敗走
胡桃がマルコの策略に気づいたのはそれから随分後のことだった。その頃には彼女は肩で息をするほどに疲労していた。その疲れは瞬間移動を何度も繰り返したこともあるが、喫煙で体力が落ちていたことがもっともな理由だった。
すでにトランスポートシンドロームの前兆である頭痛が現れ始めていた。彼女からせせら笑いは消えていたが取り巻きは格下相手に思いの外苦戦し焦っている姿を見てくすくすと笑っている。それも彼女の焦燥を駆り立てる原因でもあった。
「何笑ってるんだ、お前ら!」
せせら笑いだけでなく、余裕も消えていた。見物を決め込んでいる取り巻きに大声を出して当たる。
「ダメですよ、女性がそんな大声あげちゃ……」
対してマルコは煽る余裕を見せた。
だがしかし、
「はっ……師範代は口だけは達者なようで」
だがしかし、胡桃の指摘にあるように口だけは達者であり他は見ていられない惨状だった。
膝は両方とも擦り剥け今も血液が固まらず止まらず垂れている。治り始めていた手のひらもコンクリートのざらついた地面で浅く擦り剥いていた。一度着地に失敗し、地面に肩を叩きつけてしまった。痣は残らず動かせなくもないがキリキリと痛む。
両者で余裕が無いのはマルコのほうだった。呼吸困難だが意気揚々。体全体の筋肉が発酵したパンのように膨らんで思うように動かないが、顔は今も睨んだままだった。
彼はまだ勝ちを諦めてはいなかった。作戦は全て上手く行っていると信じて疑わず、孤軍奮闘していた。
「降参するなら今のうちですよ」
マルコは煽り立てる。しかしもはや焦燥しきっている胡桃には意味がない。これは自分のための自己暗示だった。どんな窮地でも自分は勝っている、優れていると鼓舞して戦わせる。一度、怖くて震えが止まらなくなった時に姉がしてくれたように、今度は自分で自分を奮い立たせた。
「……もう少し……もう少しで勝てる……」
この呟き、独り言は初めてではない。先程から何度も繰り返している。
息を整えるために深呼吸をする。そして駆けて吶喊する。
「うおおおおおおおお!」
今の彼は子供が背伸びした紳士ではない。敵意という激情を剥き出し、正義という本能を隠さない隠せない獣だった。
全身全霊で掴みかかる。避ける胡桃の上半身の反応がワンテンポ遅い。脅威である両手の妨害もない。もらった、と確信し手首を完全に捉える……その直前に、マルコの身体は宙に浮いた。
「え……」
またも何が起こったかわからず、マルコは受け身も取れず、地面に腹から着地してしまう。腹と足に痛みが走る。
宙に浮いたのはなんてことのない、ただ足に足を引っ掛けられて転倒しただけだ。
彼は根本的な事実を見落としていた。胡桃が必ず瞬間移動能力だけで回避しなくてはいけないルールなんて存在しない。これは鬼ごっこですらないのだから当然だ。彼にとって正義の為の聖戦だったかもしれないが、彼女にとっては猫をじゃらす程度の戯れに過ぎなかった。
起き上がろうと肘を立て上半身から起きようとするも、
「あれ……」
力が入らずに二度寝してしまう。すでに身体は持ち主の言うことを聞こうとしなかった。ついに体力の限界に達してしまっていた。
「人が遊んでいればいい気になってよぉ……! ちょっと痛い目見ないとダメだな、こりゃぁ……」
逃げられないマルコの傍らに立って見下す。猫を弄んでるようなせせら笑いではない。憎悪が芽生え、野良猫に手をひっかかれたようなきつい眼差しをしていた。
マルコの耳元でサッカーボールを蹴る前のように大きく足を振りかぶるも、
「なんちゃって……」
取りやめて少し横にずれて、今度は腹を目掛けてもう一度足を振りかぶる。
「……っ! ……っっ!」
瑠璃は必死でもがくも犬見は決して離さなかった。
「ダメだよ……そんな小さな子をいじめちゃ……」
小見山はか細い声で止める。身体は恐怖で動かなかった。反らした瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
他も小見山と同じ反応だった。目をそらし耳をふさぐ。見たくも聞きたくもない光景がこれから起きようとしているのだから当然の反応といえる。
場の空気は一瞬止まる。これから始まる凶行の衝撃に備える、そんな中、
「ちょっと待ったー!」
透はひときわ大声で叫んだ。全員の視線が彼女に向いた。
倉庫にいた全員が突然の訪問者に唖然となる。それもそのはず、彼女はマルコが被っている鍔の出た帽子を被り、顔にはサングラスをかけていた。ここにマスクがあれば不審者三種の神器が揃ったのだが、花粉症や風邪と無縁な彼女は持ち合わせていなかった。
皆がマルコと胡桃に気を取られているうちに彼女は音を立てずに中に侵入していた。
「誰だ、お前。変質者か?」
胡桃のその問いに透は、
「そこのヤンキー! 今すぐそこのしょうね……少女を開放しろ!」
特撮のヒーローみたいにキレのある動きからポーズを決める。
「さもないと……こうだ!」
問答無用で尻ポケットから素早く、お馴染みの改造発煙筒を取り出して火を点ける。
「エクスプロージョン!」
口からデマカセを言いながら発煙筒を放り投げた。空中で煙幕が撒き散る。
突然の出来事に胡桃はパニックになり、マルコから離れた。その隙に透はマルコをおんぶして唯一の出入り口から抜けだした。
空が灰色に、湿度が上がり、小雨が降り始めていた。天候は透たちに味方している。
敷地を脱出し、バス停とは逆方向に走りだす。
「念のため、駅とは逆方向に逃げるよ」
「透……さん……」
精悍さが抜け切った声で名前を呼ぶ。
「大丈夫大丈夫、里見透バスは揺れるけど早いから」
透は心配ご無用と笑って返す。
しかし、マルコの心配は断じて無事に逃げることではない。
「違います……降ろしてください……」
まだ残っている人たちに危険に晒されている。戻って戦わなくてはいけない。
透から笑いが消える。前に向き直り、より加速する。
「……降りたいなら降車ボタンを押せば」
サイボーグではない生身の人間である彼女にそんな物が備わっているはずもなく、マルコは終点まで降りられなかった。




