見送りのない羽ばたき
透は口の中の不愉快さに目を覚ます。布団から出ると明かりが付いたままだと気付く。
時刻は深夜。子供はトイレに行ったら二度寝する時間だ。
寝間着に着替え電気を消して寝ようにも目が覚めてしまっている。歯磨きをしに洗面所に向かう。
その途中、明かりが漏れている部屋があった。有雁の部屋だった。
透は母親が夜更かししてるのだろうかと思い、ドアをノックする直前、喧嘩の最中だったと思い出してぎりぎりで手を止める。それでも部屋の中の様子が気になり、透視で覗いた。
結果は、有雁はまだ起きていた。風呂に入った後のようで麗しい黒髪がさっき見た時よりもしんなりとしている。
透はあの黒髪が羨ましくて堪らなかった。自分の髪型といえば茶色で癖っ毛で雑種の野良猫のように思えたからだ。有雁はそれでも可愛いと褒めてくれたがコンプレックスは消えなかった。なんで娘なのにあの髪が自分に遺伝しなかったのかと理不尽さに嘆いたこともあった。事実を知って納得した。道理で遺伝しないわけだと泣きたくなる。
有雁は自室で物を広げていた。その中で透から最初に見えたのが虫の図鑑だった。彼女は大の虫嫌いであり視界に入った瞬間に叫び声を上げたくなるも両手で抑える。
クローゼットが開いていたのでその中に入っていた物と察する。
有雁との約束でクローゼットの中を覗いてはいけないという約束があった。かつてその約束を破り、透はクローゼットの中を透視で覗いたことがあるが、虫の図鑑が手前に置かれてあり、それ以上透視したことがない。
(お母さんめ……あれはわざとだったのか……)
つまりあのクローゼットの中には有雁の秘密が隠されている。偶然にも透は知ることになる。
虫の図鑑に慣れて、視線をずらす余裕が出来てきた。次に見付けたのは絵本だった。
(あ、あれは……きつねさんシリーズ?)
透が病院から帰った後に家中をくまなく探したが結局見つけられなかった絵本がクローゼットの中に入ってあった。何か後ろめたい理由があるとは思えず、たまたまクローゼットの中にしまっただけだろうと気にしなかった。
最後に見えたのが位牌だった。初めて見る物だった。仏壇に飾る物であるはずの位牌が何故か虫の図鑑と絵本と一緒に隠されていた。
「お姉ちゃん、お久しぶり……」
有雁は手を合わせながら元気の無い声で呟く。先ほどの怒った形相とは別人で、また、いつもの表情でもなく、眉も目も鼻も口も垂れ下がってるかのように、入院していた時よりも弱った表情だった。
「最近ますますお姉ちゃんに似てきました。性格は正直で素直で真っ直ぐで。いつも私の先を行く、並ぼうとしても追いつけない、お姉ちゃんに似てきました。高校で親から自立する辺り、本当に血がつながってるんだなって……お姉ちゃんと同じ透視能力に目覚めた時から知っていたけど、ますますそう思えるようになってきました」
遠くの誰かに手紙を綴るように、遠くの誰かの手に縋るように、独白は続く。
「今日ね、ついに透が私が本当の母親じゃないって気付いたの。いえ正確には今日じゃないわね、前から気付いていたのかもしれない……知っていながら私の嘘に付き合ってくれていたのかもしれない」
透は声に出さずに否定する。
(違う、気付いたのは本当に最近。病院での出来事がなければ一生気付かなかった)
有雁はなおも弱々しく立ち直らずに続ける。
「いつか自分から話さなくちゃいけないとはわかってた……それじゃあ、いつ話すつもりだったのかと言われたら全く考えてなかったな。できるならずっと気付いてほしくなかった。でもそれではダメなのもわかっていて、何も出来ずにウジウジしていた結果があの子を裏切ることになったのね。あんな怒ったあの子は初めて。怒られたのはいつぶりだろう……すごく、辛かった。優柔不断な……いえ、臆病で卑怯な私に相応しい報いだと思わない?」
透は再び声に出さずに否定する。
(違う、お母さんに報いなんて必要はない。お母さんはいつだって第一に私のことを想ってくれていた)
「ところでお姉ちゃん、知っている? 超能力が女性にしか発現されない理由。最近の研究で先祖返りだと判明したらしいよ。ご先祖様がまだ木の上にいた頃、一部のメス親が子供の養育のために発達したとされているの。最初は念動力、透視能力だけだった。それぞれ子供を抱えたまま両手が使えるように、より栄養価の高い木の実を得るのに使ってたそうなの。だから…………だからね………………」
張っていた糸が、音もなく切れる。
「だから、私に……超能力のない私に……母親の資格はないのよ……! だから愛しいはずのあの子を裏切れるし殴れるんだわ……! 私はどんなに繕っても贋物なのよ……!」
真夜中の自室で、位牌を目の前に、うなだれてむせび泣く有雁を見て、透は衝撃を隠せなかった。一生のトラウマになり得る衝撃だった。
温和で綺麗な黒髪で、ドジなところがあるけれど芯のある女性だと思っていた。絵に描いたような理想な母親だと憧れていた。あんな母親の元で育つのだから自分は世界一の幸せ者だとゆるぎのない根拠付きで信じていた。
泣き崩れる母親の姿を見ながら透は三度声に出さずに否定する。
(違う、違う違う……いつも私より早起きしてご飯を作ってくれる人が、仕事が忙しいのに少し遅れて帰ってぐらいで大げさに謝る人が、勉強が面倒で隠していた夏休みの英語の宿題を徹夜して手伝ってくれた人が、母親の資格がないはずがないだろう!)
今にも有雁の胸元に泣きつきたかったが、それすらも耐えてしまう。それどころか正義、親情がより強固になった。
甘えてはいけない。有雁に成長した姿を見せて、彼女の正しさを証明しなくてはいけない。甘えるのはそれまで我慢しなくてはいけない。
透は踵を返し、自室に戻り、自分の温もりが残っている布団に潜った。
意志は固まったはずなのに一度眠ってしまったせいか、なかなか眠りにつけなかった。
それから透が旅立つ日になった。
二人の仲は一向に良好化しないままだった。あの日の次の朝、リビングのテーブルには有雁のサインが入った書類が置いてあった。入学が許された。そのはずなのに透の気持ちは釈然としなかった。
透は誰に言われるまでもなく、自室で荷物の確認をする。ほとんどが配送で送られているので手持ちは少ない。忘れていけない物は寮の鍵と財布と新しく購入した携帯電話ぐらいだった。
部屋を出る。何か一つ忘れ物でもしようかと甘い考えが湧くが、すぐに切り捨てる。
最後に母親の顔を見ようとリビングへ向かう。有雁はテレビを見ていた。透からは彼女の表情が見えない。見えるのは後ろ姿だけで、あの日見た麗しい黒髪が今は少し見窄らし、よく探せば枝毛が見つかりそうな後ろ姿だった。
「……いってきます」
「……いってらっしゃい」
そっけなく無愛想に挨拶は終わった。あの日から二人の会話は激減した。交わす言葉はせいぜい、いただきますとごちそうさまぐらいだった。
透は何も考えないようにしながら玄関へ向かった。靴を履いて、扉に手を添える。
何となく後ろを振り返る。手を振って見送る人はいない。それでも透は呟く。
「……いってきます、お母さん」




