00 ゼロ地点より
「誰か……そいつを止めろ!」
狭く、長い通路。
上下左右全方位が白い壁で構成されたその只中を、一つの黒い影が駆け抜ける。
右手には銃を握り。
左手は耳元にあてながら。
「――こちら『MT:5G39』。指定ポイントまであと数分、……いや、数秒」
彼は左耳に装着した小型インカムに向け、ごく小さく呟く。
その声は男性というよりは青年に近い声質だった。
諏雷迅。
防衛省統幕三室・特殊任務班の「実働員」である。
黒いドレスシャツに黒のボトムスという、凡そ潜入任務に適しているとは思えぬ軽装。
だが彼は、銃一丁とその服という装備だけで数多の障害を取り除き、この研究所深部の通路まで至ったのだった。
今までがそうであったように。
今回もその慣例どおり「仕事」に臨んだに過ぎない。
迅はなおも、この白亜の通路を我が物顔で走り続ける。
彼が走る通路の後方――。そこには数多の兵士たちが倒れ伏していた。
数にして三十人超。皆一様に銃撃を受け、出血している。
誰もが手元に銃器を装備していた。服装は様々だ。戦闘服に身を固める者もいれば、警備員のようにごく軽装の者も存在する。が、誰一人として立ち上がろうとする者は見受けられなかった。
すべて迅が斃してきた警備兵たちだ。
無機質な通路であるが故「通った後にはペンペン草も生えない」という表現がしっくりくる光景である。
そして前方には。警備兵の男が、こちらに銃を向け立ちはだかっている。
「こ、この通路は死守する! 何があろうと――、!」
その声も通路に虚しく反響するだけ。
迅は銃弾を一発だけ放ち、声の主である前方の男を無力化した。
銃声――。少し遅れて「カラン」と薬莢が床を叩く音。
BGMにすらならないソレらを耳に入れながら、迅はさらに通路を進む。
「……ん」
と。すぐにその足が止まった。
原因は前方に見える大きな「扉」だ。
つまり、通路はここで終点である。潜入している仲間が割り出した「指定ポイント」へと至った事になる。
周囲に警備兵は存在しない。どうやら、今しがた銃撃した男が最後の一人だったらしい。
鉄扉の前に立ち、息を整える迅。
「さて、……――行くか」
いちいち行儀良く入るのも面倒だ──。
そう思った迅は脚を振り上げ、一気に扉へと蹴り込んだ。鉄扉は蹴破られる形で向こう側へと押し開かれる。
前方には「対象」がいた。たった一人で。
「――チェックメイトだな」
迅は右手の拳銃を正面に向ける。
「手下は全員片付けた。お前の負け、さっさと投降しろ」
「……凄いね。あれだけの警備を退けるだなんて」
銃を向けられた男は微動だにしない。
周囲の巨大演算機たちが放つ振動が、その身に纏う白衣を僅かに揺らせるだけだった。
迅は部屋の中央へと進みつつ、周囲を見渡す。
四方が五十メートル程度の室内には、漆黒の巨石が如き形相のスーパーコンピュータが規則正しく整列する。中央部には一際異彩を放つ、巨大な円筒形の「何か」が青白い燐光を漂わせ続けていた。
ここは斑祈物理研究所、その中央演算室だ。
視線を前方に戻すと、その研究所の主である斑祈総一郎が口を開いた。
「お疲れさま。大変だったでしょ? ここまで来るのは」
見た目と同様に年齢不詳な声だった。呼応するように迅も口元も弛む。
「……あぁ、そうだな。大変だった。と言うより面倒だった。あんな障害じゃ障害足り得ねぇんだよ。傭兵だの殺し屋だの警備トラップだの……ナメてんのか。面倒くせぇだけだ。数だけ揃えりゃどうにかなるとでも思ったか?」
「甘かったかなぁ」
「大甘だ。あんなんじゃ俺たちを止められやしねぇぞ」
「俺『たち』? へぇ。君以外にも来てるんだ?」
「俺含めて五人いるぜ。統幕三室の全戦力を集結させた最強部隊だ。今ここに呼んでやる」
そう言うと、迅は耳元の極小インカムに小さく呟いた。
「……――こちら『MT:5G39』。対象・斑祈総一郎と接触した。全員出てきていいぞ」
向こうからの返信を待たずに交信を切る。
数分後にはこの中央演算室に全員が揃い踏みする事だろう。
それぞれが情報・戦闘・潜入におけるトップクラスの実力を有している人員だ。そんな彼らが投入される程に、今回の任務は『重要性』が高いのだった。
薄ら笑いを浮かべる斑祈に、迅は警戒の銃口を向け続ける。
「もう一度繰り返すぞ。――お前の負けだ。投降しろ、斑祈総一郎」
■
防衛省統合幕僚監部非常局第三室。通称「セクションⅢ」。
それが迅の所属する組織の名称である。
数十年前に解体されたハズの組織、それも情報のみを取り扱う組織である通称「二室」。その二室の実働部隊が「三室」である。
「庁」が「省」に変わり、組織構造が変わり、時代が移り変わり、年号が変わり、政権が移り変わろうとも――。統幕三室は国家の安全保障を脅かす対象を「排除」し続けた。
