の一つは、その頭部後方から切断されて夥しい鮮血を迸らせた。周囲を揺るがす絶叫が響き渡る。
まず一本。
「次!」
視線をすぐに頭上へと持ち上げる。
残された頭部は上方で悲鳴を轟かせながら蠢いている。もはやこちらに攻撃を加えるどころではない様子だ。
もう機会を窺う必要も無い。
迅は地を蹴り、切り落とした首の根本へと飛び乗ると、滑る体表組織を蹴って、蹴って、蹴って、蹴って。本体へと駆け上る。
残る一つの頭部が見えると迅は一際強く足下を蹴り、宙を舞った。
落下の勢いを伴って放たれた斬撃は、狙い過たず。その頭部を切断した。
――ドサリ。最後の首が地面に落ちる。
一足早く着地していた迅はそれを横目に見ながら、剣を振って鮮血を落とした。
イージー・オペレーション。
それだけ呟くと迅は大きく溜息をつく。実際、現実世界での戦闘よりまだ楽だった。
周囲は騒然としている。時々聞こえてくる囁きも「スキュラを魔術なしで討伐するなんて……」など、主に迅の非常識さを評価するものばかりだ。
それはあの少女とて例外ではない。
貸した剣の事も忘れ、駆け寄ってくる彼女。
「あ、アンタ……何者なの? 魔術すら使用せずスキュラの頭を全部切り落とすだなんて。そんな力任せの討伐方法、聞いた事もないわよ……?」
迅は彼女の言葉も耳に入らない。
天を仰ぎ、日差しを受け、苦笑いしか出てこない。
そして、叫ぶ。
「へ、へへへっ。――――――どこだよ、ココ!」