水の泡
どれぐらい長く話していたのだろうか。水面に浮き上がってきた無数の気泡はどこかに消え、水中の気泡よりコップの水滴が多くなり、それも今はテーブルに垂れ切って狭くて浅い池が出来ている。小粒ながら荒々しく弾けていたのが嘘のような凪だった。
「後は話さなくてもわかりますね。お二人と校門で会った時に繋がります」
瑠璃は慎ましやかに正座をしていた。承認欲求や庇護欲の強い男を惹きつけそうな影のあるもの憂げで、大人びても見える表情だった。こんな女性が夜のバーにでも座っていたら心配して声をかけるだろう。
しかし、この場の唯一の男であるマルコはじっとその場で正座を保っていた。彼の知っている良くも悪くも天真爛漫な彼女とは真逆に変異していたからだ。
元々変わっている人間だと思っていたが、さらに人物像が変貌してしまい頭の中がこんがらがっている。もしくはその豹変ぶりに怖がっている。落差のせいもあるだろうが、日を浴びれずに蔵に押し込まれカビが生えてきた人形のようにすら見えた。
「それでは補完ですが、お二人が退散した後はお分かりの通りボスがやってきて、『スケアリー・モンスターが危ない。ここはあたしに任せろ!』というわけでめでたしめでたしです」
ぎこちない笑顔を浮かべる。
その作られた上辺の表情にマルコはすっかり騙される。
「そうなんだ、良かった……。あ、でも、それだともうスケアリー・モンスターに遊びに行けないですね」
「はい、それが言いたくて今日は来たんです。お礼も兼ねて。お二人のおかげで願いが叶いました。あと謝りにも来たんです。今まで自分勝手に振る舞ってすみませんでした。本当に感謝しています」
「感謝なんて、とんでもないですよ。もう遊びに行けないのは残念ですけど、でも瑠璃さんが幸せになれたならそれで良いじゃないですか」
「はぁ、喉乾いた。コーラいただきますね」
約束通り、話し終わったのでコーラを貰う。
だがしかし、コップはズレて手を避ける。池が川になる。
「透さん! こんな時まで意地悪しないであげてください!」
コップは勝手に動かない。動かしたのは透だった。
「意地悪じゃないよ。まだ約束を果たせてない」
「だから全部話してくれたじゃないですか」
言いながら、ようやくマルコは気付く。透が眼鏡を外していること、そして瑠璃の目を見ていることに。
透の目は真っ赤に充血していた。超能力を使いすぎたからだ。超能力は筋肉のように過負荷を受ければ筋肉痛のような代償が返ってくる。瞬間移動能力なら頭痛が、透視能力者なら目が充血する。
しかし超能力を使うまでもなく、瑠璃が嘘を吐いていることは容易く見破れた。
「本当にめでたしなら、あんたみたいなのは日没だってのに熱苦しくはしゃぐに決まってるでしょ。今みたいに頭にキノコ生やすような表情はしない」
「それは……二人を利用したから、後ろめたさでこんなテンションに」
「嘘を重ねないで良いよ。実はさ、アジトから退散した後でボスと胡桃一味に追われてね」
すぐさま瑠璃は頭を下げる。
「すみませんでした、二人を危険な目に合わせて」
「いいの、いいの、謝らなくて。私が聞きたいのは、あそこまで本気で追う人間を、招きこんだ人間がどんな処遇にあっているか聞きたいなって」
正座した膝に重ねてあった手が握りこぶしになる。
「折檻された様子はないから、別の何かを罰として与えられたんじゃないかな。それを話してもらわないと全部話したことにはならない」
「透さん、意地悪が過ぎます! わかってるなら無理に話させないでください!」
「わからないから聞いてるんじゃない」
透は恍ける。
マルコはほんの少し怒りを覚える。確かに全部話すのが義務ではあるが、それは傷を抉る行為であるなら話は別だ。
「全部話すって約束だよね、私らを巻き込んだ責任もあるんだからしっかり話しなよ」
透だって出来るなら見たくないものは見たくないし、聞きたくないものは聞きたくない。拘束された授業ではなく好きな音楽を聞きたいし、辞書を引かなくてはわからない単語が並んだ教科書ではなく気ままに漫画を読んでいたい。
しかしそんな生活を、目の前の女が土足で踏み入れて滅茶苦茶にしてくれたのだ。勝手に期待し、勝手に巻き込んで、終いには勝手に終わらせようとしている。
敷居を跨いだ以上、受け止める側としてどんな現実も見て聞く覚悟は出来ていた。
その覚悟を汲みとったのか、それとも楽になりたかったのか、瑠璃は観念して白状する。
「……追放です」
蚊の飛ぶような、微かな声だったがしっかりと聞き取れた。
「外患誘致罪で永久追放です。アジトに入ることも近づくことも禁止です」
それだけで終わりではない。
「電話帳も綺麗さっぱり削除になりました。こみやんのも、ボスのも自分の手で消しました」
どこにでもある普遍的なありふれた仕打ちだろうが、目の前にすると惨痛を負わされる。
「いやぁ皮肉すぎて笑っちゃいますよね。一から自分の手で作ってきたのに、こうもあっさりと捨てられちゃうんですから」
傲慢だが真実だ。功績の九割は瞬だろうが、残りの一割は彼女の功績で正しい。
「参ったなぁ、なんというか笑うしかなくなるんですよね」
久しぶりに瑠璃は笑う。ぎこちなくも作りものではない、心から笑っている。
溢れてくる笑いと一緒に雨漏りも起こしていた。頑丈に塞いでいたつもりがあっという間に滝が出来上がる。その滝は淡水ではなく、塩辛い悲壮の涙で出来ていた。
「こんなの、あんまりじゃないですか……! ウチは一生懸命頑張ったのに、なんでウチがいなくならなくちゃいけないんですか!」
握りこぶしでテーブルを何度も叩く。炭酸水が揺れてにわかに泡立ち、破裂の連鎖が蘇る。
透はそんなマナー違反を諌めずに、泣きじゃくる顔を抱き寄せた。
「えらい、えらい。よく頑張った」
「皆のために一番頑張ってたのに、なんで新参者が残って……! しかも次のボスになってるの!?」
「そうだねぇ、おかしいね」
「……もっと上手く、慰められないんですか……!? 泣いてても棒読みだってはっきりわかりますよ!」
「……こっちだって涙と鼻水我慢してるんだから、文句言うなよ」
「おかしいよ、この人……! 何なの……!?」
文句を言いつつも透の胸をタオルの代わりに顔を押し付ける。
「ボスもおかしいよ……! 胡桃なんかのやつの言うことだけホイホイ聞いて、ウチの言うこと全く聞いてくれない! ボスのあんぽんたん!」
「そうだねぇ、おかしいねぇ、ポンカンだねぇ」
「ちゃんと聞いてるんですか!? 本当に聞いてたんですか!? 試しに復唱してください!」
「贅沢だなぁ、もう。聞いて欲しいんなら、その湿っぽい話し方やめて変な口癖戻してくれない?」
「変って何なんすか! あれはウチのアイデンティティっすよ!」
「はいはい、ごめんねぇ。アイデンティティだねぇ」
世にも奇妙な慰め問答は続く。近所迷惑な全身全霊の叫びも今は母なる海の藻屑となる。