公的には公にされているハズもないこの組織は、自前でエージェントを育成しているのが最大の特徴だった。少数精鋭ゆえ情報漏洩は極めて小規模、加えて機密予算のごく一部でまかなえる人件費……。二室が解体されたにも拘わらず三室が残り続けた理由はそこにあった。
その統幕三室に情報がもたらされたのは二週間前だった。
「斑祈総一郎はプルトニウムを保有している」。そんな情報が。
事の始まりは、近隣の放射線調査を行った業者である。彼らが「斑祈物理研究所の周辺に異様な放射線量が確認された」と報告してきたのだ。核兵器を製造していなければ有り得ないレベルの放射線量が、報告書には記載されていた。
予測される放射性物質はプルトニウム。無論国際規制物資として厳重に管理されるべき物質である。それが何故、都内の小さな物理学研究所に存在するのか――。
事実を探る事に、迅たち三室の二週間は消費された。
潜入、諜報、ハッキング、情報聴取。それらを総合して得られたのは「斑祈は核兵器を製造している」という結論であった。海外の傭兵や警備システムまで組み込んでいるのだ。そこまでして隠蔽するものなど、兵器以外には有り得ない。
結果として、今日。迅たちエージェントはこの研究所へと潜入した。必要とあらば斑祈の「排除」も辞さない覚悟で。
そして。その対象である斑祈総一郎が今、迅の眼前にいる――。
■
斑祈は取りも直さず、気味の悪い微笑のままだ。
その余裕は崩れる様子さえ見えない。手下をすべて失い、目論みは露見し、圧倒的不利な状況に在る今でさえ。
「何の為に俺たちがここに潜入したか――、分かるよな」
迅の問いに斑祈はわざとらしく首を捻った。
「さぁ? 礼状とか要求できる相手じゃなさそうだし、よく分かんないなぁー」
「決まってるだろうが。核兵器だよ。ここで造ってんだろ? さっさと出せ」
「核兵器、ねぇ……?」
とぼけた反応を見せる斑祈。まるで「そうだった?」とでも言わんとばかりの。
正直、迅はこの男の言動が理解できなかった。
迅が排除してきた人間のタイプに当てはまらないのだ。これまで目的を半ばに阻止された人間の反応は、総じて「呆然とする」か「暴れる」か、そのどちらかに分類された。だが斑祈はそのどちらでもない。言わば「確実な勝利」を噛みしめているような……そんな印象さえ抱いてしまう。
故に、油断できないのだ。銃を向けている今でさえ。
まだ何かある――。そんな嫌な予感が、迅の警戒心を刺激して止まない。
「苛つく目つきだな。この期に及んで何を企んでる?」
「企み? もう準備段階は完全に済んだよ。あとは起動するだけ」
「この状況でこの俺が見逃すとでも思ってんのか?」
「残念。もう遅いんだ」
そう斑祈が告げた途端、「グォン!」と。
周囲を墓石のように覆い尽くす大型コンピュータが、一斉に唸りをあげて起動を始めた。
「っ……ッ!?」
あまりの急な事態に、迅の足下がフラついた。
いや、床が揺れているのだ。発生源はコンピュータが原因ではない。この建物全体から発せられている。
――まさか。迅の脳内を様々な「最悪のシナリオ」が駆け巡る。
核兵器が起動されてしまったのだろうか?
証拠が残るこの施設を爆破するつもりか?
それとも……自分たちを巻き添えにする目論みか?
「く……っそッ!」
迷っている暇は無かった。迅は耳元のインカムで仲間全員に向けて怒鳴る。
「緊急事態だ! 全員早くこっちに来い! 何か……マズい事になってやがる!」
「気にしなくていいよ、お仲間の事は。ちゃんと彼らも『招待』してあげるから、さ」
己を取り巻く状況に少しも動じず、斑祈は先刻と変わらぬ微笑のまま立ち続けていた。
周囲の振動はさらに酷いことになっている。
迅は銃を一際強く、斑祈に向け直した。
「斑祈! お前……何をやった!」
「ご挨拶だねぇ? 僕は君たちに『研究成果』を披露してあげようとしてるのに」
「ご冗談抜かしてんじゃねぇぞ。この振動の正体は何だ!」
「時間通りに設定したのが今起動を開始したって事だよ。……――ようやくだ」
カツン。斑祈は迅に背中を向ける。
「ようやく、始まる。遂に開く。『新世界』への扉が!」
「ハッ! 新世界の扉と来たか。それを開くのが核兵器ってか? 全然笑えねぇんだよ!」
「はぁ……まだそんな事を言ってるのかい? 度し難いな。核兵器なんて存在しないよ」
そう告げると斑祈は両手を開いた。途端に揺れが更に強くなる。
「く、ッ!?」
膝を付きながらも迅は斑祈の表情を確認する。
――笑み。それも狂喜と評するに相応しいものだった。
「さぁ新たな世界の始まりだ! ……ようこそ! 新世界へ!」
突然、強烈な閃光が迅の視界を覆った。
次にやってきたのは「思考の揺れ」。
そうして、迅の意識は――徐々に薄れていった。